その晩、私は心配するアビゲイルや執事を置いて、エリゼ先生と外出した。先生に言わせると、装備以上に大切な準備があるのだそう。
「フェニックスを連れて行って……行きません」
エリゼ先生のひと
「港まで歩くわよ」
「ひゃい」
王都に食い込む形で湾が形作られており、そこは天然の良港となっている。
間もなく夏の出港のシーズンは終わり。出港を待つ巨大な帆船を左に見ながら、私たちは湾の北側の端っこ、海に突き出している灯台の根本まで来た。
月明かりと星のおかげで、空と海の境い目がやっと分かるくらい。
灯台から漏れる明かりで、手元はよく見える。
風もなく静かに
海を見ると、潮風を感じると、私はお母様を思い出す。
「海の娘の
お母様はそこでお父様と出会い……身分の差を乗り越えて結婚した。
そして生まれたのがお兄様たちと……私。
「ノル」を名乗る名誉まで捨てて、なんて勇気だろう。
物思いにふけっていた私は、先生の声で我に帰った。
「オーリィ、まだあなたを弟子と認めたわけではないけれど、前の討伐パーティが……悲劇に終わってから考え抜いてきた魔法の技を、あなたに授けます」
ドキッ!
どんな技だろう?
コウモリ魔族を一撃で焼き尽くす技?
人食い鬼をなぎ倒す風魔法?
エリゼ先生は手提げから
「ただの水よ」
私の心を読んだようにエリゼ先生は微笑んで、水が半分満たされたグラスを手に取る。
縁に指を当てて、
「展開!
小さなグラスの中の水面が、銀色に光る。
「展開!」
先生がもう一度魔力を込めると、輝いていた水面が全方位に「展開」する。灯台も、私たちの身体も通り抜けて、はるか彼方の、水平線まで……。
「わあっ! きれい」
岬から見える限りの水平線が、細く銀色に光っていた。
「これで水平線を出します」
水平線……ダンジョンの中で何の役に立つんだろう?
「
「魔法で水平線を出せるって、すごいことなんですか?」
我ながら、間の抜けた質問だなぁと言葉にしてから後悔した。
「もう一つ、気づいていると思うけれどこの魔法は障害物を透過するわ。紅白戦の玉石があらゆる魔法を
驚いた。エリゼ先生って、もしかしたらとんでもない実力者なのかしら。
そんな人に弟子入り志願なんて、私……。
「オーリィ、感心している場合じゃないわよ。ダンジョンに入る前に、あなたもこれができるようにならないと」
え、私? そもそも「展開!」の魔法って、熟練の先生方しかできませんよね? 校長先生が、運動場を引き伸ばしたように。
エリゼ先生は、有無を言わさず私にワイングラスを手渡した。
「コツは水平線を意識すること。やってみなさい」
「……ひゃい」
先生の真似をして、グラスの縁に指先を置き、
「展開!……キャア!」
ピシィッ! と音がして、ワイングラスが四方へ飛び散った。
「最初にしてはよくできているわ。もう一度。水そのものではなく、水面を意識して」
「ひゃい……展開!」
キィン!
今度は、ワイングラスが水面の線で輪切りになった。
「良いわよ。その調子」
「展開!」
また、グラスが吹き飛んだ。
「先生、私、練習しておきますから……」
「いいえ。逃げてはダメ」
私は、涙目で次のグラスを握る。
「展開!」
なんとまあ、反応さえしない。
「集中して。オーリィ。あなたならできる。いえ、常に一歩引いて冷静に判断するあなたにしかこの魔法はできない」
深呼吸。先生の期待に応えなければ。
「展開!」
一瞬、グラスの水面が光ったが、外へ光を放つ前に手が揺れて、
そうか、この魔法は精神力だけではなく、体力も要るのだと理解する。エリゼ先生はいつも姿勢正しく、さっきのお手本の時も、水面は揺れていなかった。
もう一度。姿勢を整えて、息をひそめて。
「展開! 水面のごとく!」
キラッと水面が輝いた。
今だわ!
「展開!」
さああっと、銀色の光の膜が広がったけれど、エリゼ先生のようにはるか遠くの水平線まではとても届かずに、はかなく消えた。
「まだ精度も距離も足りないわね。地球は丸いの。だから海面は空と線で交わる。その遠さを意識しなさい」
地球規模の魔法を私が?
頭がくらくらする。
「先生、本当にちゃんと自習しますから、今日はここまでにして……」
「いいえ、ある程度できるようになるまで帰しません」
そんなぁ。
「グラスはまだまだ用意しているわよ。しっかり立ちなさい、オーリィ」
集中力が切れて座り込みそうになる背をエリゼ先生が支えてくれた。
「二十年……私が試行錯誤して実用化するまでに、二十年かかっているの……」
「先生……」
それを一晩でできるようになれって無理です。
「ダンジョンの中ではいくらでも『もうダメだ』と思うことが起きるわ。強くなりなさい、オーリィ」
「ひゃ……はい」
優しくも厳しい特訓は、礼拝堂の鐘が真夜中を告げるまで続いた。
「……先生、やっと毎回光るようになりました……」
「よくやったわ。もう二、三日続ければ、この魔術は身につくでしょう。魔族と対決するダンジョンでは欠かせぬ技になります」
「今日は、もう、おしまいで、いいですか?」
「ええ。帰りましょう」
今ほどフェニックスが恋しい時はなかった。
ホウキで一気に屋敷まで帰りたい……。
でも、先生が、しっかり送ってくれて、しかめっ面の執事に、遅くなった理由もちゃんと説明してくれた。
私はそのままベッドにダイブ。
クタクタだった。
翌日の特訓は昼間だった。
「展開! 水面のごとく!」
エリゼ先生の展開した水面は真昼なのに水平線に重なって銀色に輝いて見える。すごい。
「次はあなたよ」
夜でも切れぎれに水平線を指すのがやっとの私の「展開!」……太陽の輝く中で?
「……ジャンの生命を助けたときの集中力があれば」
だってあの時は彼の生命がかかっていたから。
「あなたの出す水平線を元に、パーティの進む方向が決まるのよ。責任は重大」
エリゼ先生のプレッシャーに、私はすっかり萎縮してしまい、またグラスの水面は光らなくなってしまった。
「……言い過ぎたようね。オーリィ、でもあなたに期待している」
「ひゃい!」
頑張ってみる。
遠く、海面が空と接するまで遠く。
「展開! 水面のごとく!」
特訓の結果、エリゼ先生より少し不安定だけれど水平線を「展開!」できるようになった。
あの……私、エリゼ先生の弟子と言って良いのでしょうか?
「ごめんなさいね……私の過去を背負わせてしまって」
先生の口調が変わった。
手提げから真紅の絹に包まれた重そうなものを出して、私に手渡した。
布をほどくと、夕日の中で鈍く金色に光る器具が現れた。
「これは……」
「オーリィ、あなたにこれを預けるわ」
渡されたのは手のひらより二まわり大きい扇形の金属で、筒やレンズが付いている。
「二十年前、私たちパーティが使った六分儀。勇者ルシアンの遺品よ」
「そんな! そんな大切なものを、私なんかに……」
うつむくエリゼ先生の表情は暗くて見えない。
「ルシアンの魂が、あなた達を導いてくれますように。強くなって戻っていらっしゃい。オーリィ。その時は一緒に魔法史の研究をしましょう」
「……先生」
手渡された信頼の重みはわかる。
でも、私自身、六分儀や緯度経度を測ることの大切さを、まだ分かっていなかった。