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第8話 母とおじいさん

こんばんは。

今週もまた時間ができましたので、

母のエッセイを書きに来ました。

母は軽い認知症が出始めていて、

いろいろな新しいことが覚えづらくなっています。

そのあたりをサポートしつつ、

母の思い出話をいつも聞いています。

私はこうして小説を書いていますので、

いわゆるフィクションのでっちあげは慣れたものです。

母の思い出も、いろいろ断片的でありますが、

その断片の思い出をつなぎ合わせて、

ひとつの心地いい形に仕上げるのも、

小説を書いている私の役目かと思います。

パズルを仕上げるというよりも、

金継ぎをするようです。

母の思い出を私が形にしていって、

母の中でいい形にしていく。

母に憂いがなくなれば、

小説書きのフィクションのでっちあげも悪くないと思うのです。

当時の人はどんどんいなくなっていきます。

母も認知症が進めばどんどん忘れていきます。

母の思い出の形として、私の物語が残っていけば、

それが母の心地いい形のものであれば、

このエッセイも意味があるのではないかと思うのです。

当時を証明するものはほとんどありません。

認知症の出始めた母の思い出話が頼りです。

そこに私のでっちあげが入ります。

全てが真実ではないかもしれません。

それでも、私と母にとっては、その物語が心地いい真実になるかと思うのです。

母がどれほど生きてくれるかはわかりませんが、

私が書いたエッセイによって、

でっちあげたものによって、

母に憂いがなくなって穏やかに後悔なく旅立つときが来たのならば、

母の生きた意味はあるのでしょうし、

母の心地いい形が残ると思うのです。

今の母は元気ですので、もうしばらく元気に生きていると思います。

いつまで生きるかは私も見当つきません。

とにかくとても元気です。

フィクションを書く小説家として、

誰かを幸せにできれば、それが一番いいと思うのです。

このエッセイに関しましては、それが母なのです。

認知症の入った母の思い出話と、私の隙間埋めの代物です。

完全な真実ではないかもしれません。

それでも、誰かのもとに母の記憶が残ってくれれば、

それが一番だと思うのです。

今回も、母の記憶が雨と降ります。


今回は、母と、母のおじいさんについてです。

いくつか前の母のエッセイで書いた、

母の、父方のおばあさんの話がありました。

今回は、その配偶者であります、

母の、父方のおじいさんのお話になります。


母の父方のおじいさんは、とても大雑把に年齢を計算しますと、

おそらく明治生まれではないかなと思います。

幼い母からしますと、おっかないおじいさんであったようです。

顔は達磨大師のようであったと聞きます。

目がぎょろってしていて睨んでいるようであったのだろうと思います。

達磨大師として描かれているものは、

にこやかなものは少ないように思います。

前を見据えているように、怖い顔をしております。

幼い母は、おじいさんにそんなおっかなさを見ていたのでしょう。


おじいさんは、とにかく厳しい方であったと聞きます。

孫である、母や、母の姉などを、

悪さをしたら、ごちんとげんこつしていたと聞きます。

母がいたずらをした時などは、

逃げる母に向けて、石を投げたといいます。

その石がビュンと加速して曲がったと母は言っていました。

スライスがかかっていたと母は言っていましたが、

仮にも孫に向けて、スライスがかかるほどの威力のある石投げをするあたり、

おじいさんという人は、容赦がない方だったのでしょう。

また、おじいさんは、孫が悪さをした際、

家の欄間あたりに置いてあった棒をつかんで、

棒術で孫を懲らしめたと聞きます。

棒術の腕は相当なものらしく、母から、それも怖かったと聞きました。

母が、おじいさんの棒術の流派を尋ねたところ、

無敵流だと答えたと聞きました。

強い棒術が無敵流とは出来すぎていると母は笑っていましたが、

グーグルで検索しましたところ、

無敵流というのが架空ではなくあるらしいので、

出来過ぎとはいえ嘘ではなかったんだなと思います。


おじいさんは手足も大きく、ごつごつした身体であったようです。

母の父もかなり大柄な方であったようですが、

おじいさんはさらに大きな方であったようです。

明治のあたりは、もしかしたら、

武術を会得することが今よりも当たり前だったのかもしれません。

身体を鍛えるためにという柔らかい理由でなく、

男たるもの武術をおさめ、心技体を強くするというような、

かなり強い理由があっておじいさんは身体を鍛えていたのかもしれません。

このあたりは私の憶測が多分にありますが、

令和の今よりも、

明治生まれの方は、実践的な武術を学んでいただろうと憶測するのです。

かなり厳しい稽古をしたと思います。

その教えがやがて、孫にも厳しいおじいさんを作ったのだと思います。

母のおばあさんの話にも書きましたが、

おじいさんは幼い頃ははなたれ小僧だったらしいです。

そのはなたれ小僧を強くしていったのは、

無敵流の厳しい稽古だったのではないかなと思うのです。

当時は今よりも、男が強くなって家族すべてを守るものというのがあったのかもしれません。

母のおばあさんは強くなっていくおじいさんを見て、

はなたれ小僧から評価を変えたのかもしれません。


さて、最後におじいさんの別の側面のお話もしましょう。

母には、母の姉と、母の上の弟と、母の下の弟がいます。

兄弟は四人でした。

母の上の弟は長男として、家を継ぐという空気があったようです。

何度かエッセイに書いたように、米屋が傾いて貧乏でしたから、

継ぐ家も大変であっただろうと思います。

そして、母の下の弟、つまり末っ子ですが、

この末っ子を、おじいさんはとてもかわいがったようです。

末っ子の背中を、大きなおじいさんが小さくなりながら、

コリコリとかいてあげているのを母は見たそうです。

末っ子はおっかないおじいさんを知りません。

おじいさんは優しく背中をかいてあげて、

ここか、ここか、と優しく尋ねるのだそうです。

おじいさんの怖さがわからない幼い末っ子は、

そこじゃない、なんで僕のかゆいところがわかんないんだと、

かなり無茶苦茶なことを言ったそうです。

そんな末っ子の無茶苦茶な言い回しにも、

おじいさんはにこにこと笑っていたといいます。

末っ子は、家を継ぐこともなく、

おじいさんとしては、ただただかわいかったのだろうと思います。

孫は目に入れても痛くないという表現そのものだったのかもしれません。

昭和の頃ですから、男女の区別は当時あったのだと思いますが、

それを差し引いても、小さな末っ子は、かわいくて仕方なかったのだと思います。

おじいさんは睨み付ける達磨さんから、

ある意味仏のようなものになったのかなと思います。

達磨大師も、法を教えた方であると思いますので、

睨み付ける眼光の鋭さの中に、

仏の心があったのかもしれません。


今回は、母の父方のおじいさんのお話でした。

母のお話をもとにしておりますので、

母が感じたことが中心になります。

実際おじいさんがどれほどの人だったか、

歴史に残っている訳ではありません。

それでも、母の記憶としておじいさんがあって、

母の語ったことを私が形にしていきます。

このエッセイが残っていけば、

おっかないおじいさんが母に石を投げたことなどが、

誰かの記憶に残るのだと思います。

小さくても、誰かの記憶に母や、母の周りの誰かの記憶が残れば、

書いた意味があるのだと思います。


また、時間がありましたら、

母のエッセイを書きに来ます。


ではまたいずれ。

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