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第11話 母と母の父

こんばんは。

今週も時間がありましたので、

母のエッセイを書きに来ました。


近いうちにもっと現代寄りの母のエッセイを書く予定ですが、

どうしても母の思い出話が幼い頃寄りであるので、

昭和初期のころのお話が多くなります。

そのうち、今の母の趣味や、

母と孫のお話や、

母と娘たちのお話も書ければと思います。

とりあえず書くことは山ほどありますので、

のんびり書いていきます。

母の人生は書くことがたくさんある人生です。

普通に暮らしましたという文章では終わらない人生です。

私も精一杯書くのですが、

どれだけ書いても、母の本当の実体験の強さには敵いません。

私の書くエッセイはエッセイに過ぎなくて、

母が生きたという事実には、到底敵いません。

今も母は元気に生きていますが、

それまでにどれだけの経験をしたのかと考えますと、

私がどれだけ書いても追いつかないような気がします。

長く生きるというのは、それだけですごいことです。

それだけたくさんの経験をしたことであり、

その記憶がたくさんあるということです。

今回も、母の記憶が雨と降ります。


今回は、母と母の父についてです。


母の父は二郎さんです。

長男が家に代々伝わる名前を継いで、

母の父は次男ですので二郎になりました。

長男さんは家を継ぐもの。それは昭和の頃では当たり前だったようです。

二郎さんは当時としてはとてもお給料がよかった、

満州鉄道に就職したようです。

満州鉄道で働いて、戦争になって、

戦後帰ってきたら、満州鉄道で働いてためたお金は、

お金の価値が変わってしまって、

ほとんど役立たずになったようでした。

あれだけたくさん稼いだのに、

妹の結婚祝いのコートも買えなかったと言っていたようです。

二郎さんはお金をためて、

大学に行きたかったようです。

本が好きで、考えることが好きで、

学者になったり、役所勤めをしていたりすれば、

二郎さんは大成したかもしれません。


いつのころかはわかりませんが、

長男さんは亡くなってしまって、

長男さんの妻であった女性を二郎さんは娶りました。

昭和の頃はあったものだと聞きます。

その女性が、母の母です。

長男さんの間にできた子供が、母の姉で、

二郎さんとの間にできた子供が、

母と、母の弟たちであったようです。

長男さんが亡くなってしまって、

二郎さんは家を継ぐことになりました。

いくつか前のエッセイに書きましたように、

母の父である二郎さんには商才がありませんでした。

戦後ということもあったのでしょうし、

二郎さんは商売を考えるような頭をしていなかったのかもしれません。

継いだ米屋は傾いていって、ついには廃業になりました。

二郎さんがそのあとどんな仕事をしていたかを母から聞いていませんが、

日雇いをしていたとか聞きました。

あまり語りたくないのかもしれません。

もし、長男さんが亡くならず、

二郎さんが学者や役人になっていたら。

人生は全然変わっていたかもしれません。


二郎さんは、満州時代のことだと思うのですが、

料理をよく作る方であったようです。

満州から帰ってきましても、

二郎さんはよく料理を作られていたようです。

貧しい家でしたので、豪華な料理とはいかなかったようですが、

二郎さんは料理が上手であったようです。

母が二郎さんの料理のことで一番語るのが、

お蕎麦のことです。

二郎さんは蕎麦打ちがとても上手であったようです。

年越しそばは二郎さんが打っていたとのことでした。

二郎さんの手は大きく、

蕎麦粉と水を大きな手で瞬く間にまとめてこねてしまっていて、

それを見ていた母は、簡単そうだなと思ったそうです。

何かの折で試しに蕎麦を打ってみたところ、

あまりの難しさに驚いたと聞きました。

二郎さんのように全然まとまりませんし、

茹でてみてもボキボキするばかりで全然美味しくありません。

二郎さんの蕎麦打ちの技を、改めて感じたと聞きました。


二郎さんは多分、ある種の理想を持っていたのだと思います。

それは、自分のことよりも先に、他人のことを思いやれというものでした。

他人のことを思いやる。それはとても理想的なことで、

みんながお互い他人のことを思いやれば、

争うこともなく、平和になるに違いない。

理想として語る分には、とてもいいことのように感じます。

ただ、現実はそうはいきません。

他人を助けようとするあまり、

ボロボロの自分より先に他人を助けていては、

共倒れになってしまいます。

母と、二郎さんは、

母の幼い頃にそのことで一悶着ありました。

二郎さんは、自分のことより先に他人を思いやれと母に説きました。

母は、自分のことが整ってから、他人に手を差し伸べるべきだと思って、

二郎さんにそれはできないと言いました。

そうしましたら、昭和の父親です。

ごつんとげんこつが飛んできました。

母は二発目のげんこつを食らうわけにはいかないと思って庭に逃げました。

そして庭で、私は間違っていないと叫びました。

二郎さんは追うことはなかったようですが、

母はしばらく裸足で外を走り回っていたようです。

今でも母は自分が間違っていなかったと語るのですが、

二郎さんの理想は理想として、

人の善意を信じれば、それが理想と考えるかもしれないのです。

そんな理想を持っている二郎さんでしたから、

商売がうまくいかなかったのかもしれないと思うのです。


二郎さんは晩年、病気になって入院しました。

入院の最中も、本を読み続けました。

私の妹、母の娘の中の末の娘が、

二郎さんに本を差し入れしました。

いわゆる児童文学です。

二郎さんはその本をたいそう気に入ったと言います。

お見舞いに来た母に、その本を返す際に、

童心に帰ったようだと言ったと言います。

母は、本を読む習慣などないものですから、

その本の価値などわからず、そのあたりに適当に置きます。

二郎さんは、その本は俺が借りた本だ、

ぞんざいに扱ってもらっては困るとたしなめたそうです。

最後まで本が好きな二郎さんでした。

その本は末の娘のもとに返ってきて、

今でも思い出とともにあるそうです。


二郎さんはもう亡くなってしまっていません。

商売向きではない二郎さんでした。

本が大好きな二郎さんでした。

頭のいい二郎さんでした。

理想を追い求める二郎さんでした。

その二郎さんが晩年病気になった際に、

病院に通ってお世話をしたのは母でした。

その頃の母の夫は二人目の夫でしたが、

二郎さんのためにいろいろなことをしてくれて、

自由にさせてくれたのは感謝していると母は言っていました。

二郎さんのためにいろいろな手を尽くして、

二郎さんは穏やかに生き切りました。

戦争に翻弄された人生でした。

戦後も上手くいかないことが多い人生でした。

それでも理想を追い求めた人生でした。

母の父として、全力で生き抜いた人生でした。

母も、そんな母の父を、心から尊敬していたのだと思います。


親というものはどうしても追い越せないと思うのです。

私が今それを感じています。

母も、二郎さんの偉大さや背中の大きさを感じていると思います。

家を守ろうとしていた二郎さんのすごさを、

母もきっとわかっていると思います。

母は娘たちを育て上げて、

偉大なる母になりました。

今となってはおばあちゃんになりました。

そうなってさらに、

二郎さんのすごさがわかるのではないかなと思います。

多分、二郎さんは俺がすごいなどと言う方ではありません。

母のことを、よくやってるなと褒める方だと思います。

昭和の父親ではありますが、

道理を曲げることなく、理想を信じた方です。

今の母を見たら、よくやってるなと褒めてくれるに違いありません。


今回は、母の父の二郎さんについてでした。

また、時間がありましたら、

母のエッセイを書きに来ます。


ではまたいずれ。

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