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第13話 母とお弁当

こんばんは。

今週も時間ができましたので、

母のエッセイを書きに来ました。


母は小さな会社の社長をしていますが、

母の引退に向けた引継ぎを着々進めていて、

夏にはある程度引継ぎが終わる予定です。

母は、こんなおばあちゃんがいつまで働くんだろうと言っていますが、

それと同時に、いつも来れる場所があるのはいいとも言っています。

ここで必要とされるのがいいと感じている、

そんなことを言っています。

母は、働いていないというのが、

不安材料になる感性なのかもしれません。

お金があれば働かなくていいとか、

そんなことを考えられず、

働けること、必要とされることに、

喜びや価値を見出すのかもしれません。

これから引退するにあたって、

引退したら旅行に行こうとか、

もっとテニスをしようと言っていますが、

少ししたら不安になってしまうのではないかなと私などは思ってしまいます。

引退したらやりたいことを列挙していますが、

ある程度やりつくしたら、なんだか不安になってしまうのではないか。

私はそんなことを思います。

母は回遊魚のような人です。

立ち止まれないような人です。

前と思う方に進みながら考える人です。

あるいは、こっちが前だと思ったら、

何も考えずにとにかく進む人です。

そんな母が引退という、何もしなくてもいい時間が続くことになったら、

立ち止まって休んでいいという時間が続くことになったら、

大丈夫かなぁと思ってしまうのです。

母のことですから適応するのかもしれませんが、

ある程度高齢ですので、認知症が進む可能性もあります。

かといって働き続けろというのも違いますし、

引継ぎの社長とともに、

母の居場所を会社に作れたらなと私は思っています。

好きな時に、気が向いたら来ていいよという加減だったら、

どうだろうかと私は思うのですが、

立ち止まらない母は、働かなくてもいいのにずっと会社に来そうで、

今からそんなことを悩んでいます。

夏の引継ぎまでに、いろんなことをまとめている最中です。

母にとっても、会社にとっても、

いい形でまとめたいと思います。


さて、今回は、

母とお弁当についてです。


母の生まれた家は、もともとは米屋をしていましたが、

商売がうまくいかずに畳みました。

母の話し方から察するに、

小学校は給食だったようです。

脱脂粉乳が嫌いだったと聞きました。

どれほどまずいかは知らないのですが、

とにかくまずいものだったと聞きました。

そんなわけで、おそらく小学校のお昼は給食。

お弁当は中学生頃からかなと思います。

母の家業の米屋は、母が小学校高学年頃に畳みましたので、

中学生の頃は米屋をしていないと思います。

貧しい生活をしていたので、

お弁当にも潤沢にお米が使えるわけではなく、

麦ごはんがお弁当に入っていたと聞きました。

現代においては、麦を混ぜると栄養価が上がるなどと、

スーパーの米売り場に置かれていたりしますが、

おそらく母の中学生くらいの当時は、

麦ごはんは貧しい家庭のものであったのだと思います。

白米の代替品のようなものだったと思います。

麦ごはんは、炊きたては白米みたいに見えるのですが、

お弁当容器に入れて、常温で冷めてきて、

お昼に開けた頃には、

白米とは全然違う黒っぽい色になっていたと母は語っていました。

それがなんとも貧乏の象徴のようで恥ずかしい、

そんな旨のことを語っていました。

小学生とは違う、思春期の多感な時期かと思います。

家が貧しいことをお弁当で知られてしまうのが、

恥ずかしいと思っていたのかもしれません。

思春期の母にとって、麦ごはんのお弁当は、隠したいものであったようです。

食べることが恥で隠したいことになってしまうことは、

つらいだろうなと思います。

母はそんな経験をしてきました。


母はお弁当について隠したい気持ちを持ったこともありました。

その経験があるからか、

私たち娘たちのお弁当は、見れるくらいのものに仕上げてくれました。

母自身は料理が下手だからと言っていましたが、

どこに見せても恥ずかしくないお弁当が作れる母でした。

今どきですとキャラ弁などというものがあると聞きますが、

母のお弁当は目立つものでこそありませんが、

私たちの好きなものが入っていて、

確実に美味しいものが入っていました。

私は、小中学生の頃は給食で、

高校はお小遣いをもらって購買で何か買って食べていました。

ですから、私の母のお弁当の記憶は、

基本は幼稚園です。

あれはまともなお弁当であったなと、今でも思うのです。


また、母の二人目の夫が元気であった頃、

私たち姉妹がまだ幼かった頃のこと、

多分、私たち三姉妹のうちの、

三番目の妹がまだ生まれていない頃のことかもしれません。

家族で山登りに出かけようということになりました。

登山の装備があまりなくても登れるほどの山で、

上に行きたいだけならばロープウェーもある山です。

山の上でお弁当を食べよう。

そんな計画になりました。

母は朝から張り切ってお弁当を作りました。

母は当時専業主婦でしたが、

家族の分のお弁当を作るのは大変であったと思うのです。

おにぎりにはイクラが入りました。

ワンタンの皮でプロセスチーズを巻いて揚げたものもお弁当に入れました。

お弁当の定番の唐揚げも揚げて入れました。

ほうれん草のおひたしもあります。

母の二人目の夫も私たちも大好きな、

母特製厚焼き玉子も入っています。

この厚焼き玉子が絶品でした。

さて、天気のいい休日、同じことを考えた家族連れがたくさんいたと見えて、

山に登るための登山口の、駐車場に至るまでの道で、

大渋滞になりました。

前にも後ろにも進めません。

そうこうしている間にお昼頃になりました。

このまま駐車したとしても、

山の上に登るまでお昼ご飯を我慢することはできません。

結局、なかなか進まない車の中で、

みんなでお弁当を食べました。

そのお弁当の美味しいこと。

どこに出しても恥ずかしくないとはこのことで、

空腹ということもありましたが、

お弁当のかくあるべき姿であったように思います。

家庭で作るお弁当の理想が詰まっていたと私は思います。

結局山の上でお弁当は食べられませんでしたが、

母が作ってくれたお弁当と、それをみんなで食べた記憶は、

こうして記憶に残って、

母も、あの時のお弁当は美味しかったねと語るのです。

学生の頃にお弁当で恥ずかしい思いをした母は、

恥ずかしくないお弁当を作れる母になりました。

私たちはお弁当で恥ずかしい思いをしたことはありませんし、

むしろ、お弁当でいい思い出を得たことの方が多いです。

食べることに関連していい思い出があるのは、

幸せなことだと思います。

美味しいも当然いいことではありますが、

あの美味しいの記憶に、こんなことがあったと、

関連付けられて幸せな記憶があると、

記憶の中の幸せは何倍にもなります。

母の作ってくれたお弁当の記憶は、

そうして幸せの記憶になります。

お弁当を作っていた母の記憶がどうなのかはわかりませんが、

山登りのお弁当の記憶を楽しそうに語る母を見ていますと、

母も幸せだったのかなと思います。


母も、いろいろなお弁当を食べたり作ったりしながら生きてきました。

開くのが嫌だなと思ったお弁当もあったようですし、

ワクワクしながら開いたお弁当もあったでしょう。

娘のために作ったお弁当もあったでしょう。

その前に、若かりし頃には、

デートやピクニックで作ったお弁当もあったでしょう。

たくさんのお弁当の記憶がまだあるものと思いますので、

母に記憶があるうちに聞いて、また、書ければなと思います。


また、時間がありましたら、母のエッセイを書きに来ます。


ではまたいずれ。

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