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第14話 母と女の孫

こんばんは。

今週も時間がありましたので、

母のエッセイを書きに来ました。


何度か書いたことなのですが、

母は二人目の夫が残した会社を継いで、

今は社長をしています。

母の三番目の娘の配偶者に会社を継ぐことが決まっていて、

今は引き継ぎの最中です。

次期社長の彼は、母の残したものをせっせと整頓してくれています。

母は重要だと思ったものはとりあえず捨てずに、

一ヵ所にまとめて置いてありますので、

大事なものがないことはないようなのですが、

いかんせん探すのに手間取るそうです。

多分、捨てずにいたものが膨大で、

そこから探すのが大変なのでしょう。

それでも着々と会社の引き継ぎ手続きを進めていってもらって、

私はと言うと、

その会社で事務員を続けることになっています。

母のやり方では負担が大きかったことなどを、

徐々に効率化していこうとしてくれていたり、

いい意味での働き方改革です。

私は長く付き合わなければいけない統合失調症というものを患っていて、

あんまり仕事が忙しいと処理しきれなくてパニックになります。

次期社長はそのあたりも何となくわかってきてくれていて、

こうしようああしようなどを提案してくれます。

母の三番目の娘の、次期社長の妻も、

一度適応障害を診断されたと言いますし、

どうしたらいいかを考えるのに慣れているのかもしれません。

頭がいい方なのだと思います。

とりあえず統合失調症持ちでは他に就職のあてがないことと、

これから会社の環境が新体制になることなどを考えると、

母が引き継ぎを終えて退いた後も、

この会社でがんばれそうだなと思っています。

当の母はといいますと、

やり方が変わることに不安を持っていたり、

次期社長は大丈夫かしらとぼやいていたり、

社長である感覚そのままに、

娘たちのいろいろなものにお金を出してあげようとしています。

娘が誕生日となれば、

お食事会をしてその代金を持とうとしましたリ、

孫が何かいいことがあれば、

お祝いと称してちょっといいレストランなどでお食事会をして、

やっぱり代金を持とうとしたりしています。

なんだか、私たち姉妹も家庭を持った大人なのですけれど、

母にとっては娘はいつまでも娘で、

孫はいつまでもかわいい孫なのかもしれません。

母はいつまでも母なのだなと思ってしまいます。

また、認知症のはしりも出ているので、

今月次期社長に渡すお給料はいくらだったかしらと、

次期社長にお給料を渡した後に私に聞かれます。

お金に不自由がないのと、認知症が少しあるので、

何度も渡そうとしてしまうようです。

幼い頃、お金に苦労した母です。

今は社長として、お金に不自由しない暮らしをしていますが、

自分のために使うよりも、

娘や孫のために何度でも使おうとしてしまうあたり、

認知症が入ってきても、やっぱり母なのだなと思います。


さて、最近の母のことを書いたうえで、

今回は、母と女の孫についてです。


母には、娘が三人いて、

長女が私、次女には娘が二人いて、この二人が母の女の孫です。

三女には息子がいて、この子が母の男の孫になります。

長女の私には子どもがいません。

晩婚だったので無理だったと思ってください。


さて、母の女の孫についてのお話です。

語るにあたってかなり大きな出来事としましては、

東日本大震災です。

震災当時、女の孫の姉の方は3歳。

妹の方はお腹の中にいて、臨月でした。

母の家の近所に住んでいた次女たち家族を、

まとめて母の家に避難させて、

震災直後は大家族状態でした。

ガソリンがなくなると言われ、

ガソリンスタンドに行列ができる中、

母は車を出して、百貨店に何度も行って、

たくさんの食材を買って、みんなのお腹を満たしました。

3歳の女の孫は、とても不安であったようで、

何か食べたいとしきりに言ったものでした。

食べている間は安心できたのかもしれません。

いよいよ生まれるということになった時、

深夜に産婦人科まで車を出すことになりました。

私は3歳の女の孫を寝かしつけていてほしいと言われ、

母の二人目の夫は、母の次女が出やすいようにと、

玄関を大きな音を立ててガラガラと開きました。

うるさくしたら起きちゃうとたしなめられたようでした。

母と、母の二人目の夫と、母の次女は車に乗って出て行きました。

震災でめちゃくちゃになった道をガタゴト言いながら走ったと聞きます。

震災からほんのわずかしか経っていなくて、

復旧もほとんどできていない道です。

深夜の道を走り、産婦人科で出産して、

家で待っている私のもとにも連絡が入ってホッとしたのを覚えています。

きっと、車を運転したのは母です。

娘の身体を最大限気遣っても、

荒れた道を走るのは大変だっただろうと思います。

深夜の道ならばなおさらです。

みんなよくがんばったなと思います。


それから数年が過ぎて、

母の女の孫たちも小学生になりました。

母は思い立って、

女の孫たちを連れて沖縄に行こうと言い出しました。

母と、女の孫たちだけの旅です。

田舎町から電車に乗って東京へ、

そこから羽田空港に行って飛行機で沖縄へ、

那覇空港から美ら海水族館の近くのホテルへというルートを決めました。

ホテルを取ったのは私だったと覚えていますが、

飛行機チケットもそうだったかな。

母がとにかくネットなどに疎い人なので、

できる限りのサポートをしました。

女の孫たちもいい子に育っていて、

母の言うことはちゃんと聞いてくれて、

勝手にあっちこっち行くこともありませんでした。

美ら海水族館では、

ジンベイザメが飛んでいるように感じられる大きな水槽が、

改修か何かなのか、黒い線のようなものが入っていたようです。

いわゆる画像に残す際には、

黒い線は入れないでねと孫たちは言っていたようですが、

後日、何らかの絵画コンクールにおいて、

沖縄の思い出を描いた孫の作品が入賞したそうです。

それを見に行った母いわく、

黒い線がくっきり入っていたようです。

インパクトあったんだなと母は笑っていました。

また、沖縄旅行の後日談がありまして、

沖縄から田舎町に帰ってきて、

孫たちを次女にちゃんと渡した後、

母はインフルエンザを発症しました。

それまでどれほど気を張っていたのか、

無事に帰ってきたことでどっと疲れなどが出たのか、

多分どっちもだと思いますが、

本当に、よくがんばったと思います。


今、母の女の孫は、

中学生と高校生になっています。

今どきの若者と言っても差し支えないかもしれません。

母の次女とその伴侶の教育がちゃんとしているからか、

すくすく真っすぐ育ちました。

本をよく読んだり、絵を描いたりしていて、

たまに表彰されたりもしているようです。

何か賞を取ったりなんだりするたびに、

母はお食事会を企画して、

次女の家族に美味しいレストランの料理をごちそうします。

お食事会を企画するのは、

何も次女家族に限らず、

娘たちに何かがあったらとにかくいいものをごちそうです。

多分、心から嬉しいのだと思います。

娘に、孫に、いいことがあった。

それは、おそらく、母に何かがあるよりも、

もっと嬉しいことなのかもしれません。

母はどこまでも私たちの母であり、

私たちがどれほど年を取ろうとも、

私たちは母の娘なのだと思いますし、

娘や孫の幸せを、願い続けるものなのかもしれません。


これまで駆け抜けてきた母の幸せは何だろうかと、

私も少し考えてしまいます。

まだまだ書き切れないほどの波乱万丈の人生を送ってきた、

母の幸せって何だろうかと。

娘や孫の幸せも母の幸せかもしれませんが、

他にも何か母の幸せがあったかもしれないと思うのです。

母から話を聞きつつ、

母の楽しかったことや幸せ、苦労や苦しかったこと、

いろいろ書いていきたいと思います。

その中で、母の幸せを探していければと思います。


来週時間がありましたら、

母と男の孫について書きたいと思います。


ではまたいずれ。

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