こんばんは。
今週も時間がありましたので、
母のエッセイを書きに来ました。
最近母は、免疫機能が落ちたのか、
風邪をひいた上に蕁麻疹が出ました。
母いわく、魚で蕁麻疹が起きたに違いないとのことですが、
一概に蕁麻疹の原因が特定できると思いません。
ただ、母が言うならばそうなのかもしれませんし、
私も否定の要素を持っている訳でもありません。
いわゆる青魚で身体のどこかが悪くなる可能性もありますし、
また、スーパーのパックのお寿司も食べたとも聞きますし、
素人が判断できることでもありません。
蕁麻疹につきましては、ちゃんとお医者様にかかったとのことです。
このところ、私をはじめとした娘やその配偶者などが、
ちゃんとお医者様にかかれと言っていて、
それをちゃんと守っているのだと思います。
以前の母でしたら、
かなり大雑把な自己判断で、
薬を止めたり、安静にしていれば大丈夫などと言ったものでしたが、
そろそろ後期高齢者に差し掛かってきて、
調子が悪かったらお医者様にかかるというのが、
習慣づいてきたように思います。
年を取ってきますと、
ちょっとしたことで命取りになりかねないです。
原因は不明ではありますが、今回の蕁麻疹のように、
何かおかしいと思ったらお医者様にかかるようになったのは、
ちゃんと健康でいてくれているんだなと、嬉しい変化です。
ずっと元気でいてくれて、
孫たちの成長を見ていてほしいと思うのです。
会社の引継ぎは着々と進んでいます。
母は、会社を引退したらしたいことをたくさん話しています。
バスツアーに参加などもいいねと言います。
運転はバスの運転手さんに任せて、
ツアーであちこちめぐるのもいいと話します。
予約などは大体娘に任せるのだと思いますが、
そのくらいなんてことないです。
母のこれからしたいことを、たくさんお手伝いしたいと思います。
今回も、母の記憶が雨と降ります。
さて、今回は、
母と母の母です。
母という字が並びましたが、
母の母のお話です。
母の母は、苦労なされた方でした。
最初は、米屋の長男さんと結婚して、
母の姉を産みました。
そのあと長男さんが亡くなられたので、
次男である二郎さんの妻になりました。
二郎さんとの間に、母と、母の弟二人をもうけました。
母の母は当時としては地主の家の生まれだったようです。
母の実家である米屋も、
代々続く名家であったそうです。
そんな裕福な家同士という結婚もあったのかもしれません。
長男さんが亡くなられて、
二郎さんが米屋を継いで、
経営はどんどん傾いていきました。
米屋が売る米がないほどに傾きました。
幼い母は、近所の別の米屋にリアカーを引いていって、
米屋が売るための米を買ってリアカーに積んできたと言います。
お嬢ちゃんどこのお家なの、
お米届けてあげようかと言われたこともあると聞きます。
母は、頑なに自分が運ぶと言って、
重いお米を積んだリアカーを引いて帰りました。
米屋が売る米がないというのは恥だと、
幼い母でもわかっていたのかもしれません。
米屋の経営はそれほど悪化しました。
母が小学校の高学年になる頃は、
米屋は廃業したと聞きました。
母の母は、そのリアカーを引いて、
行商に出かけました。
八百屋さんから野菜や果物を仕入れて、
果物などは、見栄えがいいように磨いて、
小さな町をリアカーで歩きました。
母や母の姉などが学校から帰ってきますと、
家の近くの角にリアカーが置いてあるから、
持ってきてほしいと頼んだと言います。
母と、母の姉は、
こんなに近くまで持ってきたなら家まで持ってくればいいのにと、
文句を言いながらリアカーを持ってきたと言います。
ただ、今になって母が言うのには、
母の母は、そこまでが限界だったのではないかと。
町の中を行商して歩いて、
疲れ果てて、家の近くの角までリアカーを運んでくるのが、
限界だったのではないかと。
文句を言わなければよかったと、
母はそのときのことを語るのです。
母の母は、米屋が廃業した後、
暮らしが貧しくなってきて、
身体を病んでしまいました。
母が言うには、喘息であったらしいです。
よく咳き込み、咳き込み過ぎて失禁することもあるほどだったと聞きました。
暮らしが貧しい中でも、
母の母の医療費はかかりました。
今ほど保険が適用されていないのかもしれませんが、
相当母の母の医療にお金がかかったと聞きました。
母の父は日雇いで働き、
母の母は病んでいる中でも働き、
結果的に余計身体を壊しました。
母は、実家がもっと裕福で、
暮らしやすい家であれば、
母の母はもっと長生きができたのではないか、
今生きていたらもっと楽させることができたのではないか、
そんなことを語ります。
貧しい家でなく、
もっと養生できる家であれば、
母の母は、喘息もおさまって、
長生きできたのではないかと。
あの時貧しい家を何とかできればと、
どうしようもないことを時々語ります。
母の母が喘息で苦しんでいた頃は、
母が何かできるほどの力を持っていた頃ではありません。
時代が時代ですが、
学生で女だった母に、
母の母を養生できるほどの経済力を持つなんて、
そんな力を手に入れることなどできません。
それでも母は悔やむのです。
過去を悔やんでしまうのは、仕方のないことです。
もしもを考えるのも、仕方のないことです。
母はその時代精一杯生きたと、
母の母もそのことをよくわかっていたと、
私はそう言うしかありません。
過去は変えられません。
母が悔やむことを止めることはできません。
気持ちがすぐに整頓できるわけでもありません。
ただ、母の話を聞いて、
大丈夫と言うだけです。
米屋が傾いて貧乏になってから、
日々の暮らしにも苦しくなり、
母の母の実家にお金を借りに行くこともあったようです。
先程書きましたように、
母の母の実家は裕福でした。
お金を借りに行くのは、母の役目でした。
子どもであればお金を貸すだろうという、
大人の計算があったのかはわかりません。
母は、母の母の実家に行って、
実家の方から色々なことを言われて、
それでもお金を借りてきたと言いました。
背に腹は代えられないというものなのかもしれません。
貧しいということが、
どれほど恥ずかしいことなのか、
母なりに感じたのだと思います。
戦後それほど経っていない頃だったと思います。
まだまだ貧しい人、貧しい家庭は多かったと思います。
それでも、裕福な家からすれば、
貧しいということは恥ずべきこととされていたのかもしれません。
母はそれをひっくり返す力もありませんでした。
母の母の実家でいろいろなことを言われて、
多分家を侮辱されるようなことも言われたでしょう。
裕福な家庭からすれば、
なんで貧しいんだという視点だったのかもしれません。
どうしても貧しいんだと思っていないのかもしれません。
貧しいということは、
裕福になろうとしていないからだと思っているのかもしれません。
怠けているとさえ思っていたのかもしれません。
母は、そんな裕福な家からのいろいろなことを、
飲み込んでお金を借りました。
その頃の母には、まだ何の力もありませんでした。
女であること、子どもであること、貧しいということ、
悲しいくらいに力がありませんでした。
母の母は、48歳くらいで亡くなったと聞きました。
母が高校生くらいの話であったと聞きました。
それまでに、いくつか入学式卒業式があって、
体育館で式をしているとき、
咳き込む声がすると、母の母かなと思ったと聞きます。
苦労の多い人生であったと聞きました。
あの頃の母の母の年齢を、
母はとうに越えました。
本当に若くして亡くなったんだと、
母は時々しみじみと語るのです。
リアカーを引いて行商に出かけ、
苦労の末に身体を壊して亡くなってしまった母の母。
母の母が、母を叱ったという話を、
母から聞いたことはありません。
怒鳴ったという話も聞きません。
仕方ないねと許したという話ばかり聞きます。
優しい方だったのでしょう。
優しい故に、がんばり過ぎたのでしょう。
母の母が精一杯生き抜いたということを記して、
今回は締めさせていただきます。
また、時間がありましたら、
母のエッセイを書きに来ます。
ではまたいずれ。