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第16話 母と母の母

こんばんは。

今週も時間がありましたので、

母のエッセイを書きに来ました。


最近母は、免疫機能が落ちたのか、

風邪をひいた上に蕁麻疹が出ました。

母いわく、魚で蕁麻疹が起きたに違いないとのことですが、

一概に蕁麻疹の原因が特定できると思いません。

ただ、母が言うならばそうなのかもしれませんし、

私も否定の要素を持っている訳でもありません。

いわゆる青魚で身体のどこかが悪くなる可能性もありますし、

また、スーパーのパックのお寿司も食べたとも聞きますし、

素人が判断できることでもありません。

蕁麻疹につきましては、ちゃんとお医者様にかかったとのことです。

このところ、私をはじめとした娘やその配偶者などが、

ちゃんとお医者様にかかれと言っていて、

それをちゃんと守っているのだと思います。

以前の母でしたら、

かなり大雑把な自己判断で、

薬を止めたり、安静にしていれば大丈夫などと言ったものでしたが、

そろそろ後期高齢者に差し掛かってきて、

調子が悪かったらお医者様にかかるというのが、

習慣づいてきたように思います。

年を取ってきますと、

ちょっとしたことで命取りになりかねないです。

原因は不明ではありますが、今回の蕁麻疹のように、

何かおかしいと思ったらお医者様にかかるようになったのは、

ちゃんと健康でいてくれているんだなと、嬉しい変化です。

ずっと元気でいてくれて、

孫たちの成長を見ていてほしいと思うのです。

会社の引継ぎは着々と進んでいます。

母は、会社を引退したらしたいことをたくさん話しています。

バスツアーに参加などもいいねと言います。

運転はバスの運転手さんに任せて、

ツアーであちこちめぐるのもいいと話します。

予約などは大体娘に任せるのだと思いますが、

そのくらいなんてことないです。

母のこれからしたいことを、たくさんお手伝いしたいと思います。

今回も、母の記憶が雨と降ります。


さて、今回は、

母と母の母です。

母という字が並びましたが、

母の母のお話です。


母の母は、苦労なされた方でした。

最初は、米屋の長男さんと結婚して、

母の姉を産みました。

そのあと長男さんが亡くなられたので、

次男である二郎さんの妻になりました。

二郎さんとの間に、母と、母の弟二人をもうけました。

母の母は当時としては地主の家の生まれだったようです。

母の実家である米屋も、

代々続く名家であったそうです。

そんな裕福な家同士という結婚もあったのかもしれません。

長男さんが亡くなられて、

二郎さんが米屋を継いで、

経営はどんどん傾いていきました。

米屋が売る米がないほどに傾きました。

幼い母は、近所の別の米屋にリアカーを引いていって、

米屋が売るための米を買ってリアカーに積んできたと言います。

お嬢ちゃんどこのお家なの、

お米届けてあげようかと言われたこともあると聞きます。

母は、頑なに自分が運ぶと言って、

重いお米を積んだリアカーを引いて帰りました。

米屋が売る米がないというのは恥だと、

幼い母でもわかっていたのかもしれません。

米屋の経営はそれほど悪化しました。

母が小学校の高学年になる頃は、

米屋は廃業したと聞きました。


母の母は、そのリアカーを引いて、

行商に出かけました。

八百屋さんから野菜や果物を仕入れて、

果物などは、見栄えがいいように磨いて、

小さな町をリアカーで歩きました。

母や母の姉などが学校から帰ってきますと、

家の近くの角にリアカーが置いてあるから、

持ってきてほしいと頼んだと言います。

母と、母の姉は、

こんなに近くまで持ってきたなら家まで持ってくればいいのにと、

文句を言いながらリアカーを持ってきたと言います。

ただ、今になって母が言うのには、

母の母は、そこまでが限界だったのではないかと。

町の中を行商して歩いて、

疲れ果てて、家の近くの角までリアカーを運んでくるのが、

限界だったのではないかと。

文句を言わなければよかったと、

母はそのときのことを語るのです。


母の母は、米屋が廃業した後、

暮らしが貧しくなってきて、

身体を病んでしまいました。

母が言うには、喘息であったらしいです。

よく咳き込み、咳き込み過ぎて失禁することもあるほどだったと聞きました。

暮らしが貧しい中でも、

母の母の医療費はかかりました。

今ほど保険が適用されていないのかもしれませんが、

相当母の母の医療にお金がかかったと聞きました。

母の父は日雇いで働き、

母の母は病んでいる中でも働き、

結果的に余計身体を壊しました。

母は、実家がもっと裕福で、

暮らしやすい家であれば、

母の母はもっと長生きができたのではないか、

今生きていたらもっと楽させることができたのではないか、

そんなことを語ります。

貧しい家でなく、

もっと養生できる家であれば、

母の母は、喘息もおさまって、

長生きできたのではないかと。

あの時貧しい家を何とかできればと、

どうしようもないことを時々語ります。

母の母が喘息で苦しんでいた頃は、

母が何かできるほどの力を持っていた頃ではありません。

時代が時代ですが、

学生で女だった母に、

母の母を養生できるほどの経済力を持つなんて、

そんな力を手に入れることなどできません。

それでも母は悔やむのです。

過去を悔やんでしまうのは、仕方のないことです。

もしもを考えるのも、仕方のないことです。

母はその時代精一杯生きたと、

母の母もそのことをよくわかっていたと、

私はそう言うしかありません。

過去は変えられません。

母が悔やむことを止めることはできません。

気持ちがすぐに整頓できるわけでもありません。

ただ、母の話を聞いて、

大丈夫と言うだけです。


米屋が傾いて貧乏になってから、

日々の暮らしにも苦しくなり、

母の母の実家にお金を借りに行くこともあったようです。

先程書きましたように、

母の母の実家は裕福でした。

お金を借りに行くのは、母の役目でした。

子どもであればお金を貸すだろうという、

大人の計算があったのかはわかりません。

母は、母の母の実家に行って、

実家の方から色々なことを言われて、

それでもお金を借りてきたと言いました。

背に腹は代えられないというものなのかもしれません。

貧しいということが、

どれほど恥ずかしいことなのか、

母なりに感じたのだと思います。

戦後それほど経っていない頃だったと思います。

まだまだ貧しい人、貧しい家庭は多かったと思います。

それでも、裕福な家からすれば、

貧しいということは恥ずべきこととされていたのかもしれません。

母はそれをひっくり返す力もありませんでした。

母の母の実家でいろいろなことを言われて、

多分家を侮辱されるようなことも言われたでしょう。

裕福な家庭からすれば、

なんで貧しいんだという視点だったのかもしれません。

どうしても貧しいんだと思っていないのかもしれません。

貧しいということは、

裕福になろうとしていないからだと思っているのかもしれません。

怠けているとさえ思っていたのかもしれません。

母は、そんな裕福な家からのいろいろなことを、

飲み込んでお金を借りました。

その頃の母には、まだ何の力もありませんでした。

女であること、子どもであること、貧しいということ、

悲しいくらいに力がありませんでした。


母の母は、48歳くらいで亡くなったと聞きました。

母が高校生くらいの話であったと聞きました。

それまでに、いくつか入学式卒業式があって、

体育館で式をしているとき、

咳き込む声がすると、母の母かなと思ったと聞きます。

苦労の多い人生であったと聞きました。

あの頃の母の母の年齢を、

母はとうに越えました。

本当に若くして亡くなったんだと、

母は時々しみじみと語るのです。

リアカーを引いて行商に出かけ、

苦労の末に身体を壊して亡くなってしまった母の母。

母の母が、母を叱ったという話を、

母から聞いたことはありません。

怒鳴ったという話も聞きません。

仕方ないねと許したという話ばかり聞きます。

優しい方だったのでしょう。

優しい故に、がんばり過ぎたのでしょう。

母の母が精一杯生き抜いたということを記して、

今回は締めさせていただきます。


また、時間がありましたら、

母のエッセイを書きに来ます。


ではまたいずれ。

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