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第17話 母と揚げ物

こんばんは。

また、週末に時間ができましたので、

母のエッセイを書きに来ました。


母は、趣味でテニスをしているので、

普段着でテニスウェアを着ています。

スコートと言う、スカートのようなものは普段着に向きませんが、

トップスであったり、

ボトムも、いわゆるスラックスのようなものであったり、

そういったものは普段着としても結構着れるようです。

最近、もう着ないと思う衣類をまとめて、

母の姉にあげたようなのですが、

たくさんあげすぎてしまって、

普段着が少なくなって困っているとのことです。

テニスウェアのお店にも、

時間がなくてなかなか行けないし、

デジタルに疎いので、

通販もなかなかできる母ではありません。

そんなわけで、ちょっと困っているようでした。

手助けになればと思って、

母のいるところでテニスウェアの通販サイトを開いて、

何着か選んでもらって、

母の家に届くようにしました。

テニスウェアもブランドがあるらしく、

ブランド物は高いです。

通販サイトを見ながらびっくりしました。

ちなみに、お金は私が出さず、

しっかり母が代引きで払います。

私はブランド物のテニスウェアをポンと買えるほどのお金はありません。

そして、着なくなったブランド物のテニスウェアを、

まとめてあげてしまうほどの、

経済力もありません。

なんだかんだで母は経済的にすごいんだなと思います。

そろそろ引き継ぎとはいえ、今はまだ社長です。

ここに至るまで、苦労したと思います。

それらの苦労話も聞きながら、

たまに母のために通販サイトを開いています。

母は貧乏も経験しました。

配偶者がなくなることも経験しました。

それらのつらいことを経て、今、笑顔でいます。

つらいばかりではないとは思いますが、

たくさんの思い出を聞きながら、

母のために何ができるかを考えます。

今回も、母の記憶が雨と降ります。


今回は、母と揚げ物です。

思い出の揚げ物のお話なんかができればと思います。


母は専業主婦だった時代もありました。

一人目の夫の頃は、

自動車整備の会社に嫁いで、

二人の子宝に恵まれて間もなく夫が亡くなったので、

二人目の夫と再婚するまでは、

母ががむしゃらに自動車整備の会社を回していました。

整備はできないので、

車検の仕事を持ってきたり、

お客様の車を車検に持って行ったり、

また、自動車整備の資格の二級を猛勉強して取りました。

夜中まで勉強で起きていたので、

母が死んじゃうと幼い私は思いました。

とにかく仕事をしている母でした。

当時幼い私は、お母さんの絵を描きましょうと言う図工の授業で、

まともに母の絵が描けなかったことがありました。

専業主婦になったのは、

二人目の夫と再婚してからでした。

家事に専念するようになって、

私たち三姉妹の末っ子も生まれました。

料理は下手だと母は言っていましたが、

料理の基礎はできていたと私は思っています。

二人目の夫の胃袋をしっかりつかんでいましたので、

料理の基礎はしっかりしていたと思っています。

おかげで三姉妹は、ちゃんと料理ができるようになったと思っています。

私に関してはあまり上手ではないのですが、

食べられないものは作らないように思うのですけれど、

こればかりは料理の基準が皆様違うので、

ほどほどできるとでも思ってください。


さて、私たち三姉妹が幼い頃、

母と一緒になって料理を作ったことがありました。

楽しかったのは揚げ物の下ごしらえでした。

エビフライなど、背わた抜きや衣づけなど、

みんなで流れ作業で作ったことが思い出されます。

小麦粉係、卵液係など、

エビが流れ作業で衣をつけていくさまが、

なんだか料理を作っていると思えて、楽しかったです。

揚げる作業は母がしていました。

熱い揚げ物の油が跳ねるのは、

やはり子どもには任せられないと思っていたのかもしれません。

他にも、カキフライなども流れ作業で作ったものでした。

灰色で得体のしれないカキが、

あんなに美味しいものになるなどと、

みんなで作って、食べてから驚いたものです。

三姉妹と母と父、

家族は当時多い方でしたので、

揚げ物はてんこ盛りに作りました。

たくさん揚げて、みんなで食べる。

とても美味しくて、揚げ物を食べる手が止まりませんでした。

みんなで作った揚げ物でした。

アツアツでサクサクでした。

母はよく、思い出話で、

食べることの思い出になりますと、

揚げ物をたくさん作った話を繰り返します。

エビフライいっぱい作ったねとか、

カキフライは油がダメになるくらいたくさん揚げたねとか、

何度も繰り返します。

母の中で食に関する幸せな思い出が、

娘たちとの揚げ物の思い出なのかもしれません。

娘たちと一緒に揚げ物を作ってたくさん食べた。

流れ作業で衣をつけるなどの工程を経ている分、

みんなで作って美味しかったと思えるのかもしれません。


娘たちはみんな嫁ぎました。

母はだいぶ年を取ってきて、

揚げ物がしんどい年齢になりました。

会社に届けられる日替わりのお弁当に揚げ物が入っているのですが、

それを食べると揚げ物が戻ってくるような感じがするといいます。

きっと油が悪いのだろうと母は言います。

お弁当屋の油は何度も使うからと、

なんとなくの感覚で述べた後、

みんなで作った揚げ物ではこんなことなかったのにねと思い出の話をします。

あの頃は母も若かったのもありますし、

揚げ物が戻る感覚もなかったのではないかと思うのですが、

母の中の揚げ物の美味しいものは、

思い出の中のみんなで作った揚げ物です。

今の母の食べられる揚げ物と言いますと、

ちょっといいトンカツ屋さんのトンカツなども母は好きで、

あそこの油はいいから、戻る感じがしないのよねと、

トンカツ屋さんを褒めるのですが、

結局思い出の揚げ物が美味しいということに戻ってきてしまいます。

また、安いチェーン店のお弁当屋さんの揚げ物はダメだとか、

いわゆるファミレスなどの揚げ物は苦手だとか、

バーガー店のポテトもあまり食べたくないとか、

母の年になると、安い揚げ物は堪えるようです。

胃が弱っていることもあるかもしれませんが、

安い揚げ物でお腹いっぱいにしたくないのもあるでしょうし、

それならば美味しいものを食べたいと思うのかもしれません。

安いジャンクの揚げ物は食べられないようです。

多分、コンビニのレジ脇にある揚げ物なども無理かと思います。

揚げ物とはちょっと感覚が違いますが、

ポテトチップなども母は好きではありません。

そういえば、三姉妹が実家住まいだった頃は、

油たっぷりのお菓子などが、

家に買い置きされたことがありません。

母なりに気をつかっていたのかもしれません。


食べることは生きることです。

食べることに関して幸せな記憶があるということは、

それは生きてきた中でとても幸せだったことに他ならないと思うのです。

娘たちとともに揚げ物を作った。

当時は母の二人目の夫も健在だった。

当時は母は専業主婦で、

母としていろんなことができた。

揚げ物に限らず、いろいろな料理を作りました。

生きることの基礎は、母から学んだと言っていいでしょう。

その時期のことを、母が繰り返し幸せそうに語るのは、

波乱万丈な母の人生の中で、

幸せを感じられた時期が確実にあったということでもあります。

たくさん苦しいことも経験した母です。

人生を止まることなく走っているような母です。

その母にも、穏やかで幸せな時間があって、

その象徴がみんなで作った揚げ物であると思うのです。

みんなでたくさん揚げ物を作って、

お腹いっぱい食べた記憶。

つらいことをたくさん経験してきた母の、

幸せの記憶のひとつなのではないかと思います。

美味しいという記憶があるということは、

やはり幸せな人生なのだろうと思います。


今回は揚げ物に絞ったお話を書きましたが、

気が向きましたら、母の別の料理に関するお話も書きたいと思います。

一人目の夫の母である、

母の義理の母の料理の話も書きたいですし、

この義理の母という方がとにかく穏やかでできた方で、

母がこの方のことを悪く言っているのを聞いたことがないほどです。

あと、二人目の夫の胃袋をつかんだ母の料理の話もそのうち書きたいです。

書きたいことは山ほどあります。


また、時間がありましたら、

母のエッセイを書きに来ます。


ではまたいずれ。

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