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第18話 母と買い食い

こんばんは。

今週も時間ができましたので、

母のエッセイを書きに来ました。


母はいろいろな話をしてくれますが、

そのお話は前に聞きましたと、言わないでいたら、

逆に聞いたことのないお話がどんどん出てくるようになりました。

私の憶測で申し訳ありませんが、

前にも聞いたと、下手にストップをかけないことにより、

母の記憶がより活性化されているのかなと思っています。

その話何度目だとか、

前にも聞いたとか、

そういった繰り返しを指摘しないことで、

母の頭の中は自由にいろいろなことを、

思い出せるようになったのかもしれません。

何度も話しているようだからと、

母に申し訳なく思わせてストップをかけさせるのでなく、

話したいだけ語らせるのが、

いいのかもしれないなと思います。

とにかく、このエッセイにつきましては、

母の語ったことが第一の頼りです。

母が思い出して語ってくれないと、

私も書くことができません。

認知症のはしりかもしれませんが、

母は同じことを繰り返すことが多いです。

新しいことを覚えられずに、

何度も聞き返すことが多いです。

そこに、なんでできないんだとか、何度同じ話をしているんだとか、

母を委縮させてはいけないんだなと思います。

母もおそらく、若い頃のようになれない自分にもどかしい気持ちを持っています。

老いは誰にもやって来ます。

その老いを否定してはいけません。

誰かの老いを否定することは、

自身のことも否定することになります。

母の記憶を自由にしてあげることにより、

母も気兼ねなくいろいろな話ができますし、

何を何度話してもいいことにより、

母の中の話題もたくさん出てくるのだと思います。

よくある言葉でボケ防止というのがありますが、

もしかしたら、何でも何度でも自由に話すことができるようになれば、

ある程度ボケ防止というものになるのかなと、

まぁ、憶測でそんなことを思います。

私は医者でも専門家でもありません。

ただ、母の話を聞いて、それをエッセイにしている一介の物書きに過ぎません。

このエッセイを通して、

誰かの記憶に母がいてくれれば、

私がエッセイを書く意味があるのではないかと思います。

母から語られた記憶を頼りに、

今回も、母の記憶が雨と降ります。


今回は、母と買い食いです。


母のお昼事情は、

小学生の頃は給食があり、

中学生になるとお弁当になり、

高校生になりますと、学食で何かを買って食べていたようでした。

そんな、幼い頃から学生に至るまで、

母が買って食べていたものの思い出話を書こうと思います。


おそらく母が小学生の頃だと思うのですが、

どんど焼きのお店というものがあったようです。

店舗は出していないような語り口でした。

もしかしたらこのあたり、

私が他の母の話とごっちゃになっている可能性もあります。

とにかく母の話として書かせていただきます。

焼くもののお店ではあるので、

その設備が積んであるリアカーみたいなものかもしれません。

あるいは、小さなトラックに、

設備を整えて材料を積んで売っていたのかもしれませんが、

母が小学生という時代を考えると、

戦後それほど経っていないと思うので、

設備を積んだトラックがそれほど広まっているかなと私は考えてしまいます。

時代考証は曖昧のままですが、

おそらく移動式のお店があったことと、

どんど焼きというものがあったと覚えてください。


どんど焼きとは、とても質素な軽食です。

小麦粉を水で溶いたものを、

熱い鉄板に広げて、焼いて、

魚肉ソーセージを切ったものを、

小麦粉を焼いたものにクルクルと丸めます。

クレープのさらに質素なものと思ってください。

そこにソースがかかっていたと聞いたような気がします。

幼い母にとって、

どんど焼きはとても美味しかったものであるようです。

また、母くらいの年代の方で、

同じ地域にいた方に話を聞きますと、

間違いなくどんど焼きが通じるのだと言います。

地域に根ざした軽食であったようです。


また、同じく母が幼い頃に、

ネギ焼きなるものがあったと聞きました。

これも移動式店舗のものと聞いています。

ネギ焼きという名前も正確なものかはわかりませんが、

とにかく小麦粉と水とネギを焼いたものであったと聞いています。

お好み焼きやチヂミのさらに薄いものなのかもしれません。

ネギ焼きの移動式店舗をしているご主人は、

当時バキュームカーの仕事をしていたといい、

母なりに、汚い仕事をしている人の作ったものだと思っていたようです。

汚いものを汲み取っている、汚い手で作られたものだと、

思っているのだけれどネギ焼きが美味しい。

仕事に対する無意識の差別がなかったとは言いませんが、

そこを美味しさで黙らせるのは、

やはりすごいことなのだろうなと思います。

母の少ないおこづかいで食べたいと思わせる。

それだけの力があるものなのだと思います。


ちょっと時代を進めまして、

母の高校時代の学食のお話もしましょう。

母はバスで高校まで通っていました。

高校に通える程度の家庭ではあったようですが、

あいかわらず貧しかったようです。

バス代とお昼代を毎日もらっていたようですが、

母は何としてもお昼に食べたいものがありました。

正確な名前はわかりませんが、

揚げたパンであったようです。

現代学校給食の揚げパンではなく、

いわゆるカレーパンのようなものを想像すれば近いかもしれません。

その揚げパンも3種類あり、

あんが入ったもの、カレーが入ったもの、肉が入ったものがあったようです。

通じるかはわかりませんが、

肉が入ったものは、ピロシキというものが近いのかもしれません。

高校生といえば食べ盛りです。

母は何としても3種類食べたいのです。

しかし、3種類買ってしまいますと、

お昼代がオーバーしてしまいます。

それでも食べたい母は、

バス代を削って3種類買いました。

その3種類をどれから食べようかとして、代わる代わる食べるのが、

母の至福の時であったようです。

バス代を削りましたので、

帰りは徒歩になります。

そうしてまでも食べたいものでありました。

高校生の食欲と、体力は計り知れません。

揚げパンは母の青春の味でもありました。


母の実家は貧しくありましたが、

母はそれでもたくましく生きました。

貧しいなりに楽しみを見出し、

美味しいものを見つけたりしました。

現代においては、消えてしまったものも多数あります。

なんでこんなものが美味しかったのなどと、

今となっては疑問に思われるものもあるでしょう。

母の若い頃においては、

それが美味しいものであったのでしょうし、

あるいは、それしか食べられない経済的理由もあったかもしれません。

いろいろな理由があったにしろ、

そのときそのときで、美味しいものを見つけられたのならば、

それが生きる力になると思うのです。

食べることは生きることです。

空腹をちゃんと感じられて、

何かを食べたいと思う時、

それは身体が生きたいと思っているのだと思います。

なんとしても身体が生きたいと思っているのです。

心がズタズタになることも、母にはあったでしょう。

これだけ長いこと生きていれば、

もうダメだと思うこともあったでしょう。

それでも、食べて、生きてくれた。

そうして私をはじめとした娘たちが生まれて、

孫まで命が繋がっています。

母が生きてくれたことに感謝ですし、

どれだけつらくても、とにかく食べてくれたことに感謝です。

母がまだ語っていない食べ物もあるでしょう。

名もなき食事がたくさんあるかもしれません。

とにかく、豊かな時代まで生きてくれてありがとうと思うのです。


今回は、母と買い食いの話でしたが、

まだまだ母については語ることが山ほどあります。

あれもこれもと散らかりますが、

これらすべて、母の記憶が雨のように降っていると思っていただければ。

では、また、時間がありましたら、

母のエッセイを書きに来ます。


ではまたいずれ。

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