こんばんは。
今週も時間ができましたので、
母のエッセイを書きに来ました。
母のエッセイは、こんなこと聞いたとか、
あんなことを話していたのを書きたいなというのを、
専用のノートに書いていて、
そこから順番に書いています。
母が今まで生きてきた年月も長いのですが、
経験したこともたくさんあって、
その経験がまさしく波乱万丈そのものです。
母にかかわった人や、時代背景なども書いていくと、
書いても書いても終わらないと思います。
母の波乱万丈を表現しきるのに、
このペースで書いていて全部書けるだろうかと思うほどです。
可能な限り覚えているようにしていて、
聞いたことや書きたいことはノートにつけていてを繰り返していますが、
私の母をくまなく書き尽くすのは、
なかなか難しそうだなと思います。
あれも書きたい、これも書きたいと、
ノートはとにかく散らかっています。
私が見た母、母が語った生き様。
母が経験してきた時代の流れ。
全部書くのは無理でも、
母という人がいたことを残したいと思うのです。
時代を生きている母という女性を、
このエッセイを読んでいる誰かが覚えてくれたらいいなと思うのです。
今回も、母の記憶が雨と降ります。
今回は、母と爪弾きおじさんです。
何度か母のエッセイに書きましたが、
母の父は、米屋の次男で、
長男さんは家で代々受け継がれた名前を付けられて、
次男以降は、二郎、三郎という名でした。
そんなわけで母の父は二郎さんでした。
長男さんが特別な名前を付けられて、
大きな米屋の跡取りだったのですが、
亡くなってしまって、
二郎さんが継いで、商才がないのと時代の流れで、
米屋が傾いて廃業になりました。
何度か書いたことですが、
前提としてさらっと書いておかないと、
忘れてしまうかもしれませんからね。
さて、今回の爪弾きおじさんは、
母の父の二郎さんの弟の、四郎さんです。
爪弾きと書いていますが、
弦楽器を弾いていたわけでなく、
家から除け者にされていたという意味での、
爪弾き者です。
米屋ということなどの時代背景がありますので、
母から聞いたこととして、書いていこうと思います。
四郎さんは頭がよかったと、母は語ります。
母からすれば二郎さんも頭がよかったのだそうです。
大正生まれで満州鉄道に就職できた二郎さんは、
米屋の長男さんが亡くならなくて、
戦争などがもしもなかったら、
あるいは、満州鉄道でなく、県庁などにでも就職していたら、
もっと能力が生かせていたのではないかと語ります。
四郎さんもまた、頭のいい方であったようですが、
母の語り方はちょっと違っていて、
何か仕事をするときの段取りがいいとか、
人を使うことが上手いとか、
そんな頭の良さのようです。
多分経営者向きなのでしょう。
学歴は聞いていませんが、
四郎さんが学生などであった頃は、
おそらく米屋のお家は傾いていなかったと思うので、
当時としてはかなり勉強ができる環境だったのかもしれません。
裕福なお家で、跡取りというしがらみもなく、
勉学に励める環境だったのかもしれません。
四郎さんが爪弾きになったのは、
四郎さんと、とある女性の結婚が理由でした。
四郎さんが妻として選んだ女性は、
いわゆる女郎屋にいた女性で、
田舎の生まれであったと聞きますが、
何かのっぴきならない事情があって女郎屋に身を置き、
今の言葉で言う売春をしていたのだと思います。
四郎さんはその女性を見初めて、
結婚しようと言い出したと聞きます。
当時は実家の米屋も傾いていなくて、
とても裕福な家柄でした。
家柄を重んじていたので、女郎屋の女と結婚するなんてと、
家の皆が反対したと聞きます。
米屋を継いできたご年配の方たちは、
この家柄に誇りすら持っていたのでしょう。
卑しい女を娶るなんてと、
四郎さんは爪弾きになりました。
今の世の中ではなかなか聞かれない言葉ですが、
勘当というものに近かったのかもしれません。
四郎さんの妻になった女性は、
文字の読み書きができなかったと聞きます。
母の時代頃になると、小学校が当たり前の時代になるので、
学校というものが当たり前でないほどの田舎か、
あるいは学校に通わせるくらいならば、
なんとか食い扶持をというほど貧しかったか、
母の時代よりも少し前の方ではありますので、
女は字が読めなくても困らない、くらいのことはあったかもしれません。
私の憶測ですが、とにかく貧しかったのだと思います。
都市部ではかなり識字率が高くあったでしょうが、
貧しい田舎では字が読めるよりも何とか食べていける方が命を繋げる。
料理の方法や、生きるための術を身につけた方がいい。
おそらく四郎さんの妻となった女性は、
そんな貧しい時代を経験したうえで女郎屋に身を置くようになり、
字の読み書きができなかったのだと思います。
四郎さんは、この女性を不憫に思ったのか、
あるいは、字の読み書きができないということで、
この女を手玉にとれると思ったのか、
そのあたりはわかりません。
ただ、裕福な家に反抗しての結婚ではありましたので、
四郎さんの中に、裕福な家以上に優先する何かがあったのかもしれません。
四郎さんと四郎さんの妻は、
滅多なことでは米屋の家の集まりに顔を出さなくなりました。
それでも親戚が集まって何かするぞという時に、
四郎さんが段取りを整えると、
物事がスムーズにいったようです。
また、四郎さんの妻となった女性は、
料理がたいそう上手でした。
文字の読み書きができないので、
いわゆるレシピなどは全く読めません。
ただ、母があの女性がすごいと言っていたのは、
親戚がたくさん集まる席で、
サンマの煮物を作る際に、
四郎さんの妻は、砂糖と塩を間違えてしまって、
当時台所をしていた親戚の女性たちが
どうなってしまうんだと思っていたら、
四郎さんの妻は味をしっかり整え直して、
しっかりとしたサンマの煮物に仕立て直したとのことです。
ただ、この調味料の間違いの件は、
四郎さんの妻の女性に対するいじめかもしれません。
そのあたり、母は語っていませんでしたので、
これは私の完全な憶測です。
少しでも料理をする方からすると、
煮物で砂糖と塩を間違えてしまったら、
かなり致命的であることはわかると思います。
とにかく塩の自己主張はすごいものです。
どうしても塩辛さが強すぎると、リカバリーは難しいと思うのです。
四郎さんの妻は、そこをしっかり整え直せるほど、
料理に関してはすごかったのだと聞きました。
確かに読み書きは出来なかったかもしれません。
それでも、命に直結する食ということなどに関しては、
かなり優れた能力を持っていたのだと思います。
どんな環境にあっても、なんとしても生きようと。
食べられるものは何としても食べようと。
そんな、生きることに真っすぐな方だったのだと思います。
四郎さんは家から距離を置くようになり、
その後しばらくして、
跡取りのいない親戚の方の養子になったと聞きました。
四郎さんとその妻の方に、子どもがいたというお話は聞きませんでしたので、
四郎さんが養子となった親戚のお家は、
四郎さんの代で途切れてしまって、
四郎さん夫妻がなくなったあとは、
土地家屋その他は売りに出されたと聞きました。
親戚の方の養子となることで、
完全に家から離れたわけではないのかもしれませんが、
四郎さんは四郎さんなりに、
生きる道を模索していたのかもしれません。
四郎さんの妻は、懸命に生きようとしていました。
四郎さんも、妻のその姿勢に感じるところがあったのかもしれません。
四郎さんは家から爪弾きになりましたが、
爪弾きになってでも、進みたい道があり、生きたいと思っていたのかもしれません。
自分らしいが難しい時代であったと思いますが、
この道を進みたいと思っている道があったのかもしれません。
四郎さんとその妻の女性が幸せだったかはわかりませんが、
きっと激動の時代を、ともに白髪になるまで生き抜いたことでしょう。
また、時間がありましたら、
母のエッセイを書きに来ます。
ではまたいずれ。