六年年前のマンガ大賞で特別賞を受賞。週刊誌に掲載された読み切り作品が人気を博し、それから『無性愛症候群』の連載を開始。そして一年半の連載を経て完結。次の年には月刊誌で『そら飛ぶさくらんぼ』を連載。これも前作と同じく一年半の間連載して、三年前の夏頃に完結した。
インターネットの検索欄に『桜花美狼』といれると、サジェストには『炎上』『嫌い』『クソ漫画』などと物騒な単語が並んでいた。
事の経緯を辿ると、どうも三年前に完結した『そら飛ぶさくらんぼ』の終わり方が胸くそ悪いバッドエンドだったせいで、それまで追っていた読者が怒りの声をあげているようだった。 『そら飛ぶさくらんぼ』は女の子たちが和気藹々と日常を送る話だった。空に浮かぶさくらんぼが見えた子は必ず幸せになれる、という迷信を軸に話は進んでいくのだが、終盤でその空に浮かぶさくらんぼがドラッグによる幻覚作用だということが明かされ、主人公たちは次々と屋上から飛び降りるという具合だ。
当時読んでいたわたしも、その終盤を目の当たりにして酸味とはまた違う、胸が締め付けられるような苦味が胃に落ちていったのを今でも覚えている。
そして同時に、悔しかった。
こんな綺麗な絵を書けるのに。
どうして最悪な結末にしてしまったんだろう。
私は元々ハッピーエンドが大好きで、登場人物が全員幸せになってくれる物語じゃないと読む気が起きない。バッドエンドなんて読みたくないし、ましてや誰かが死ぬ話なんてものはたとえ二次創作だとしても嫌いだ。
読んだだけでお腹が痛くなるし、数週間は気分が落ち込む。
学生の頃から、私は生粋のハピエン厨だった。
でも、特段珍しいというわけではないと思う。
漫画を読む人の大半は、救いのない話ではなく、希望に満ちあふれた優しい話を求めている。 登場人物を好きになって、その努力や渇望がいつか報われて欲しいと思いながら読み進める。そして誰かが救われたら、感動するし、読んでよかったと思える。
救われてほしいと思っていたキャラクターたちが、終盤につれてなんの希望もなく死んでいく、そんな結末を目の当たりにしたら、読者だって怒るに決まっている。
どうして桜花先生は、こんなバッドエンドを書くのだろう。
電車に揺られながら、そんなことをずっと考えていた。
桜花先生の自宅の最寄り駅へは会社から二十分ほどで着いた。
住所を辿っていくと、大きなタワーマンションが見えてくる。
通勤のときいつも電車の窓から見ていた、街で一番大きなマンション。どんなお金持ちが住んでいるんだろうと思いながら眺めていたが、まさかここに桜花先生が住んでいるなんて。
メモ用紙に書かれた部屋番号を入力して、おそるおそるインターホンを押す。
『誰?』
ハスキーなその声は、インターホン越しだというのにひどく私の鼓膜を揺らした。
「突然すみませんっ。私、株式会社『OWL』の編集者で
『あー、うん、あってるよ』
「アポなしのような形になってしまい申し訳ないのですが、うちでの連載について少しお話をさせていただければと思って来ました。三十分ほどお時間をいたければと思うのですが」
『顔』
「え?」
『顔見せて』
インターホンに設置されたカメラの外にいることに気付いて、慌てて画角に入る。しまった、顔も見せないで失礼だったか。
しばらく無言が続く。気まずさに思わず目を伏せていると、
『いいよ。部屋の前に着いたら、またインターホンを鳴らしてもらえるかな』
桜花先生は柔らかな声色をしていて、私はホッと胸を撫で下ろした。
お礼を言って、エレベーターに乗り込んだ。
桜花先生の部屋は二十七階にある。ガラス張りの壁の向こうには空が広がっていて、下を覗き込むと駐車場に停まる車がおもちゃみたいに見えた。ひゅっと風が吹いて、私は思わず手すり側から離れた。
桜花先生に言われた通りインターホンを押すと、一秒も待たずにドアが開いた。
中から出てきたのは長身の女性だった。パッと見た感じ、年齢は私と同じか、少し上くらい。二十五、六くらいだろうか。
黒のオーバーシャツにデニムパンツというラフな格好をしていて、青のインナーカラーが入った長めのウルフカットが印象的だ。切れ長な瞳には標準より少し大きい黒目が輝いていて、蕾のような小鼻が整った顔立ちを際立たせている。
美人という一言では表せない、この人にしか出せない輝きと迫力に、私は圧倒された。
桜花先生は私の顔をジッと見つめると、朗らかに笑った。
「あ、挨拶が遅れてしまい申し訳ございませんっ! 私、こういうもので!」
名刺を取り出したが、桜花先生はそれを受け取らなかった。
代わりに、手招くようなジェスチャーを見せる。
細長い指先に施されたブルーのネイルが、快晴の色を吸い込んで光輝いていた。
「とりあえず中入ってよ。外、寒いでしょ」
「すみません! 失礼します!」
部屋に入れてもらいドアを閉めると、バニラのような、ココナツのような、凪ぐような薄い香りを微かに感じる。
そのままリビングに通してもらった。余計なものは置いていない綺麗な部屋だった。
「突然の打ち合わせで申し訳ないです。これ、駅の近くにあるケーキ屋さんで買ったフィナンシェなんですけど、よかったら」
「ああ、あそこのお店なら私もよく行くよ。でもフィナンシェもあったなんて知らなかったな。缶のデザインもすごくかわいいね」
「ですよね! わたしもこのデザイン大好きで、仕事のメモ紙入れに使ってるんです!」
桜花先生がハーブティーをマグカップに淹れて持ってきてくれる。テーブルの椅子に座るよう促されて「失礼します」と言ってから腰を下ろした。わたしが座るまで椅子の背もたれを引いてくれる桜花先生の所作はとても上品で、こちらを見る真っ直ぐな瞳は優雅でありながら自信に満ちあふれている。余裕のある微笑み方はどこか、妖艶な雰囲気があった。
「あの、それで、今日は本当にありがとうございます。桜花先生とお話ができるということで、すごく嬉しいです」
「連載だったよね。具体的にはいつからなの?」
「えっと、連載の目処は今年中であればいつでもかまいません。こちら資料になります。まず、私たちの会社『OWL』というのは」
我ながら慣れた手つきで、クリップでまとめられた資料を桜花先生の方へ向けて説明していく。
名前を聞けばすぐ思い当たる大手の出版社とは違って、うちの会社はまだ小さく知名度もない。まずは怪しい会社ではないと相手に知ってもらうことが交渉の鍵となる。
会社ができた経緯。これまで発刊してきたヒット作の一覧。これからの方針。求めている作品と作家さん。包み隠すことなく、桜花先生に説明する。
原稿料などについても詳しく説明しなければならない。案外ここでトラブルが生まれることも多い。締め切り日や原稿料が振り込まれる日などを事細かに伝える。
相手が桜花美狼という有名な漫画家だからだろうか。いつもより緊張してしまい、指先に汗が滲む。
ずっと資料に視線を落としっぱなしだったことに気付いて、私は顔をあげた。
桜花先生は何故か資料ではなく私の顔をジッと見つめていた。私の説明に相槌を打ちながらも、その視線はずっと私に注がれている。目が合うと、桜花先生はふわりと微笑んだ。
それからしばらくの間、私が顔をあげるたびに目が合った。桜花先生の視線を常に感じながらも、なんとか説明の大半を終わらせる。
「とりあえずはこんなところです。何かご不明な点や気になる箇所はありましたでしょうか」
「君、かわいいね」