資料をまとめる手を、ピタッと止める。
「えっと」
「かわいい」
「え、えー? そんなことないですよー」
真っ直ぐ見つめられながらそんなことを言われて、澄ました顔をできる私ではなかった。
顔が熱くなっていくのを感じて、手で首元を扇いだ。
「名前はなんていうの?」
「え? えっと、
「それはさっき聞いたよ。そうじゃなくて、下の名前」
「あ、すみません。
ご不明な点や気になる箇所が私の名前に集約していることに困惑しながらも、自分の名前を桜花先生に教える。
桜花先生は一瞬だけ目を丸くして、だけどすぐに先ほどまでの余裕のある表情に戻った。
「へぇ、じゃあ……みゃおちゃんだ。彼氏はいる?」
「い、いませんいません! あ、いや欲しくないわけじゃないんですが。あはは、えっと、それで、連載する作品の方針についてなんですけど……」
話している間に、向かいに座っていた桜花先生が私の隣に腰を下ろす。
女優と言われても納得するその常人離れした美貌が、近づいてきた。
吐息を鼻先で感じるほどの距離にいる桜花先生は、今にも舌なめずりをするのではないかと思ってしまうような表情をしていた。
「連載の方針だったね。とりあえず、私はいつも通り、女の子がひどい目に合う作品が書きたいかな。案としてあるのは、安楽死を題材にした話かな。日本の法律が変わって、高校生一人一人に安楽死できる薬が政府から配られる。みたいな感じで」
「え、えっと、いいと思います。ちなみに、結末は決まっていますか? ふわっとでもいいので」
「主人公は最後ヒロインに殺される。どう?」
「あ、あー。そうですね、桜花先生が書きたいものを書くのが一番ですから、問題ないと思います」
「そう? 話が早くて助かるな。じゃあ、今日からネームに取りかかるけど、だいたい一週間くらいはかかるかな」
「そ、そんな早いんですか?」
「人にもよるだろうけど、筆の速さには自信あるかな。週刊連載もしてたわけだし」
「わぁ、すごいです!」
顔色を窺いながら、言葉を選ぶ。
作家さんがのびのびと書けるように。作者以外の思想や理論が介入しないよう、純度百パーセントの作品が届けられるよう。自我をなくす。
今までも、ずっとそうやってきた。
実績はなく、デビューするのが夢だったと笑いながら語った一人の作家もそうやって潰した。
「あ」
「ん? どうしたのかな」
話はこれで終わりと言わんばかりに桜花先生が立ち上がったので、思わず呼び止めてしまった。
「あの、でもやっぱり、ちょっとだけ、マイルドにできませんか……?」
「どういうこと? バッドエンドにマイルドもなにもないよ。生きるか死ぬかの二択なんだから。それとも何? みゃおちゃんはそれ以外の、まったく新しい死生観をお持ちということなのかな? それなら是非とも聞いてみたいな」
きっとそれは、煽りでも皮肉でもなく、純粋な好奇心なのだろう。桜花先生の瞳が、餌を見つけた肉食獣のようにギラギラと輝いている。
どうして編集長が、こんな大切な仕事を私に任せてくれたのか分からない。力不足であることは明確なのに、編集長は私のドントバッド・ノンハッピー理論を信じてくれた。
ハッピーエンドは好きだけどバッドエンドは嫌い、な人はいても、その逆はない。
バッドエンドは好きだけどハッピーエンドは嫌い、なんて人はいないのだ。
ハッピーエンドは、すべての人が受け入れてくれる。
「今回桜花先生に書いていただくのは、アプリでの作品。いわゆる電子書籍となっています。こちら、書店とアプリの売り上げを比較したグラフなんですけど、見てもらってもいいですか」
カバンから資料を取り出して、桜花先生の前に差し出す。
「アプリと書籍って市場が全然違うんです。理由としてあげられるのは、やはりアプリの使用用途が書籍とは違う点でしょう」
資料のグラフを指さす。
「書籍は家で読むのに対して、アプリは移動中や休憩中に見ることが多いです。時間が限られている、もしくはある程度の疲労が溜まっているときに見られるのがアプリなんです。なので、アプリで漫画を読む人は、どちらかというと明るめの作風を好む傾向があります。安心してページをめくれるような作品の売れ行きが必然的に多くなるんです」
「なるほど。つまり、ネガディブな作品はアプリという形式上読まれない。だから私に、あくまで市場に対しての戦略として、ハッピーエンドを書いてほしいということだね」
「そうです。なので、今回の企画ではアプリの需要に応えた作品を押し出していきたいのですが。どう、ですか?」
「やだ」
桜花先生はまるで子供のように、突っぱねる。
「私にも信念はある。知ってると思うけど、私はラブコメとか書いたことがないんだ。私は人間の死を美しいと思ってる。人間は死んでこそ価値のある生き物だと思ってる。だから登場キャラクターは全員殺したいし、今までもそういう結末だけを書いてきた」
「で、でも……主人公が死んだりヒロインが死んだりするお話って、やっぱり胸が苦しくなりませんか? 最後まで読んだのに、その最後ですら救いがなかったら、私だったらすごく暗い気持ちになっちゃいそうです」
「そうかな。主人公は死んでしまったけど本懐は遂げて、ヒロインも殺してしまったあとに主人公の本当の気持ちに気付いて、罪悪感から自殺するっていう最高の心中エンドだったら、それは読者にとっては煮え切らないかもしれないけど、キャラクターたちからすれば最高の終わり方だと思う。それは決して、頭ごなしに悲しい結末だなんて言っていいものじゃないよ」
折れてくれるとは思っていなかった。
桜花先生は、ずっとそういう作風で書いてきたのだ。桜花先生にも考えがあって、信じるものがある。私はそれを、捻じ曲げようとしている。売れるため、読んでもらうため。そんな私の考えが介入する余地などあるのだろうか。
「私は、バッドエンドしか書かないよ」
「で、でも……」
「みゃおちゃんはただの編集者だよね? たかが編集者に、作品の方針を決める力なんてないし、権限もない。作品においては、私が神なんだよ。みゃおちゃん。私がバッドエンドって言ったら、バッドエンドなの」
桜花先生が、資料を押し返してくる。
「それが嫌なら、今すぐ帰って。企画を白紙にしてね」
桜花先生の言う通りだ。私はただの編集者。原作者ではない。ストーリーの方針を決める権限などどこにもないのだ。
漫画家さんの神聖とも呼べる創作論には、触れないほうがいい。桜花先生がバッドエンドを書きたいなら、それで。
――漫画家になるのが夢だったんです!
いつか聞いた、宇佐先生の嬉しそうな声が脳内で響いた。
いや、ダメだ。編集長は私にチャンスをくれた。
今度こそ、私は私の意見を言う。それは何も押しつけではない。納得してもらえなければそれでもいい。でも、言わないのだけはなしだ。
せめて担当する漫画家さんには、私の信じるものを伝えるべきなんだ。
「でも、炎上したじゃないですか」
ハーブティーの水面が、ぷるぷると震えていた。
クソ漫画。そう言われる桜花先生の作品。片手間で書いたわけじゃないはずだ。漫画家さんが作品に込める思いというものを、私はこの目で見てきたつもりだ。
「バッドエンドを書いて、ネットでボロクソ叩かれてたじゃないですか!」
命を削って生み出したキャラクターたちが、必死に生き、選択を繰り返す。その果てにあったのが救いではなく絶望で、それを読んでいた人たちからも罵詈雑言を届けられる。そんなの、あんまりじゃないか。
読者だって何もイジワルをしているわけじゃない。ただ、陰湿で凄惨な読後感にショックを受け、強い言葉を使ってしまっただけ。それを防ぐには、ハッピーエンドしかない。
ハッピーエンドは、誰も傷つけない。すべての人に愛される。
「胸糞悪い話を書いたらそうなりますよ! バッドエンドなんて誰も求めていないんですから。みんな、ハッピーエンドが読みたいんです。人が死んだり、救われなかったり……そんなの、現実世界でお腹いっぱいなんです。もし桜花先生が、ハッピーエンドを書けないと言うのなら、私がお手伝いしますから! 今度は、きちんと読者から愛される作品を作ってください!」
桜花先生の鋭い瞳が、私を捕らえる。
「分かったら、黙ってハッピーエンドを書けこのこじらせ作家!」
部屋に、静寂が訪れる。
やった。やってしまった。
アホか、バカか私。それはさすがに言い過ぎだろう。
冷静になった頃にはもう遅かった。
編集者が、漫画家さんに暴言まがいのことを言ってしまった。
こんなの異動うんぬんの前に、クビにされても文句は言えない。
「へぇ」
桜花先生も、自分の作風を好き勝手言われて怒っているはずだ。
そう思ったが、次に聞こえてきたのは笑いを堪えるような声だった。
「君、本当はそういう子か」
そして顔をあげた桜花先生は、イタズラを企むような、悪い顔をしていた。
「面白いね。うん。みゃおちゃんが言っていることは、本当だと思う。ハッピーエンドは万人から愛される。そしてバッドエンドは、愛されることはない。作品も、そして作家も」
桜花先生が机の上に視線を落とす。影のせいで、表情が窺えない。
「だけど、ここでお互いの信念を尊重してしまったら、そもそも漫画が書けない。話が進まない。だから、どうかな。交換条件っていうのは」
「交換条件、ですか」
「そう。交換条件」
桜花先生が立ち上がり、私の隣までやってくる。
「みゃおちゃんはこれから打ち合わせにくるたび、必ず一回は私の言うことを聞かなければならない」
「ぜ、絶対服従ってことですか?」
「打ち合わせ一回につき一回ね。安心して、今すぐここから飛び降りろとか、ムリなことは言わないし、みゃおちゃんが本当に嫌なら断ってもいい。簡単に言っちゃえば、お願いみたいなものだから」
「な、なるほど。私がそれをしたら、桜花先生は」
「みゃおちゃんの言う通り、ハッピーエンドを書くよ。登場キャラクターは殺さないし、鬱展開も書かない。読者の人が安心してページをめくられる作品にできるよう努力する」
桜花先生がそんな作品を書いてくれたら、確実にアプリ内のランキングでは上位に食い込むだろう。それどころか、書籍化……もしくはうちの会社初めてのアニメ化だって夢じゃないかもしれない。
そうなったら、私は晴れてヒット作を担当する敏腕編集者としての実績を手にする。
「分かりました! それで桜花先生が書いてくださるのなら、お安いごようです!」
「交渉成立だね」
「はい! ではさっそく契約書を――」
カバンに手を入れようとした、その手を桜花先生に掴まれる。
「じゃあ、脱いで」
思考が停止する。
「脱いで」
「は、はい?」
「今日のお願い。交渉成立、したんだよね?」
顔が近い。
桜花先生の体温が伝わってきて、心臓がバクバクと跳ねる。
「もちろん、本当に嫌なら断っていいよ」
「ちょっと、そういうのは」
「じゃあ、嫌って言って」
「え?」
「本当に嫌って、私を拒絶して」
「きょ、拒絶って……あっ」
カーディガンのボタンに、手をかけられる。
緩んでいく首元が、生ぬるいくすぐったさに支配される。
このままスルスルと脱がされては、何をされるか分かったものではない。それに、桜花先生が作り出す粘っこいこの空気に、本気で抵抗てきる自信がなかった。
「本当に、脱いだらハッピーエンドを書いてくれるんですよね?」
「あのね、私は約束は破らない。だから――」
カーディガンのボタンを外して、肩から下ろす。
そんな私を見て、桜花先生が言った。
「分かったら、黙って脱げよこのこじらせ編集者」
耳元で囁かれて、顔が熱くなる。
そんな桜花先生はやはり、その狼のような眼で私を見つめては、妖艶に笑うのだった。