「それで、私のところまで走ってきたんだ」
「別に、走ってきたわけじゃ……あっ、ちょっと、そこは……」
「こういうことされるって、分かってたくせに」
歪んだ三日月が私を見下ろしている。
テーブルの脚にロープでくくりつけられた手首が、ミシミシと軋んだ。
「拘束されると、そういう顔になるんだね」
身動きが取れない私に、桜花先生が覆い被さる。物色するように顎を撫でられ、唯一動かせる足も桜花先生に押さえつけられていて抵抗の一手に使うことができない。
打ち合わせのため訪れた桜花先生のマンション。さてそれでは、主人公が飛び降りて死んでしまっている件についてと口火を切ろうとしたときにはすでに手首を縛られていた。
「そんなに、バッドエンドが嫌い?」
「嫌いっていうか、や、約束が違うじゃないですかっ!」
「そうかな? 約束の通りだと思うけど」
桜花先生が顔を近づけてくる。
「みゃおちゃんは本当にこれがバッドエンドだと思う?」
「主人公が死んでる時点で、バッドエンドです! バッドエンドじゃなくても、読者はこの展開を見ても喜びません」
「彼女は希死念慮の果てに飛び降りたのではなく、その苦痛を自分の周りに知らしめるために自らの命を利用したんだ。だから、みゃおちゃんが抱えるその悲しみは主人公の思惑通りというわけだ。そう考えると、主人公の目的は果たされてる。これはハッピーエンドと言えると私は思うのだけど」
「でもこれじゃ読者はビックリしちゃいます。ジャンルも、ラブコメから変えなきゃいけません。せっかく序盤は和気藹々としていて良い雰囲気なのに」
「その落差がいいんじゃないかな。人生ってそんなものだよ。明日もあると信じて疑わなかったものがある日突然この世から消えるなんてよくある話」
「漫画と人生は別です」
互いの主張がぶつかり合う。
もし相手が凶悪犯だったら、とっくに撃ち殺されているんだろうなと、拘束された自分の手を見て思う。
「あははっ、みゃおちゃんは引き下がらないね」
桜花先生は私と創作論問答をする気はないようで、少し空気がピリついてしまった瞬間には鋭かった目つきを柔和にした。
「いいよ。みゃおちゃんの言う通りの漫画を書くって約束したから。じゃあ、飛び降りるのはなしで」
「あ、ありがとうございます」
「ところで脱がしてもいい?」
「ところでってなんですか!?」
接続詞を万能の神とでも思っているのだろうか。
「だって、約束でしょ? 私はバッドエンドを書きたいのに、無理してハッピーエンドを書いてる。なら、みゃおちゃんも無理してくれなくっちゃ」
「ぼ、ボタンだけなら……」
下にはブラウスを着ているわけだし、カーディガンを脱がされたところでなにがあるわけでもない。
桜花先生の指が、カーディガンのボタンをゆっくりと外していく。一つ、ボタンが外れるたびに桜花先生が私の顔を覗き込んでくる。
ボタンという留め具をなくしたことで外側に開いていくカーディガン、それに伴う開放感と、寂寥感。思わず唇を噛んで、目線を落とす。顔が熱くなっているのを自覚しているので、蓑に隠れるしかなかった。
桜花先生はひとしきり、そんな私の姿を見て満足そうに頷いた。
「ありがとう。みゃおちゃんのおかげでだいぶインスピレーションが沸いてきたよ」
「そ、そうですか……。では、これでハッピーエンドを書いてくれるんですね?」
「もちろん。私、約束は守るよ」
よく考えたら今日だけでお願いを二つ聞いている気がする。規約違反ではないだろうか。
「ひゃあっ!? ど、どこ触ってるんですかっ!?」
なんて考えていたら、急に太ももの付け根を触られて、思わず腰を浮かせる。
「どこって、どこ?」
「そこです、そこ!」
「言ってくれないと分からないよ」
桜花先生はこの状況をどう考えても楽しんでいる。
「だから太ももですってば! それ以上は、だ、ダメですってばぁ……!」
桜花先生は答えてくれない。私の顔を至近距離で見つめるだけだ。このまま首を前に傾けたら鼻と鼻がぶつかってしまうような、そんな距離でぶつかる視線は質量を持っているかと錯覚してしまうほど強く、そして熱い。
いつも先に目を逸らすのは私だ。
足元へ落とした視界に映る桜花先生の指が、太ももの更に上へと進んでいくのが見えた。
鷹野に言われた「手を出されたのか」という問いが、頭の中でこんがらがる。
ついにラインを超えるときが来たのだろうか。
実際、本当に手を出されたとして、私は本気で拒むことができるのだろうか、
ギュッと目を瞑る。
すると、桜花先生がくすっと笑った。
「手首、痛くない?」
「え?」
「もう三十分くらい縛りっぱなしだから」
「い、痛くはないですけど。結構緩めに縛ってくれたので」
「そっか」
子供や、もしくはペットを愛でるかのように目を細めた桜花先生は、それから黙って私の拘束を解いてくれた。
あっけなく解放された手と、それから羞恥に、妙なもやもやを感じていると、桜花先生が顔を寄せてきた。
「期待してた?」
「し、してませんけども……!?」
「けどもって」
語尾が弱くなってしまったのは、耳にかかった吐息に身体が悪寒を覚えたからだろう。
三十分ぶりに返ってきた手首の感触を確かめながら、めくれ上がったスカートを直した。
「それで、どうだった? 縛られた感想は。恥ずかしかった? それとも、悔しかった? 抵抗しようとは思わなかった? たとえば、足とか、頭で暴れることもできたでしょ? どうしてしなかったの? どこの感覚が一番過敏になった? やっぱり、太もも? 参考として、教えてほしいな」
また触ろうとしてきたので身を翻すと、桜花先生は両手を挙げて一歩下がった。
「過敏になったのは、そうですね太ももです。スカートだからっていうのもありますけど、投げ出された感じが心細くて。悔しいというよりは、やっぱり恥ずかしかったです。これからなにされるんだろうっていう不安が、ずっと頭にあって」
「どんなこと想像しちゃったの?」
「このまま、お、襲われちゃうのかなって……」
思考を曝け出すのは本音と本質を暴露しているのと同じだ。つまり私の脳内には、縛られる=そういうことをされるという前提知識があるわけで、知識を得るには教材が必要なわけで。
今だけでも恥ずかしいのに、人生を思春期の頃まで遡られた気がしてもう今すぐにでもこの場所から逃げ出したかった。
しかし桜花先生は、笑うでもなく、バカにするでもなく、私の頭にふわりと手を乗せたかと思うと優しく撫でるだけだった。
「みゃおちゃんが嫌がることはしないよ」
「……あ」
すべてを許す吐息が口からこぼれて、ハッとした。
こうやってこの人は、これまで何人もの女性編集者に忍び寄り、手を出してきたのだ。一人くらいは、まんざらではなかった人もいそうなものだけど……。
やっぱり桜花先生には、何かもっと、大きな問題があるのだろうか。
その本性を暴くべく、桜花先生の余裕たっぷりな表情の奥に隠れたものを透かして見ようとする。人間観察にはそれなりの自信はあった。昔から感情には過敏だったし、顔色を窺うというのは幼少の頃から得意だった。
しかし、どうしてだろう。
この人からは何も見えてこない。
というよりも、透けないのだ。
まるで厚い石膏で出来た仮面を被っているかのように、温度すら届かない。
「どうしたの? そんなに見つめて」
ハーブティーを淹れてくれている桜花先生の横顔を凝視していたら、気付かれてしまった。
ぷい、と視線を外す。
椅子に腰掛けて、桜花先生が淹れてくれたハーブティーをおそるおそる飲んだ。
湯気があまり立っていないからそんな気はしていたが、少し温いだけで猫舌の私でも普通に飲めた。
「みゃおちゃん、休みっていつ?」
「基本的には日曜が休みです。明日は在宅なので、出社はしませんが」
「じゃあ明日。デートに行こうよ」
漫画家と編集者がデートに行くのって規則違反……じゃないんだよねアイドルじゃあるまいし。ただ、それが誘いを断る退路を塞いでしまっていた。
「デートですか? いいですね、私も、桜花先生のことをもっと知りたいです! 午後なら大丈夫ですよ!」
「そう。よかった。そしたら三時頃、駅中のカフェで待ち合わせしよっか」
よかった、なんて本当に思っているのだろうか。
お金持ちが百円そこらの得に喜ばないのと同じで、桜花先生にとって私なんて取るに足らない存在なんじゃないか。
「分かりました。じゃあ、三時に、そこで」
「うん。……ふふっ」
それを本当に嬉しそうに言うので、私も強く言えなくなってしまう。笑う桜花先生に首を傾げていたら、目が合った。
「いや、この前のみゃおちゃんを、今日は引き出せなかったなと思ってね」
「この前の私、ですか?」
「こじらせ作家! って啖呵切ったときのことだよ」
思い出して、顔が熱くなる。
「え、えー? そんなこと言ってないですよ」
無理しているわけではなかった。元々、人には愛想を良くするほうだし、それは経験上、そうした方が上手くいくからであって決してぶりっこしてるわけでもない。
本当の顔を覆うこと、厚い膜を被ること。それは自分自身を守る行為であって、健全な本能であるはずだ。
だが、桜花先生を前にすると、それも分からなくなる。
私が猫撫で声をあげると、桜花先生は黒目をキュッと小さくして、値踏みするように私を見つめる。私を観測し、思考の中で私を転がしている気がするのだ。
狙われているというのは、こういうことを言うのだろうか。
えへへ、と誤魔化すように弱く笑うと、桜花先生は隠しもせず、舌なめずりをするのだった。