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第6話

 今日は在宅の日だった。


 出社する必要がない日は、自宅でできるデスクワークを午前のうちに終わらせてしまい、午後は気分のリフレッシュや作品作りのためのインプットといった作業に時間を当てる。


 編集者になってから、一日一日の移り変わりがとても早く感じる。成人式には出なかったので自分が大人と呼ばれるようになった境目は曖昧だが、大学を中退したのが五年前なので随分と時間は経ったように思う。


 家賃五万のアパートは駅に近く、車を実家に置いてきた私にとっては立地がよかった。近くにはスーパーもあるし、生活にはさほど困ってはいない。


 部屋の中は観葉植物と、クローゼットに入りきらなかった服で埋め尽くされている。本はほとんど電子書籍なので、本棚はテーブルの上に置いてある小さなものが一つあるだけだ。


 壁に掛けられた時計は、二時を示していた。


 遅れてはいけないと早めに準備をしたのだが、少し早すぎたかもしれない。


 鏡に映った自分の前髪を指で整えながら、仕事に行くときより化粧の出来がいい自分を眺める。こんなにしっかり自分を色で着飾ったのはいつぶりだろう。清潔感とか、社会人として常識的な身だしなみを目指すことはあれど、自分を可愛いと思いながらまつ毛を上に向ける作業はここ数年したことがなかった。


 最近、可愛いと言われすぎたのかもしれない。そのせいで自惚れているのだ。ともすれば、これは見栄であり、一度もらった評価を覆したくないというだけの負けん気にすぎない。


 決して、色気づいているわけではないのだ。


 のだ、と自然に動く唇が、潤いを宿して艶やかに揺れた。明かりを消すと、鏡に映る自分がいつも通りに近づいて、少しだけホッとする。


 しかし、さて。時間までどうしようか。電車の時間は昨日のうちに調べておいた。二時三十分発の電車に乗ればいい。十二分ほどで待ち合わせの駅には着く。最寄り駅は徒歩で三分もかからない。


 部屋の真ん中で意味もなく立っていると、ちょうど電話が鳴った。


「もしもし?」

『宮尾? いまなにしてたの?』

「仕事だけど」


 電話してきたのは母だった。東北訛りの話し方に釣られながら、ぶっきらぼうに答える。


『あんた、おばあちゃんのところいつ来るの』

「忙しいんだよ。そっちには行く時間ないの」


 祖母の家はここから新幹線で2時間もかかる。そう易々と行ける場所ではなかった。


『仕事とおばあちゃん、どっちが大事なの? 宮尾が頑張ってるのは分かるけど、今はおばあちゃんを優先するときじゃないの? おばあちゃん、いつも言ってるのよ。宮尾はどうした、元気してるかって』


 今日は快晴。雲一つない晴れやかな空が広がっている。


 それなのに、母の言葉はいつだって私の心に雨を降らせる。


『おばあちゃん、宮尾のことずっと心配してるんだよ。宮尾は知らないかもしれないけど、おばあちゃん、宮尾が小さい頃からずっとあんたを我が子のように思って、大事にしてくれてたのよ』

「今は、忙しいから」

『宮尾が編集者になりたいって思うようになったのはおばあちゃんのおかげなんだよって話すとね、おばあちゃんいつも嬉しそうにするのよ。宮尾、あんた編集者になってから一度もおばあちゃんに会ってないでしょ。話してあげたらいいじゃない。きっと喜ぶわ』

「仕事が落ち着いたら会うよ」

『宮尾』


 言い聞かせるようなその声色が、昔から苦手だ。


 情に訴えかけて、悲劇をより助長するかのような、その演技がかった声が、嫌いだ。


「ちょっと呼ばれたから、仕事に戻るね」


 黒板をひっかく音を聞くと無条件に動悸がするのと同じで、母の声を聞いていると心がざわつく。


『分かった。宮尾も、体調には気を付けなさいね。寒いからって、厚着しすぎると……』

「もう切るね。それじゃ」


 一方的に電話を切ることに罪悪感はない。電話をしてきたのはあちらなのだから。


 ふと時計を見ると、いい時間になっていた。


 今日は天気の割に、夕方から冷えるらしい。


 ここ五年ほど着ていなかったダッフルコートを取りかけて、やめた。


 代わりに、すっかり着慣れてしまったカーディガンを羽織って、私は駅に向かった。




「桜花先生! すみません、お待たせしました」


 カフェの時計はデジタルで二時五十二分を表示していた。


 遅れたわけではないと思うのだが、桜花先生は私よりも早く来ていた。


 オフショルダーとバルーンスリーブデザインのニットに、マスタードカラーのボトムスを穿いていて、珍しく赤めのリップを塗った桜花先生は、笑うといつもより更に大人びて見えた。


「いいんだよ。楽しみすぎて、早く来すぎちゃっただけだから」


 テーブルにはマグカップが二つ並んでいたが、桜花先生の方は中身が空になっていた。


「外寒かったでしょ? 温かいもの飲んで、一息ついてから出かけよう」


 そしてもう片方は、私のものらしい。湯気が立っていないところを見るに、注文してからある程度時間が経っているようだ。


「すみません、私……コーヒーは」


 黒い水面に渦巻く白い泡を眺めて、申し訳なさに溺れそうになる。


「そっか。私こそごめんね。先に聞けばよかった。ここのカフェ、コーンポタージュが人気らしいから、それにしよっか」


 別に、罪悪感に押し潰される必要はない。さっき母の電話を一方的に切ったように、心を空っぽにすればいいだけだ。


 コーンポタージュは五分ほどで運ばれてきた。しかし、私は猫舌なのでなかなか飲むことができなかった。


「カフェインが、苦手なんです。ハーブティーくらいのは大丈夫なんですけど」


 冷めるのを待っている間、気まずかったので言い訳をするように呟いた。


「そうなんだね。ううん、言ってくれてありがとう。私が勝手に頼んだだけだからみゃおちゃんは気にしないで」


 そう言って桜花先生は私の分のコーヒーを飲み始めた。


 ようやく冷めたコーンポタージュを飲み干したの同時に、席を外していた桜花先生が戻ってくる。


「それじゃあ、行こっか」

「え、あれ? あの、お代は」

「言ったでしょ、私が勝手にしたことだから」


 桜花先生は手をひらひらと揺らして、店を後にした。


 外の風は家を出たときよりも鋭い冷気を纏っていた。


 今回の件は桜花先生いわくデートらしいが、ここからの予定を私は知らない。


 歩いている間、桜花先生は雪が好きなこと、それから夏が嫌いだということを教えてくれた。私が返事をすると、どれだけ適当な相槌でも、桜花先生は嬉しそうに私を見つめてくる。


 そういう熱を帯びた視線を浴びると、本当にデートのように思えてくる。


 工事中の道路に気付かなくて、私が段差につまずきそうになると桜花先生が私の手を引いて優しく抱き留めてくれた。くれた、というのも変な表現だ。


 後ろから追い掛けてくるような心臓の鼓動に焦りながら桜花先生の隣に並んで歩くその道中は、とても心穏やかではいられなかった。


 桜花先生が行きたかったのは、どうやらアニメショップのようだった。見慣れた青い看板の店に入ると、桜花先生は真っ先に漫画コーナーへと向かった。


「桜花先生も、やっぱり他の人の漫画を読んで勉強したりするんですか?」

「そうだね。自分の中で生まれるものには限界があるから、多少なりとも他の作品から影響は受けておかないと」


 漫画コーナーの奥の方に進むと『百合コーナー』というポップが見えた。桜花先生はそのポップがある本棚を物色しはじめた。


「みゃおちゃんは、こういう作品をよく読むの?」


 百合作品のことだろう。こういう、という言い方が他人行儀に聞こえたのは気のせいだろうか。


「桜花先生を担当することが決まってから、読むようになりました。ここの棚にあるような有名なものはほとんど読みましたけど、一番好きなのはこの『サキュバス狩りガール』ですね。テンポがよくて、読んでて楽しかったです。主人公もヒロインもすっごく可愛かったなぁ。ちなみに桜花先生は、この中で好きな作品はどれですか?」

「どれも好きだよ。特にこれ。『わたしをオカズにしたくせに』」

「え、えっちなやつじゃないですか……」

「うん。えっちなやつ」


 そういう漫画を読んでいる桜花先生が想像できない。とういう顔で読むんだろう。


 顔を真っ赤にして恥ずかしそうに? それとも「ふふふ」と気味悪く笑いながら?


 どれもありそうで、ないような。


「みゃおちゃんも、読んだんだよね」

「ま、まぁ」

「そっか」


 作品に罪はない。そして、読者にも罪はない。ただ、作品がちょっと、えっちだっただけ。それなのになんでこんな恥ずかしくなるんだろう。


「あ、そ、そうだ桜花先生! 桜花先生が一番好きな漫画ってなんですか? 是非読んでみたいです」

 熱くなる首元を冷ますため話題を変える。


 桜花先生はぐるっと後ろの棚まで移動して、青年コミックスの中から一冊取り出した。


「『蟹へ』かな。読み書きができないフリをした女の子が、詐欺でお金を稼ぐ話なんだ」


 表紙を見ながら語る桜花先生。


「最後は、どうなるんですか?」

「言っていいの?」

「はい。結末を知っても楽しめる派なので」

「最後は主人公が、ヒロインに殺されて終わり」


 何一つ動かない桜花先生の瞳孔が、ひどく不気味だった。


「ば、バッドエンドじゃないですか」

「素敵でしょ?」

「え、えーっと、どうして主人公はヒロインに殺されちゃうんですか?」


「因果応報ってだけだよ。詐欺で金を騙し取ってたんだから。それで不幸になった人から、復讐されるのは道理じゃないかな」

「うーん……主人公が死んだり、するのって、私はやっぱり苦手です……」

「死なない人間なんていないでしょ? 自然な結末だと思うけどね。ただ、これ二巻までしか出てないんだ。続き、読みたかったんだけど。打ち切りになっちゃった」


 桜花先生が愛おしそうにその本を撫でる。


 当然だ。そういう奇をてらっただけの暗い漫画は、ファンを得られない。もっと読みたいと思わせることができないどころか、もう二度と読みたくないとすら思わせてしまうのがバッドエンドなのだ。だからその打ち切りのような終わり方も、なるべくしてなったにすぎない。


「本当に好きなんですね、バッドエンド」

「好き。人が死ぬ話が好き。死んでくれないと納得できない。人間の命は、死んでこそ真価を発揮する。死は美談だよ。人間が人生の最後に見る、一瞬の輝き」


 その打ち切りになったという二巻も取って、私の手に乗せてくる。


「死んで初めて、命に価値が付く。死ぬまで優しかった人。死ぬまで趣味に興じた人。死ぬまで恋をしていた人。それから、死ぬまで我が子を愛した人……とかね。死はその人の命を照らしてくれる。だからこの漫画もそう。この漫画の主人公は、死ぬまでヒロインのことが好きだった。ヒロインを助けたくて……しょうがなかったんだよ」


 桜花先生が抱える美徳。人間としてのこだわり。漫画家として得た命の吹き込みかた。


 そのどれもが歪んでいて、無機質で、無情で。


 こじれている。


「気が向いたら読んでみて欲しいな。素敵な作品だから」

「よ、読めたら読みますねっ」


 持たされた二冊の本は、とてつもなく重く感じた。どんよりとした表紙から、漫画を読む前特有のワクワク感は伝わってこなかった。 


 それからも、桜花先生は他の漫画もオススメしてくれた。


 救いの無さがいいとか、死に際があっけなくてリアリティがあるとか、そういう暗い話を嬉々として話す桜花先生と私は、きっとこれからも相容れないのだろう。


 人が死ぬ話は、悲しい、というよりも。


 ただ、怖いのだ。



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