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第8話

「って、なんでこうなるんですか!?」


 全裸の状態で言うことではないかもしれない。


 上からシャワーをかけられて、視界が塞がる。目の前に鏡があることを思い出して、重力に任せて俯いたままにした。滴る水が、雨のようにタイルの床を打っている。肩を撫でられて、私が身体をぴくんと跳ねさせると、桜花先生の嬉しそうな声が背後から聞こえてきた。


「打ち合わせのたびに一回、お願い聞いてくれるって言ったよね。これもその一環なんだけど」

「このお泊まりって打ち合わせだったんですか!? というかそもそも、一緒にお風呂入ろうとしかお願いされてないはずですっ!」

「一緒にお風呂に入るってことは、身体の洗いっこをするってことだよ」

「そ、そんな願いを増やす願いをするみたいなやり口……」   


 シャンプーを泡立てて、髪を洗われる。美容室で施術してもらうのと遜色ないほどの心地よさに、一瞬溺れそうになる。


「私、洗うの上手って結構言われるんだけど、どうかな」


 誰に、どこで。


 そんな疑問が泡と共に洗い流されていく。


 すすぎ終わった髪をタオルで優しく乾かされ、グレープフルーツの香りがするトリートメントをコームで馴染ませていく。


 されるがままにされていると、鏡の向こうで桜花先生と目が合った。


「桜花先生って、女性が好きなんですか?」


 初対面のときから思っていたことではあった。そもそも桜花先生は百合漫画を書く人なので、本人もそういう趣向を持っているのかなと勝手に想像はしていたのだ。ただ、人によってはデリケートな問題になるかもしれないので直接尋ねることはしなかった。だが、桜花先生の振る舞い的に、きっと隠したりしているわけではないのかなと思ったのだ。


「ちょー好き」


 おどけたような言い方だった。


 女性なら誰でもいいのか。それともきちんと選別する基準はあって、その中で私は桜花先生の審査を通過してここへ呼ばれているのか。


 自分のことを可愛いと思ったことはあったりなかったりと時と場合とメンタルの強弱に左右されてきたごく一般的な容姿の私が、桜花先生のお眼鏡にかなったのだと思うと、少しだけなら顔をあげたっていいと思えた。


 トリートメントが浸透する十分の間、どうしていよう。浴室でふわふわと舞う泡を眺めていると、桜花先生が私の肩を叩いた。


「おっぱい触ってもいい?」


 煩悩剥き出しだった。


 さすがの私も、もう驚きはしなかった。お風呂に誘われた時点でまあそういう要求はあるだろうなとは思っていたのだ。


「こ、困ります」

「みゃおちゃんも触っていいから」

「え!?」


 思わず振り返って、視線が顎を滴る水のように、すすーっと下に落ちていく。意識したわけじゃないのに、吸い寄せられたのだ。


 桜花先生のスタイルは本当に良い。筋トレもしているのか、引き締まった腹筋が綺麗なくびれを作っている。贅肉なんてものはなく、それなのにガリガリに痩せているわけでもないその肉付き。首から肩へかけての曲線はそれが黄金比の証明であるかのように美しい。桜花先生もそこに自信があるのか、オフショルダーの服を着ていることが多い。


 そしてなにより、おっぱ……胸が大きい。目で見て、感じて、立体的にその形状を実況しようものなら私は変態になってしまうので口は慎んだが、芸術品のようなそれは、もはや同性としての憧れや尊敬以外の感情を抱くことができなかった。


 思えば、他人の胸を気にしたことなんか小学校のプール授業以来だった。自分以外の胸はどうなっているのだろう。大きさは、弾力は。そんな好奇心はまだ幼い自分への不安もあったのだと思う。

 だが、今はただ、興味というものに引き寄せられる。


「い、いいんですか?」


 桜花先生が頷いたのを見て、唾を飲んだ。


 決して私は女性が好きとかそういうわけじゃないと思う。ただ、興味というものは人間としての身体の構造というか、そういう曖昧なものに向けられている。それが好きだと言われたら、そうなのかもしれないけど。


 輪郭の定まらない定義に触れるように、私は桜花先生の胸に手を伸ばした。


 触れ方の礼儀や作法なんて、私には分からなかった。お椀型のふくらみは、まるで私の手を歓迎しているかのように思えた。


 触れる、握る、というよりは……覆う? ような形で、桜花先生の胸に触った。


 桜花先生の胸に触った。字面がヤバい。


 そして、触った瞬間、その柔らかさに頭が溶けそうになった。


 揉んだら、揉んだらどうなるんだろう。


 絶対もう十分以上経っていた。さっさと髪を洗ってここから出た方がいい。このまま浴室に留まっていたら、きっとのぼせてしまう。


 それなのに、これ以上進むことも、そして戻ることもできなかった。


 熱気に浮かされて、頭がクラクラとした。


 桜花先生が、私の手を掴んで、引き寄せる。もっと触っていいよと、言うかのように。


 その勢いで、桜花先生の胸の形が変化する。押し込まれる私の手。


 編集者の指が、担当漫画家の胸に埋もれている。


「ひぇあ」


 恐怖ゆえの声だったのかもしれない。


 あまりの柔らかさと、背徳感と、罪悪感に押し潰されて、私はそのまま卒倒してしまった。



 それから後の記憶はなかった。あってもらっては困るくらいだ。


 揉んではない。揉んではない……!


 それだけが私の理性を押しとどめる最後の砦で、私は自分の指先の紳士さを信じることしかできなかった。


 お風呂をあがってからは桜花先生と映画を観てゆったりとした時間を過ごしたが、その映画の記憶も全て消し飛んでいた。


 女性の胸を触ってドキドキするというのは、普通なのだろうか。それとも、そういう素質がある人のよくある症例なのだろうか。今までそんなこと意識したこともなかったので、驚きが大部分を占めている。


「今の映画って、世間的には面白いと言われているんだよね? みゃおちゃんはどこが面白かったか説明できる? 私はよく分からなかったんだけど」

「え!? あ、そ、そうですね……やっぱり、柔らかい雰囲気と、丸い形。あとは弾力……触れると形を変えるのが愛らしくて、なんだかちっちゃな生き物みたいで可愛かったです。へ、えへ」

「中々面白い表現をするねみゃおちゃんは……」


 い、いけない。煩悩に支配されかけていた。


 桜花先生と観たのは去年公開された音楽を題材にしたアニメ映画だ。シリアスなシーンはあまりなく、どちらかというとほのぼのした日常がずっと続く。観たあとは小さな幸せも愛していこうという前向きな気持ちになる。私は映画館で観たのだが、よく晴れた日だった。見終わったあと外に出て空気を吸ったら、とても爽やかな気分になったのを覚えている。


「私は何も起きなくて退屈だって思ったんだけど……そう、これがハッピーエンドなんだね」

「キャラクターたちがきっとこれからも仲良く音楽を奏でていくんだろうなっていう、未来への想起が楽しかったりしません? 見終わってからも、脳内でいくらでも補完できるっていうか」

「私としては、ラストシーンの一歩手前くらいでヒロインの子に死んでほしかったんだけどな。そっちの方がドラマティックじゃない? 死んでも尚地上に残り続ける彼女の残したメロディーを聴いて、命を救われた人もいるんだろうなって想像したら、切ないのと同時にどこか誇らしい、彼女の生き様を胸に刻みつけられたような感覚にさせてくれるはずなんだけど」

「そういう意見もあるかもしれませんが、せめて音楽性の違いとか、そういう方向にしてほしいです。死ぬのはだめです」

「どうして?」


 飲んでいたホットココアを片付けながら、私は答える。


「それがハッピーエンドの鉄則だからです」

「よく分からないな」


 押し入れから出してもらった布団を両手に抱えて、寝室へと移動する。


「でも、分からなきゃだね。みゃおちゃんのおっぱいを触るためにも」

「わ、私のなんか触っても楽しくないですよ……」


 パジャマ越しなのに、ペタペタと音がする。膨らみがないことにコンプレックスを抱いたことはないが、桜花先生の胸を見たあとだとその形状の差異に疑問は生まれた。


 布団を二つ敷いて、川の字で寝る。同じ布団で寝ようと言われると思っていたのに、少し意外だった。一回きりのお願い券をすでに使ってしまっているので、桜花先生もそこは諦めたのかもしれない。変なところで律儀な人だった。


「触りたいなぁ、触りたい。触りたいなぁ」


 布団の上に座った桜花先生が、懇願するように私を見つめてくる。


 パジャマ姿で布団の上に座り合うだけで、修学旅行の記憶が蘇る。誰が誰を好きだとかいう恋愛談義に盛り上がった学生時代の特別な夜。桜花先生にも学生時代はあったわけで、制服姿の桜花先生を、無性に見たくなるのは何故だろう。   


「そ、そんなに触りたいなら、いいですよ」


 私がそう言うと、桜花先生は目を丸くして驚いた。まさか肯定されるとは思っていなかったのだろう。


 こういうところだけは、分かりやすい。桜花先生は驚くと、必ず目がビー玉みたいになるのだ。


「わ、私も触ったので、おあいこです。か、貸し借りはなしにしたいだけでっ、触ってほしいとかじゃないですからね!?」

「嬉しい」


 桜花先生が私の布団に入ってくる。正座したまま、私は桜花先生の手を待ち受けた。


「でもごめん、我慢できない」

「へ?」

「胸だけじゃすまないかも」


 襲いかかってきたのは手だけではなかった。


 突然私に抱きついてきたかと思うと、桜花先生は私を押し倒したのだ。


「みゃおちゃんが可愛すぎるのがいけないんだよ」

「わ、う、うそ!? 待ってください、桜花先生……っ!」


 桜花先生の顔から余裕がなくなっている。


 冷や汗が出た。うそ、うそうそ。これ、冗談じゃない?


 そのまま桜花先生がのしかかってくる。体重を乗せられて、完全にもう逃げることはできなかった。桜花先生の太ももが、私の足の付け根に当たって、身動きが取れなくなる。


「嫌って言っても、やめないからね」

「あ、やっ……」


 桜花先生が口元を私の口に近づけてくる。


「そ、それはまだ早いいや早いとか時間の問題じゃなくてなんかこういろいろとマズイからやめろーー!!」


 思わず桜花先生を蹴り飛ばす。


 桜花先生はゴロゴロと転がっていって、壁に激突した。お腹を押さえ蹲ったかと思ったら、くすくすと笑い始めた。


「あははっ、あー、やっと出してくれた。みゃおちゃんのふしゃーってしてるところ」

「う……」


 まずい。せっかく良い子で通してきたのに。桜花先生と一緒にいると、つい化けの皮が剥がれてしまう。


「そういうことか」


 すると、桜花先生は両手をポンとコミカルに叩くと、神妙な顔で頷いた。


「これがハッピーエンドなんだね」


 勝手に納得したかと思うと、桜花先生は自分の布団に戻って毛布にくるまった。


 リモコンで電気が消されて、部屋が暗くなる。


 何が起きたか分からないまま呆然としていると、隣から寝息が聞こえてきた。


「は、はあ!? 寝付き早!」


 散々もてあそばれて、あげく放置されるって、どういうこと!?


 渋々私も布団に潜り込んだが、悶々としてなかなか寝付けなかった。



 翌朝、起床すると桜花先生の姿が見えなかった。


 リビングにもいない。どこへ行ったんだろう。


 廊下に出ると、寝室の反対側にある、普段は締まっているドアが少しだけ開いているのが見えた。中の部屋からは微かな光が漏れている。


「桜花先生?」


 声をかけても、返事はなかった。ドアをノックしても、同じだ。


「し、失礼しまーす」


 鶴が布を織っていたらどうしようと怯えながら、ドアを開ける。


 部屋の中を見て、私は息を飲んだ。


 なに、この部屋。


 床には大量の本が落ちていて、足の踏み場がない。充満する香りは、リビングに漂う爽やかなものではなかった。血なまぐさい、鉄のような錆びた香りが広がっている。その出所は、きっと散乱する栄養ドリンクの空き瓶だろう。まだ新しい。しかし、それではおかしい。桜花先生は昨晩、私よりも早く寝たじゃないか。そうすると、そこに転がっている、まだ水滴の残った空き瓶の説明が付かない。


 桜花先生は、机に向かって、漫画を書いていた。


 驚くくらい猫背で、液晶タブレットを左手で操作しながら、右手に持ったペンをものすごいスピードで動かしている。


 無機質に響き渡る、ペンの音。


 いつもは凜とした立ち姿の桜花先生が、食らいつくような姿勢で漫画を書いている。


 まるで何かに取り憑かれたように、漫画にしがみついている。


 私はその後ろ姿に、いつまで経っても声をかけることができなかった。


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