PTSDという言葉があるらしい。
心的外傷後ストレス障害と呼ばれるその病気は基本的に事件や事故などを目の前で遭遇、または自身で体験した場合にそれがトラウマとなり後の日常生活に支障が出るような病気の総称だ。
俺、桐谷順には小学生低学年時の記憶が無かった。
医者曰く、目の前で見た物が原因でPTSDになったのだろうと言われた。
俺に残っている最後の記憶は、自宅の玄関の天井から母親がぶら下がっている光景だ。
恐らくその光景がPTSDになった原因だろう。
俺の父は陸自の自衛官だった。
陸上自衛隊最強の部隊と言われる第一空挺団の隊員だった。
だが、その父は訓練中の事故で殉職しこの世を去った。
父を愛した母にとっては相当ショックだったのだろう、数日間は泣き続け相当やつれていたらしい。
そしてそんな母は最初、俺を道ずれに心中を図ろうとしたらしい。
だが結果的に母親としての理性が働いたのか、俺だけを残してこの世を去った。
結果、俺は天涯孤独となってしまった。
だがそんな俺を引き取ってくれたのは父と同じ部隊に属していた柏木家だった。
そして桐谷家と隣同士だったおかげで俺は転校することなくいつもの生活に戻ることで来たのだ。
そして学校にまた通い出した後もクラスメイトは接し方を変えることは無かった(先生が取り図ってくれたのだろう)。
そんな中昔からの友人であった峰もいつも通りに接してくれたのが結構な救いだった。
そんな俺に運命の出会いとも呼べる出来事が舞い降りる。
「はい!皆さん!新しいお友達を紹介します。はい自己紹介しましょう」
「……」
先生がそう言い、挨拶を促すが少女は一言も発さない。
諦めた先生は自らチョークを手にすると、少女の名前を書いていく。
『小林夏美』
「小林さんは両親の仕事の都合で引っ越してきました。皆さん仲良くしてあげてね」
「「「はーい」」」
「じゃあ小林さんの席は窓際のあそこね」
「……」
先生が開いている席を指さすと、夏美はさっさと歩いて行った。
その時俺は気づいた。
夏美の顔はかなりやつれており、目にも生気がなく……まるで抜け殻のようになっていることに。
「……」
「……では朝会を始めます」
昼休み、先生に呼びだされた俺は職員室に来ていた。
「あ、桐谷……じゃなかった柏木君」
「どっちでもいいです」
俺は柏木家に引きとられる際養子縁組の形をとったので戸籍上でも苗字は柏木だが俺にとっては桐谷で呼ばれても問題なかった。
「あのね、小林さんの事なの」
「はあ」
「朝会の時に両親の仕事の都合でとは言ったけど、実はね、小林さんの両親……数週間前に事故で亡くなってるの」
「事故……ですか」
俺と同じで両親が居なかった。
「それで母方のおばあさんの家に引き取られたんだけど。よほどショックだったのね、誰が話しかけても反応がないみたいでね。こういう時は担任の私が何とかするのが仕事なんだけど。現状私でもどうしようも無くて」
「はあ」
「そこでここからが本題。教師である私が言うのはあれだけど柏木君も両親を亡くしてるでしょ?同じ境遇同士なら何か出来ないかって……本当に教師として失格だけど……小林さんとお話して友達になって欲しいの。もちろんこっちとしても出来る限りの手助けはするから」
「なるほど」
俺は少し考えた。
確かにお互い両親を亡くしている者同士、何か通じ合う可能性もあるだろう。
だが今の夏美は両親を亡くし生きる理由が無くなっている状態だ。
接し方を間違えれば大変な事になる。
やるなら少しずつ時間を掛けてじっくり心を開かせるか、一発に掛けて一気に行くか。
だが現状、前者であれば時間を掛けすぎれば間に合わない可能性すらある。
その手加減を俺は出来る気がしなかった。
だから選んだのは後者だった。
「分かりました。でもやり方は俺のやり方でいいですか?少々強引になるかもしれませんが」
「うん、大丈夫。こっちもなんとかフォローするから」
「分かりました」
放課後。
「順、遊びに行こうぜ」
「ああ、あ、ちょっと待って」
俺はゆっくりと無心で帰る準備をしている夏美の前の席に座る。
そして一手で勝負をつけるために声を掛けた。
「小林。先生から話を聞いたよ。両親を事故で亡くしたんだって?」
「……」
ピクっ。
片付けている小林の手が止まった。
———よし、反応した。畳みかけるか。
「事故死ってことはご遺体はずたずただろ?良かったじゃないか酷い状態の両親の死に目に立ち会わなくて。病死なら良いが、事故死なら見れないレベルだろしな、運がよか……」
「黙れええええええ!」
夏美の両手が俺の首に掛かるとそのまま引きずられるようにして地面に伏せられると馬乗りの形になる。
———てか意外と力強いな。
「順!」
峰がすぐさま助けようと走り出すが、俺は右手を上げて制止する。
「は?」
俺は目線で大丈夫だ、俺に任せろと送る。
「……分かった」
俺は目線を夏美に戻す。
夏美は激怒の表情で目に涙を滲ませていた。
———やっと感情が見えてきたな。
「……お前に……何が分かる!……お前なんかに!」
少しずつ俺の首を絞める力が強くなっていき、少しづつ意識が遠くなり始める。
———さすがにちょっとまずいか。
俺は右手で静かに夏美の両手を叩く。
「……なに?何か言いたいことがあるの?くだらないことを言ったらすぐにまた絞めるよ」
少しだけ首を絞める力が弱くなる。
「……ふー……はあはあはあはあ」
「何か言いたいことでもあるの?あんたなんかに私の気持ちが分かるわけない!ふざけんな!」
「……知ってるか小林」
「は?」
「死んだ人間って体中の力が抜けてしまうから色々出てしまうんだと」
「何の話?」
「要は死ぬときに腸の中に何か残ってると無くなった後、外に出ちゃうらしいんだ」
「だから何?なんの話をしてるの?」
「つまりだ、俺の覚えてる限り……あの時そういう匂いはしなかった……そしてその前日……いやほとんど記憶は無いけど俺の好物だった唐揚げの味は覚えてる……でも母さんは食わなかった……じゃああの時から母さんは俺を残して死ぬ気だったんだなって」
「え?……それって……」
ここでようやく夏美の表情が驚きに変わった。
「そりゃあ聞かされてないよな。俺もお前と同じで両親が死んでるんだ」