「……んー……」
「あ、魂子先生。今起きました?」
「ああ」
アリスの部屋から戻った魂子は研究所にて一通りの除染作業を済ませると、三時間ほどの仮眠を取っていた。そして研究室に戻った魂子を他の研究員が出迎える。
「まったく毎度思うんだが、ブドウ糖を摂取しているのにも関わらず睡眠が必要なのは本当に合理的じゃない。他にもやることがあるのに」
「ははは、それが人間ですよ。それより笠松君が先生を呼んでました」
「分かった……それより、何か進展はあったかい?」
「いえ、今のことろ。まだ解析段階です」
「了解だ」
この国立感染症研究所では一応魂子が所長という扱いになっているが、名ばかりである。当の本人の魂子が研究にばかり集中しているおかげで所長らしい仕事は何一つしていない。だが国としては一大学病院で診察しながら研究させるよりはここで研究に没頭してもらった方が国にとって良いと考えたのである。
この研究所には様々な研究員が居るが中には医師免許を持ってない人間もいる。だが魂子が室長をしている第一研究室だけは所属している全研究員が医師免許を持っている。これは現在のように未確認の感染症、未曾有の感染症が出現した場合に現地に赴いて医療行為と並行して現地で研究を行うために編成されたチームだからだ。
「笠松君」
「あ、先生」
そして魂子が笠松に話しかける。顕微鏡で何かを観察していた笠松は一旦目を離すと魂子に目を向ける。
この笠松はこの第一研究室で唯一魂子が前まで所属していた大学病院で魂子の助手をしていた医者である、本来なら魂子だけがこの研究所に来る予定だったが本人の強い希望で一緒に来たのだ。そのほかの者は新たに新設された際に雇われた研究員だ。
「話とは?」
「……まずはこれを見てください」
そう言うと笠松が席を魂子に明け渡す。魂子は椅子に座ると、顕微鏡をのぞいた。魂子の目に映ったのは何の変哲もない誰かの免疫細胞だった。
「……これは……ただの免疫細胞じゃないか?これを見てどうしろと?」
「これは僕の免疫細胞です。ここに今は西京で静かに感染拡大しているインフルエンザB型のウイルスを入れてみます」
そう言うと笠松は注射器を使い、免疫細胞の液体の中にウイルスを注入する。するともちろん笠松の免疫細胞は注されたウイルスを駆逐しようと働きだした。
「……いや当然の動きだ」
「ここからが本題です。次に見ていただくのは、アリスさんから摘出した検体の中の免疫細胞です」
笠松は自分の検体とアリスの検体を交換する。
そして魂子はそれを顕微鏡で見るが、ここである異変に気付いた。
「……っ!私の知らない細胞があるように感じるんだが?」
「はい、最初は勉強してない細胞の類かと思いまして、色々調べたんですが、どうやらどの論文や書物を見てもこの細胞に関する物はありませんでした」
「ふーん、じゃあこの細胞は一体なんなんだ?」
「今から見せます。まず今回アリスさんが感染したのはインフルエンザA型でしたので同じウイルスを注入してみます」
笠松がウイルスを注入する。すると魂子や笠松も知らなかった細胞はどの免疫細胞よりも早くそのウイルスに飛び掛かると一瞬で食べつくしたのだ……俗に言う捕食である。
「ほう?中々元気がいい細胞だな。それで?」
「次にインフルエンザB型のウイルスを注入します」
今度はインフルエンザB型のウイルスが注入された。だがその様子を見ていた魂子は驚愕した。なんと先ほどまで活発に動いていた免疫細胞が一切動く気配が無かったのだ、それどころか注入されたウイルスも何故か免疫細胞を避けるように動いているのである。
「……ありえない。何だこの細胞は!」
「私もびっくりしてます。試しに他のウイルスを注入してみましたが、結果は同じ。まるで……」
「まるでインフルエンザA型にのみ力を発揮する免疫細胞かのようだな」
「ええ」
だがこの時点で二人の頭にあったのはこの細胞がインフルエンザA型に特化した細胞の出現という結論では無かった。何故なら本来アリスの体内にそのような細胞があるなら感染はしていても発症しないはずなのである。
『働く細胞』を知っている方なら分かるだろうがそもそも発症したというのは体に入ったウイルスと免疫細胞のある意味戦争状態に入った事を体に免疫反応として生じている状態である。だが稀に免疫細胞が完全勝利し、発症しないこともある。
アリスが熱を出したということはこのインフルエンザ特攻細胞は仕事をしているように見えてしてなかったと言っても良いのだ。
「どう見ます?」
「……これは私の仮定によるものだが。これはインフルエンザA型特化型の細胞じゃない、もしそうならこれほどの攻撃力だ、発症すらしてないだろう。なら考えられる可能性はいくつかあるが……この細胞が……体内に侵入したあらゆるウイルス、バクテリア、細菌等に効果的でそれだけに特化した細胞に変化する特殊な細胞だということだ。現状アリス君しか有してないから……A細胞とでも言えるかね」
「アリスさんのユニークでしょうか?」
「龍から聞いた限りアリス君のユニークとこの件は全く関係ないはずだ。……まったくアリス君は何者なんだ?聞いた話、数々の事件に巻き込まれては解決するわ、体内に未知の細胞を持ってるわ。同じ識人、同じ人類とは思えん」
「先生、これを見せたのは僕にとある考えがあるからなんです」
「ほう?奇遇だね、私も今これを見た後にある考えが浮かんだよ。同じだといいが、それで?この細胞の培養は?」
「やっています。ある程度量が確保できれば試験用マウスに血清として投与してみる予定です」
「分かった。ではその他必要な準備や交渉はやっておこう」
そう言うと笠松は顕微鏡に向かい、魂子は研究室を後にした。
「んーーー!完全復活!」
倒れてから約一週間後、あたしの体は倦怠感も無く、咳も無く、熱の感じもなくなり完全体になった。
一応熱の方は三日目にはひいてはいたが、インフルエンザのルールである熱が引いても二、三日は自宅待機を守っていたため、昨日はずっと自分の部屋でトレーニングをしたり、銃のメンテナンスをしているだけだったのだけども。
まあ一つ気になることがあるとしたらあたしが倒れた際に同席していた省庁付きの識人たちがどうなったのかという事なんだよねえ……あれ以来、インフルエンザのせいだからか見舞いに来る人がほぼいなかったせいもあって何一つ情報がないのよ。
もう一つ、あたしが倒れた日に師匠と何かしら話した気がするけど……やばい、会話内容おぼろげすぎて思い出せない。家族が全員病気で死んだことくらいしか思い出せない。なんか重要なこと言ってた気がするけど。
「ま、後で思い出すでしょ!さ!仕事しご……」
「やあアリス君!元気になったかい!」
「魂子さん!おかげさまで!どうしました?」
「私は君の主治医だよ?別に手術はしてないが術後診断だ。熱やら咳やらはどうだい?」
「今のことろ……ピンピンしてます!」
「それは良かった……なら本題に入ろう、座ってくれ」
「へ?……はい」
ベッドに座ると魂子さんは机の椅子に座り神妙な表情になる。
「さて……細かい段取りはやめにして単刀直入に言おうか。アリス君、今から私と福島に入り、新型コロナに感染してくれ」
「……はい?」
魂子さんの話はこうだ。今回あたしがインフルエンザに感染したことによってあたしの体内に特殊な免疫細胞発見されたこと。その細胞は体内にとって害となるウイルスや細菌が侵入するとそれのみに特化した免疫細胞に変異することが出来、敵を駆逐することが出来るらしい。
その細胞を培養……つまり増やし、そこから血清を作り出せれば現在コロナで入院している患者たちに投与することが出来るという話だ。
「なるほど……あたしの体にそんな細胞が!?」
「ああ、信じられない話だがね。色々な試験を繰り返した結果私が導いた答えだ」
「はあ」
「アリス君、一般的にだが未知のウイルスが発見された場合治療薬を作るのにどれくらいかかるか知ってるかい?」
「……あんまりそっちの分野は詳しくないので……どんなに早くても半年から一年でしたっけ?」
「よく知ってるね。そうだ、つまり現状福島周辺で流行っている新型コロナに対する治療法は対症療法……つまり酸素不足なら酸素吸引、熱があれば冷やす、水分不足なら水分を投与するというその場その場の対応しかない。一応この世界は魔法薬で多少治療薬作成を短縮できるが現状は間に合わない……だから君の体内の万能細胞が必要なんだよ」
「分かりました!やりましょう!」
「……」
何故か魂子さんが呆気にとられていた。
「どうかしました?」
「いや……もっと駄々をこねて拒否する物かと思っていたから驚いているんだが」
「何で?」
「現状、軽傷で済んでいる者もいるにしても大抵の人間は……重症になって苦しんでいるんだよ?その状態に嬉々として感染しに行くのはなんでだい?」
「……今感染者数はどれくらいですか?」
「ん?詳しい数はもう数えてないが……五十万は超えているはずだ」
「あたし、普段から決めてることがあってですね、目の前で助けを求めてる人は美女か美少女か美少年以外は助けないことにしてるんです、めんどくさいしあたし以外でもやれるでしょって」
「な、なるほど?」
「でも!今回の件は違う!あたしが一回感染すれば……少なくとも五十万人は救えるんですよ!しかもあたしにしか出来ない!これはもう主人公が身を犠牲にして多数の人間を救う展開じゃないですか!やらない理由はない!」
「ははは!そうか!ありがとう!……はぁ、難題かと思われたことがこんなあっけないとはな!」
「因みになんですけど、師匠は何て言ってます?一応師匠の許可はとっておかないと」
「問題無いよ。龍こそ最初は難色を示したがね、最終的には『アリスに任せる』一言だ」
「そうですか」
信頼されて……いやないな、師匠の事だ自分が何言おうがあたしがやるからあたしに選択権を委ねたんだな。
それにしても魂子さん、病気を治すためにあたしを感染地に突っ込むとは中々アグレッシブだなあ。
「魂子さんって病気を治すためなら結構無茶な手段でも使うタイプですか?」
「……アリス君、私のユニークは旧世界で認知されている感染症やあらゆる病気に関する情報や確立されている治療がすでに脳内にインプットされていることだ。しかもこれは何故か更新されていてね、旧世界で新しく認知された病気や治療法が開発されるとほぼ同時に脳内にアップデートされるんだよ」
わーお、まさにチートじゃん。
「あれ?チート……ユニークなら例えば人を見れば病が分かる的なユニークの方が便利な気もしますけど」
「それは私の師匠だね。残念ながらもう亡くなってしまったが」
あ、居たには居たのか。
「だがこれだけのユニークをもってしても直せない病気もある、この世界特有の病気とかね。アリス君知ってるかね?旧世界に置いて一番人を殺した戦争と言っても過言ではない第二次世界大戦が無かったら旧世界の技術レベルはもっと遅れていたと」
「聞いたことはあります」
「元々人を殺す技術だったものを後に人の命を救うために改造されたものだってある。元々違う目的で作られたものが実は人を救うことが出来ると後に判明したものだってある。そう考えれば第二次世界大戦もある意味必要な現象だった……と考えられるかもしれん。まあそれでも戦争自体理解できない行為ではあるが」
「そう……ですね」
「私はこう思う、人の命を助けたいなら躊躇してはならない。例えそれが今の倫理観で非人道的だと罵られようが、その道が自分にとって正しいと信じているのならば、人を助けたい一心で行動すればいずれ歴史がその行為を評価してくれると。私は医者だ、他人に何と言われようが人を助けるためなら鬼畜にでもマッドサイエンティストにでもなる」
この人は強い。ある意味信念があるんだ。人を救いたい、だからこそ自分の正しい道をただひたすら突き進むんだ……言葉にする能力は何処かに置いてきたようだけど。
「さてアリス君、準備しようか。これから最低二週間福島の病院で入院生活だ」
「あの魂子さん、一つお願いが」
「何だい?」
「すべてが終わった後で良いので、あたしに応急処置……縫合とかの技術を教えてくれませんか?」
あたしは久子師匠の下で読んだ応急処置に関する書物で遼さんを応急処置した。でもやはり銃の技術や体術と同じだ、本を読んだだけでは意味が無い。ちゃんと技術を知ってる人間に教えてもらわないとその先は無理だ。
「……別に応急処置は問題なんだが……アリス君医師免許持ってないだろ?縫合なんて使わんだろ」
「……」
あたしは目をそらした。すでに一人だけ使ってしまっていたから。
「その人が君を訴えないことを祈り給え。因みに君が参考にした本は何処だい?」
「これですね」
修行の後、久子師匠が持って行っていいと言っていたため、本棚に置いていた。それを渡す。
魂子さんは本を数ページほど読んだ後、大きな溜息を溢した。
「え!?何か間違ってるんですかそれ!」
「いや……かなり古いものだね。一応言っておくが、医学において本当に正しい知識など存在しないんだよ。例えばの話だが、先ほどの第二次世界大戦、前線の兵士はタバコが配られていたそうだ、これは煙草のニコチンがわずかでも鎮痛作用になるからだとか、戦場に居る恐怖をやわらげるだとか言うが今はただ単に健康を害する物の代表だろ?ヒロポンも同じだが。十数年前では当然だと思ってた技術や知識も後になって間違ってたなんてどこにでもある話だ。……この本は古すぎる」
「Oh」
遼さん……ちゃんと病院で処置してもらったって言ってたけど……あたしの処置で大丈夫だったんですかね!?
「はあ……このまま間違った知識のままいつも通りの処置をしてもらうのもまずいな、分かった医師免許が要らない範囲で私に出来ることを……縫合も含めて教えてやろう。……と言っても外科は専門外なんだがな」
「……オナシャス」
魂子さんから応急処置(現代版)を教えてもらうことを約束してもらったあたしは早速、福島へ行く準備を開始した。