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二〇二七年七月二十三日

 二〇二七年七月二十三日。

「じゃあ、よろしくね」

 場所は南校舎の二階、二年二組の教室。窓の外には小さな雑木林が広がっていて、そのせいで校庭の景色も、遠くの富士山も見ることはできない。おまけに日当たりも良くはない。けれど、季節のせいだろうか。それとも放課後という時間帯の魔法なのか――教室の空気が、春よりもずっと明るく、透き通るような青色に満ちているように感じた。

 放課後。生徒会選挙で圧倒的な投票率を記録し、当選を果たした小野寺さんが、早速こちらにやってきた。しかも、すでに、キャストに決まっているらしい生徒たちまで引き連れて。

 私はべつに彼女を避けていたわけではない。けれど、こうした「面倒ごと」に巻き込まれるのは、正直ごめんだった。にもかかわらず、小野寺さんの態度には、そんな私の気持ちなど最初から存在していないかのような勢いがあった。いや、それどころか――「あなたなら協力してくれるでしょ?」と言わんばかりの力強い目をしている。

 もちろん、私には断る権利もあるはずだ。けれど、おそらく性格のせいなのだろう。結局私は、無条件降伏に近いかたちで、小野寺さんたちの勢いに捕まってしまった。

「本当にやるの? しかも、なぜ『17の夏』?」

「やるよ。だって、公約で言ったし……ねー!」

 小野寺さんがキャストたちのほうを振り返る。すると彼らは、明るく元気に「おーっ」と声を揃えて応えた。その様子はまるで、別世界の住人のようにまぶしい。太陽のオーラを纏ったような彼らの笑顔に、私はちょっとだけ戸惑う。

 だけど、そんな私の困惑など、彼らの光の中では影すらつくれないのかもしれない。

 そのまま、小野寺さんは何事もなかったかのように、キャストの紹介を始めた。

「まずは、輿水大気さん役。野球部二年生主将の長谷川翔太くん。ちなみに、大気さんが生まれ変わった時の――工藤光さん役も兼任するわ」

「どうも、橘先生。よろしくです!」

 話したことはなかったが、彼のことは知っていた。六組の野球部キャプテン。キャプテンのくせに、どこかチャラチャラしていて軽い印象。でも、実は根が真面目――という噂も聞いたことがある。

「そして次に、橘さんのお姉さん、橘千紗さん役。吹奏楽部二年、副部長の横内涼香さん。ちなみに、橘先生と同じくトランペットパートよ」

「ごめんね、春。私も映画に出てみたかったし、それに……橘先生の高校時代を演じるって、ちょっと嬉しいかも」

 涼香とは、一年生の時に同じクラスだった。彼女の姉――つまり私の姉は、去年までこの学校で教員をしていて、吹奏楽部の副顧問でもあった。彼女に対して、姉は特に熱心に指導していたから、慕ってくれているのだろう。

「最後は俺だな。野球部二年、久保田進。キャッチャーだ。翔太とは幼なじみ。よろしく」

 彼も六組で、同じく野球部。無口で威厳があって――私の中では、そんなイメージしかなかった。

「と、まあ、こんな感じで撮影していくから。よろしくね、橘さん」

「ちょ、ちょっと待って。本当に映画作るの?」

「うん? そうだけど……あ、詳しいことはまた後日説明するけどね」

「いや、そういうことじゃなくて……何より――」

 私は、もともと自分の感情をあまり外に出すのが得意じゃない。でも、このとき湧き上がったのは、そういう恥ずかしさとは違った。もっと、根の深いところにある感情だった。

 本音を言えば――正直、映画そのものよりも、この作品の存在を全校生徒の前で公言されたことのほうが、よほどショックだった。

 私は、自分で書いておいてなんだけど、この物語が「表舞台」に出ることなんて、まったく望んでいなかった。むしろ、書き終えたあと、その存在すら忘れかけていたくらいだったのに――。

『17の夏』――私にとって初めての長編であり、中学時代、文学部の課題として書いた作品である。

 中学二年の冬。顧問の先生から出された課題は、「家族を題材にしたノンフィクションを書くこと」だった。同級生たちは少し気恥ずかしそうにしていたが、私はその話を聞いた瞬間、すぐに一番上の姉・千紗のことを書こうと決めていた。

 私には、十歳年の離れた姉がいる。

 橘千紗。私が通う第二甲府高校の出身で、去年までこの学校で教師をしていた。今は結婚のため、休職中だ。

 明るくて、優しくて――そして妹の私から見ても、文句なしの美人。だけど、そんな姉にも高校時代、一時期不登校気味になった時期があった。私がちょうど六歳の頃のことだ。

 幼い私にとって、何が起こったのかはまるで分からなかった。ただ、居間でため息をつく両親の姿を見て、子どもながらに「ただ事ではない」と感じたことは、今でもはっきりと覚えている。

 だからこそだった。今回の課題をきっかけに、当時何があったのかを知ろうと決めた。

 もちろん、いじめなどの聞きづらい事情があった可能性も覚悟していた。でもそれ以上に、「何があったのか知りたい」という純粋な好奇心のほうが勝っていた。そしてなにより、人のいい姉ならきっと話してくれると信じていた。

 ――しかし、思った以上に苦戦した。

 何度お願いしても、姉は首を横に振るばかりだった。

「別に面白い話じゃないよ」

 そう言って、はぐらかそうとする。

 それでも私は食い下がった。何より「話してくれないと課題が終わらないんだ」という大義名分を振りかざして、しつこく頼み込んだ。

 ようやく口を開いてくれたのは、それからしばらくしてのことだった。数回に分けてインタビューを重ねる中で、私はすぐに、後悔することになる。

 ――約十年前の二〇一六年。

 高校二年生だった姉には、人生で初めて好きになった人がいた。

 野球部の一学年下。当時、第二甲府高校の一年生エースとして注目を集めていた、輿水大気さんという人だ。

 一年生にしてエースナンバーを背負ったほどの逸材で、かなり有名な選手だったらしい。でも、恋愛にはまるで無頓着で、不器用な部活バカ。だからこそ、同じように真っ直ぐな姉と惹かれ合ったのだという。

 そして、大気さんの告白から一ヶ月後――二〇一六年十二月十五日。

 その日、姉は告白の返事をする予定だった。もちろん答えは「イエス」。

 けれど、その約束の日。大気さんは交通事故に遭い、そのまま帰らぬ人となった。

 姉は深い絶望の中で、一時的に学校に行けなくなった。

 ――そう。当時の私が見た姉の姿は、愛する人を失い、その喪失に打ちひしがれる姿だったのだ。

 そこから姉は、同じクラスで野球部の三浦信二さんという人の支えもあって、徐々に回復していった。さらに驚いたことに、のちに一学年下に転校してきた工藤光さんという野球部員に、輿水大気さんの意識が宿っていた――つまり、姉は再び彼と再会したという。

 ただし、その再会にもタイムリミットがあった。

 最終的に、姉と輿水大気さんは、また別れることになる。

 私は正直、そんなセンシティブな話だとは思っていなかった。聞かされたときには、深く動揺した。

 でもそれと同時に――本当に、そんなことがあったのだろうか? という疑問も湧いてきた。

 特に「意識が戻った」「再会した」なんてくだりは、生き返りとでも言うべきか……にわかには信じがたかった。正直、病んでいた姉が見た幻覚か、妄想なのではないかとも思った。

 けれど、嘘の下手な姉の様子からして、おそらく本当にあったことなのだと、私は次第に確信していった。

 そこまで深く探る必要はないのかもしれない。けれど、変に真面目な私は、「できる限り事実を書きたい」と思ってしまった。

 だから、しょうがないと自分に言い聞かせながら、当時の関係者に片っ端から話を聞いて回った。

 正直、最初は信じていなかった。

 けれど、その考えはあっけなく打ち砕かれた。

 とくに決定打となったのは、輿水大気さんの親友であり、すべての事情を知っている三浦信二さんの証言だった。彼は、姉の話が全部本当だと教えてくれた。そしてもう一つ、決定的な証拠を見せられた。

 輿水大気さんの生前に書かれた文字と、工藤光さんの時代に――つまり、輿水大気さんの意識が宿っていた時期に――書かれた日記。

 両方の筆跡を見比べて、私は息を呑んだ。

 あまりにも特徴的なその文字は、まったくの同一人物によるものだった。書き方の癖も、漢字のバランスも、何もかもが一致していた。

 ――納得するしか、なかった。

 その後、姉と当時の関係者たちへのインタビューを通して、私は当時何が起きたのか、ほぼ把握することができた。

 だから、本来ならそれで“任務完了”だった。必要な情報は集めた。あとはまとめるだけ。

 でも、私はそこで執筆をやめようとした。

 だって、これは……ちょっと、いや、あまりにも――重すぎた。

 ただ重いというだけじゃない。そもそも、書いていいのだろうか? という根本的な疑問すら湧いてきた。

 実際に亡くなった人の話である。しかも、私の姉が愛した人であり、その死に真正面から向き合わなければならない。

 もちろん、文学の世界では歴史上の人物や、過去に亡くなった人が題材になることは珍しくない。けれど、これは違う。あまりにも近すぎる。

 同年代の「死」。身内の中にある「喪失」。

 そんな“近すぎる死”に向き合うことは、当時の私にとってあまりにも畏れ多いことのように思えた。ただ触れるだけで、罰が当たるような気がして、私はその重みに押し潰されそうだった。

 だから、逃げようとした。

 でも――逃げさせてはもらえなかった。

 姉と三浦信二さん。ふたりから、最後までぜひ書いてほしいとお願いされた。

「私たちも、大気くんのことを忘れたくないから」

 その言葉に、私は心を揺さぶられた。

 迷った。心の底から、迷いに迷った。

 そして最終的には、なし崩しに、苦しみながらも執筆することを選んだ。

 まるで自分に言い聞かせるように、これは“良いこと”だと。

 ――いいことなんだ、これは。

 結果的に、私は作品を書き上げた。

 普通に嬉しかった。形は何であれ、初めての長編である。

 けれどそれを提出したのは、顧問と、当時の一部関係者だけだった。

 その後、私は『17の夏』のデータを消去した。

 理由は簡単だった。もう、疲れ果てていたのだ。

 というか――早くこの話から解放されたかった。

 どれだけ立派な大義名分があろうと、私は彼の記憶に土足で踏み込んだ。その事実だけが、胸に突き刺さっていた。

 まるで、彼のお墓を荒らしてしまったような気がして――私は深く、後悔した。

「……大丈夫?」

 先ほどとは打って変わり、小野寺さんが不安そうに私の顔を覗き込んでいる。その優しさが、今の私には少しだけ重く感じられた。

 けれど――私は、その心配そのものよりも、自分の胸の奥でざわめく何かに、また意識を持っていかれていた。

 もう、終わったはずなのに。

 どうして今さら――。

 それにしても、なぜ小野寺さんがあの作品のデータを持っているのか。当時、取材を受けた誰かから漏れたのだろうか? だとすれば、小野寺さんは当時の関係者とつながっている……?

 いや、そんなことよりも――やはり私は、この話から逃れられないのだろうか。

 まるで、墓を荒らした罰のように。

 この物語は私に、何度でも手を伸ばしてくる。

 もう一度向き合うことが、どれほど辛いか。

 そんな思いが全身を駆け巡り、私は知らず知らずのうちに肩に力が入っていた。

 その瞬間、ようやく自分が“通常運転”ではないことを、自覚した。

「あー……ごめん。うん、ちょっと……」

 疑念と悲しみに巻き込まれた私の変化に、気づいたのだろう。先ほどまでノリノリだった小野寺さんとキャストたちの間に、少し気まずい空気が流れた。

 その空気を生んでしまったことに、私は一瞬、申し訳なさを覚える。

「ごめん……いや、まあ嬉しいんだけどね。こう、自分の作品が評価されるって……」

 気持ちを落ち着けるように、少し静かなトーンで話すと、小野寺さんは嫌な顔一つせず、むしろ柔らかく微笑んだ。そして、穏やかな声で語りかけてくる。

「橘さん……。評価っていうのは、ちょっと違うかな?」

「ん? どういうこと?」

「私たちはさ、“評価できる作品だから”映画にしようって思ったんじゃないの。“是非映画にしたい”って、心から思えた作品だったから、声をかけたの。もちろん、うまくいかないこともあるし、私たちも素人だし……」

 そこまで言って、小野寺さんは一呼吸置いた。

 その言葉のトーンは今までと違い、どこか本音のにじむような、作り物でない“素”の声だった。

「でもね、あの作品は……橘さんの“愛”にあふれているのが、伝わってきたの。だから、一緒に作っていきたいって思った。愛情のある作品だからこそ、関わっていきたいんだ。無機質な作品を作るほど、高校生活は長くないよ」

 その言葉に、私ははっとさせられた。

 他のキャストたちもうんうんと頷いていた。

 ――愛情、か。

 自分の作品をそんな風に見たのは、いつぶりだろう。

 いや、確かに、あの作品には想いを込めた。並々ならぬ、強い想いを。

 子育てを知らないが、ほぼ四六時中考え続け、作品に苦しんで、傷つけられ、慰められ、書き続けた。

 私はただただその瞬間、作品の完成度だとか、面白さだとか、そういうことではなくて――“想い”を読み取ってもらえたことが、たまらなく嬉しかった。

 心の奥に、なんともいえないあたたかさが広がっていく。

「橘さん、“想い”ってね。国境も、この世も、あの世も超えていくのよ」

 小野寺さんのその言葉に、私は自然と、あの人の姿を思い浮かべていた。

 会ったことはないけれど、私が一番深く向き合った、“あの世”にいる彼の姿を――。

 その瞬間、身体の奥のほうで、何かがふつふつと沸き立つのを感じた。

 それは、情熱――と言えるほど前向きなものではない。

 もっと静かで、確かな何か。

 それは義務? いや、もっと柔らかい。

 けれど、どこか“高潔な責任”のようなものが、私の中に静かに灯っていった。


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