二〇二七年八月十三日。
『春ー、台本急げー! キャストみんないい感じ!』
渚からの催促メッセージと共に、渚やキャストのみんなで撮った写真が送られてきた。どうやら飯盒炊飯でカレーを作ったらしい。演技指導合宿という名目で、北杜市の少年自然の家に泊まりに行っているらしい。撮影スタッフとして放送部や生徒会メンバーも帯同し、夏休み明けからの本撮影に向けて着々と準備が進んでいるようだ。
それにしても、その資金はいったいどこから捻出したのだろうか。まさかとは思いたくないけど、私、結構やばい何かに手を染めているのか? いや、たぶん大人の世界でも国や民間企業の癒着なんて、子ども心ながら変な妄想が頭をよぎる。
でも、そんなことより……
うわっ……。
うわっ(二回目)。
そんな夏休み☆を私は過ごしていた。
夏休み中、第二甲府名物「地獄課題」をガン無視して、ひたすら台本作りに没頭していた。
そもそも小説のデータは消してしまっていたから、渚から小説のデータをもらい直す。
久しぶりにそのデータを自分のパソコンに落とすとき、少しだけ躊躇した。でももう締め切りも迫っている。そんな乙女な悩みなんてクソくらえと自分に言い聞かせ、かつての自分の原稿に向き合った。
最初は、思ったより簡単にできるだろうと思っていた。原作を書いたのは私だし、変更もしやすいはずだから。
でも、いざ始めてみると……むっず。何これ。
必要以上の説明口調や心理描写をどこまで言語化すればいいのか。
頭の中では映像が浮かんでいるのに、それをどう台本に落とし込めばいいのか。
特に、今までふわっとしていた仕草の表現が難しい。吹奏楽はなんとなく分かるけど、野球部の細かい動きなんて全然分からない。仕方なく、名門校の密着動画を探して、その動きを描写するという、根気のいる作業に取り組むことになった。
そして気づく。
これ、もう台本じゃなくて脚本作りじゃないか?
それを自分で引き受けてしまっている自分が悪いのか、それとも渚の企みなのか、不信感が胸をよぎる。
やっぱり渚はしたたかだ。かなりの戦略家だと思う。
特に私が弱音を吐くと、「大丈夫。あなたならできるから、あなたに頼んでいるの」と、人懐っこい笑顔で言葉をかけてくれる。
どこかの一世を風靡したアニメスタジオの監督とプロデューサーの関係に似ているけれど、プロデューサー的な存在って、本当に詐欺師のような人間かもしれないと感じてしまう。
それでも、応援してくれる人がいるのはありがたい。
今までの私の創作は、あくまで一人での戦いだった。だからこそ、この作品に取り組むのは精神的にかなりきつかった。
でも今は、渚たちがいる。
だからこそ、私はもう一度、この作品に立ち向かう勇気を持てたと思う。
しかし、気を抜くと――というわけではないが、細かい動きに関しては特に神経質になってしまう。特に輿水大気さんの描写のところはそうだ。もちろん彼がメインキャラクターだからという理由もあるが、死が迫った人物がどのような動きをするのか。彼にとって今私が見ている世界はどう映っているのか。そして何より、大気さんの尊厳を踏みにじるような表現だけは絶対に避けなければならないと強く感じている。
はあ、とため息をつきながら、肩を回す。
せっかく今日は甲府の湯村にあるカフェで作業しているのに、パソコンの前に座っている辛さは変わらない。肩がじわじわと重くなっていく感覚がある。笑い話ではないが、本当に大気さんの霊が、罰当たりな私についているような気すらしてしまう。
「あはは、疲れてそうだね」
突然、背後から男性の声がかかる。
今のご時世、いきなり女子高生に声をかける社会人は犯罪者扱いされても仕方ないだろう。だが、その声の主は約束の相手であり、もう身内のような存在だ。だから驚きも動揺もときめきもなく、振り返る。
白いポロシャツに、相変わらずのスポーツ刈りの二十代男性が立っていた。
「別に、台本作りって大変で……」
「背中がそれを物語っていたよ。相変わらず春ちゃんは面白いことをするね」
「今回は貰い事故です」
男性は笑いながらカウンターのマスターに振り返り、アイスコーヒーを注文する。私のカフェオレとは対照的に、ブラックコーヒーだ。そのやり取りに、いやでも大人と子ども、私との距離感を感じてしまう。
「とりあえず信二さん、今日は突然すみません」
「いやいや」と優しく微笑む。十年前から変わらない、三浦信二さん。原作『17の夏』で亡くなった輿水大気さんの親友であり、うちの姉のクラスメイトでもあった。もともと姉との関係で家に遊びに来ていたこともあり、何となく顔なじみだ。まるで親戚のお兄さんのような存在で、実際に執筆を進める際には親身になって助けてくれた。
「でもさ、びっくりしたよ」
「何がですか? 映画作りですか?」
「いや、それもそうだけど、よくまたこの話に向き合ったなって」
私自身、あの作品を書き終えたときは、ただただ爽快感に満ちていた。
もちろん、執筆の途中で事情を察したときは、気まずさや後ろめたさもあった。でも、いざ書き始めれば、たとえアマチュアであっても、作家は作家だ。苦しみながら完成させた物語に対する喜び、そしてようやく作品から解放されるというあの何ともいえない解放感。自然とテンションも高くなっていた。
……けれど、やはり、というべきか。
その一瞬の高揚感ではどうしても覆い隠せないものがあった。私が書いたのは創作であっても、もとになったのは事実だ。その事実の重みは、作品が完成しても、私の胸に残り続けた。
高校生になった今、あの作品の見え方が以前とはまったく違って見える。物語に登場する人たちと同じ年齢になったことで、そのひとつひとつの出来事が、より生々しく、より深く、心に刺さる。だからこそ、あの作品は、やはり外に出すべきではない――そう感じるようになっていった。
それでも、データを渡した何人かの人たちが「いい話だった」と言ってくれた。
けれど、正直、それをどう受け取っていいのか分からなかった。
もしかして私の描き方のせいで、大気さんの死が、どこかで“ドラマ”として消費されてしまったのではないか。そう考えた瞬間、ぞっとした。まるで、いや、まさに私は、輿水大気さんの命を物語の素材として“使って”しまったのではないかと。
最終的には、数人から「外に出してみたらどうか」と勧められた。特にやまなし文学賞への応募を後押ししてくれた人もいた。特に青少年部門では、かつて姉や信二さんの同級生が受賞したこともあり、「あんなやつより、よっぽど良い作品だよ」と持ち上げてくれた。
――けれど。
どれだけ当事者から許可をもらったとしても、自分の中で作ってしまった“しこり”は、どうしても消えてくれなかった。
特に、亡くなった輿水大気さんからの許可は、永遠に得られない。
死人に口なし――そう言うけれど、だからといって何をしても許されるとは、私にはどうしても思えなかった。
「まあ……正直、嫌でした。……が、」
「……が?」
「はい。押し切られたところもあるんですが、それでも――自分なりに、この作品と、ケリをつけたかった。そんな気がしています」
「ケリ、って……」
私は、もうひとつ、別の意味でも申し訳なさを感じていた。
周りの人に、たくさん協力してもらった。にもかかわらず、私はその恩に、ちゃんと応えられていなかったような気がしてならなかった。
もちろん、作品として形にしたという意味では、ひとつの“恩返し”になったのかもしれない。けれど、それだけでは足りなかった。
いや、私自身が――自分が――満足できなかった。
……とても傲慢なことを言っている自覚はある。けれど、それでも、私は、自分のその傲慢さを、満足させたかった。
ひどい人間だ、と自分でも思う。でも、その思考からは、どうしても抜け出せなかった。
「はい。……特に、輿水大気さんのご両親にも、一応撮影の話はしました」
言いながら、私は少しだけ視線を伏せた。正直、あの時は、怒られる覚悟だった。
「でも、逆に、喜んでくださったんです。息子が亡くなってから、仕方のないことだけど、段々と息子のことは忘れられていってしまう。もちろん、それは関わった人たちが前を向いて生きているという、ポジティブな意味でもある。でもね――止まってしまった息子の時間が、ほんの少しでもいい、疑似的でもいいから動いてくれたら、私たちも嬉しい。そもそも、それに反対したり怒ったりするような息子じゃないって、そう言ってくださいました」
そう語る私の手は、無意識にカフェオレのカップに触れていた。
「……だからこそ、これで。これでようやく、大気さんに少しでも恩返しができる気がするんです」
信二さんは、静かに話を聞いてくれていた。
表情はどこか厳しかったが、それ以上に、優しさが滲んでいた。姉も言っていた。――そういうところが、信二さんの良さなんだと。
「そっか……分かった」
少し頷き、コーヒーに口をつけてから、静かに言った。
「なら、大気のバッテリーの俺としては、手伝わなきゃだね」
「すみません、本当に……ありがとうございます。それで、ちょっと諸々、確認したいことがありまして」
私はバッグからクリアファイルを取り出し、カフェのテーブルに広げる。写真、メモ、資料……順番に並べながら、話を進めた。
「今回は映画にするということで、物語の流れは多少修正しました。ざっくり言うと、冒頭は大気さんが亡くなる――二〇一六年十二月十五日。姉から告白の返事をもらえずに、事故に遭ってしまうシーンから始めます」
「なるほど。千紗と大気の出会いのシーンは削るの?」
「いえ、その後に回します。二〇一七年五月の、姉と信二さん、そして瑠璃さんとの三年一組のクラスシーンに飛んで……そのあとで、回想として出会いを描きます」
「うん、朝練の思い出とか、入れるわけだ?」
「そうです。姉がコンクール前に早朝自主練に来ていたとき、よく大気さんと顔を合わせていた。そんな記憶が、ふと蘇るような場面にします。主軸は、三年生になった姉が、最後の夏のコンクールに向けて部活動や学校生活を送る中で、大気さんの存在を徐々に思い出していく……そんな流れです」
信二さんが、ひとつ頷きながら口を開いた。
「あー、で、その中で――大気の記憶を持った転校生、工藤光が現れて……野球部の夏の試合を通して、光と千紗が少しずつ距離を縮めていくってわけだ」
「はい。そのつもりです。描き切れなかった過去の部分は、光さん――つまり大気さんの日記を姉が初めて読んで、そこで事実を知る、という形で補完します。とはいえ、そこでもかなり時間を取られるので……」
私は一呼吸おいて、正直に続けた。
「なので今回は、信二さんと姉のシーンは、尺の都合で……少し削らせていただきました」
すまなそうに頭を下げる私に、信二さんは笑って、首を振った。
「別にいいよ、それは(笑)。で……あれ?」
信二さんがカップを置き、少し首をかしげた。
「二人が完璧にくっつく、甲子園シーンで終わる予定なの?」
「はい……」
私は小さく頷いた。
「その後の光さん――大気さんが記憶をなくして、姉とまた別れるところまでは、描かないつもりです」
「そうか……それって、ハッピーエンドにしたいから?」
「それもあります。でも……正直、そこまでの重い展開を描ける自信がなくて……」
「なるほどな……まあ、それでいいかもね。高校生の作品だし、明るい終わり方の方が観る人にも届きやすいと思うよ。でもさ、改めて、自分たちの話が映画になるって思うと……正直、めちゃくちゃ恥ずかしいね」
「もう、進んじゃってるんです。許してくださいとしか……」
「千紗は許可出したの?」
「嫌がってました。でも姉って、押せば何とかなるんで」
「うわ、こわい妹だなあ」
「こわくて結構です」
「はいはい、すねないの(笑)。で、そうそう。本題に戻るけど――そもそも、確認したいことって?」
「あ、はい。そうでした。野球部のシーンとか、細かい部分については、今後ちょくちょく確認させてください。すでにキャストも決まっていて、その中に野球部役の子も二人いるんですが……やっぱり、当時を知る信二さんに直接話していただくのが一番だと思って」
「まじか。キャスト、ちょっと気になるな」
「ええ、いい感じの子たちですよ」
「はは、それは楽しみだな。で、他には?」
「一応メインじゃないんですが、姉が他のクラスメイトと話す場面もあります。そのへんも、当時の雰囲気とか、イメージが欲しいです。なるべくリアルにしたいので」
「ああ……松田とか須賀とかのことだな。松田は名門大学に進んだけど……今どうしてんだろ。須賀は県庁辞めて、自暴自棄になってたって聞いたな(笑)。ほんと、みんな変わったよな」
「ええ……本当に」
そして、私は一度深呼吸をして、バッグの中から一冊のキャンパスノートを取り出した。
「……もう一つ、確認したいことがあって」
そのノートを机の上にそっと置くと、信二さんの目の色が変わった。
「おおっ……ずいぶん懐かしいノートじゃん」
彼はノートを手に取り、嬉しそうにページをめくっていった。
それは、転校生・工藤光の日記だった。
工藤光――その中身が、実は輿水大気さんであったという、あの物語の根幹をなす存在。つまりこの日記は、光として過ごした大気さんの、唯一無二の記録だった。
二〇一六年の事故以降、姉と再会するまで――大気さんが何を思い、何に悩み、どう決断していったのか。すべてが、この一冊に綴られている。
信二さんによると、大気さんは自分の正体を明かす際、このノートを信二さんに手渡し、そして信二さんから姉へと託されたという。二人が日記を読み、大気さんの「中身」が確かにあの輿水大気だと信じるに至ったのは、この一冊の力だった。
「このノートなのですが……ちょっと、台本を作っていて気になったことがありまして」
私は信二さんが持つノートにそっと触れながら言った。
この日記には、光さん――いや、輿水大気さんの日々の出来事、悩み、葛藤が、驚くほど細かく記されている。まるで、その時々の空気まで封じ込めたような、情報の精度と密度。だからこそ、当時の関係者への取材や、事実確認もとてもスムーズに進んだ。
でも――だからこそ、気になってしまうのだ。
「ここなんです。そう、ここの、このページ……」
私は指先である一箇所を示す。
「ここに、大気さん自身の言葉で“どう生き返ったのか”が書いてありますよね? “神様とある約束をして、それを守るつもりだ”と。……でも、ここが変なんです」
ページの文字をなぞりながら、私は言葉を続けた。
「生き返った方法が、あまりにもふわっとし過ぎている。“目が覚めたらもう生き返っていた”って……神様とのやりとりが、何も書かれていないんです」
他のページでは、日々の小さなできごとすら克明に綴られている。大気さんの視点で見たクラスの空気、姉の言葉一つひとつ。すべてが生々しいまでに描かれているのに――この『一番核心の部分』だけが、まるで霧に包まれている。
「変ですよね。すごく気持ち悪いんです」
私はノートをめくり直しながら、もう一つの“違和感”に触れた。
「でも、よく見てみると……ここ。このページです。生き返りについて書かれている箇所なんですが、何か、ノートのページが切られた跡があるんです。すごく綺麗に切り取られていて。これ、もともとこの『コクヨのキャンパスノート』って、ページ数が百枚のはずなんです。でも、数えると――九十九枚しかない」
私は、早口になっていた。興奮と緊張が混じって、呼吸が浅くなる。
「だから……ここ。ここに、もともと“もう一ページ”あったのではないでしょうか?」
そうまくしたててから、ふと気づいた。
信二さんは、ずっと何も言わなかった。相槌も、表情の変化もない。
……やってしまった。
オタク特有の、あの一方的な熱弁――相手の反応を見失って、話に没頭しすぎる、あの悪い癖。
私は恐る恐るノートから視線を上げ、信二さんの顔をそっとうかがった。
(え?)
一瞬、頭の中が空白になる。
「春ちゃん、しゃべり過ぎ(笑)」
――そう言ってくれると思っていた。拍子抜けするくらい軽く笑って、茶化してくれると思っていた。
だけど、現実は違った。
「……」
沈黙。
信二さんは、動かない。
そして私は、その表情を見て、ぞっとした。
……こんな顔を、私は今まで見たことがなかった。
怖い、と思った。
目の奥が冷たくて、暗い。声も音もない空間に、突然一人で放り込まれたような感覚。
その場の空気が一瞬で凍りつく。私の鼓動だけが、無遠慮に速く、浅く、耳の中で鳴っている。
だけど信二さんは、まるで何も感じていないように、ただ石のように、動かずにノートを見つめ続けていた。
「あの……」
何か言わなきゃ、と思った。けど、声が届かない。
「……」
静寂。返事はない。
「あ、」
「……」
「えっと……」
「……知らない」
心臓が跳ねた。
低くて、乾いたその言葉が、頭の奥で何度も反響する。
「いや……あの、その……」
なんとか続けようとした。でも、
「知らない、俺は」
その言葉は、拒絶だった。鋭くて、冷たくて、近づこうとした私の手を、ぴしゃりと振り払うような。
でも、それでも――私は知りたかった。
ここで引いたら意味がない。あんなに考えて、悩んで、この作品にまた向き合ったんだ。なのに。
私は、もう一度だけ深呼吸した。そして、覚悟を決めて顔を上げた。
「でも、私、しりた――」
「ごめん!」
強い声だった。
あまりにも強くて、あまりにも真っ直ぐで、私の言葉を途中で遮るほどだった。
……ごめん。
その言葉に、何が込められていたのか。謝罪? 警告? それとも――懇願?
わからなかった。ただ一つ、はっきりと分かったのは、「これ以上、触れるな」ということ。
そのあと、信二さんはうっすらと笑った。
でも、その笑みはあまりにも不自然で、あまりにも優しすぎて――逆に痛かった。
まるで、自分の中に渦巻く感情を、無理やり押し込めるための仮面のように。
「“ここ”は、知らない」
その一言が、境界線だった。
子どもの私には、もう越えられない。その一線の向こうに、何があるのかは分からないけど、今の私には届かない。
子どもだから、踏み越えられない。
咄嗟に、私はそう、言い訳をした。自分で自分を納得させるための、安っぽい逃げ道。
でも、そんなもの、自分には通じないことも、わかっていた。
わかっていたけど、それでも――それ以上、私は何もできなかった。