夕日が傾き、実際の事故が起きた時刻が近づく。
学校近くの新荒川橋には、渚、キャストに加え、撮影隊の生徒会と放送部が揃っていた。
夏であったが、どうしてだろう。少し風が、秋の匂いを含んでいる気がした。時折吹くその風に、カメラの三脚が小さく揺れた。
「まずは一応……」
渚がキャストたちを前に、静かに言った。
私たちは自然と橋の方へ向き直り、黙って手を合わせる。
この場所で、たしかに命が失われた。キャストと共に、大気さんのお墓参りはすでに済ませていたが、やはり現場で手を合わせると、胸に迫るものがある。
短い黙祷が終わると、渚が顔を上げ、全体を見渡した。
「よし、じゃあやろうか。一応今回は本撮影の練習だけど、基本的に本番通りでやりたい。放送部、カメラと音声チェックお願い。生徒会のほうは交通の確認、忘れずに」
それぞれが無言で頷く。カメラの三脚が軋み、マイクを掲げた放送部員がケーブルの絡まりを自然と直す。
渚は手元の台本を確認し、改めて皆に向き直る。
「まず、今回のシーンを復習します。二〇一六年十二月十五日。午後四時半。主人公の輿水大気さんは、ヒロインの橘千紗さんとデートするために、この新荒川橋を自転車で通過します。しかし橋の上で、暴走した乗用車に撥ねられてしまいます」
渚の声はよく通る。抑揚もあり、説明であるはずなのに、どこか物語を聞いているような感覚になる。
「その日、元々野球部は部活動がありました。でも、グラウンドの整備で業者が入って……それが予定より長引いて、急遽部活が休みになったそうです。だからこそ、大気さんは“空いた時間”で、千紗さんをデートに誘いました」
春の中に、そのシーンが浮かぶ。姉とのライン──その文面には、あどけなさと真剣さが同居していた。
「千紗さんが行きたがっていた、湯村のカフェ。前、夏休み中に春が行って、写真を撮って来てくれたところです。その店に、誘ったそうです。授業中にだったから、ラインで誘ったって……そう聞いています」
私は小さくうなずいた。あのラインは、何度も見返した。
「うん。そうだよ。それで、姉がその返事で、告白の返事をすると送ったと聞いている。大気さんの当時のクラスメイト、田中雪さんの証言によると、大気さんはずっとニヤニヤしていたが、その内容は明かしてくれなかったって聞いています」
何人かが小さく笑った。でも、それは嘲笑ではない。どこか、あたたかな共感のようなものだった。
渚は続ける。
「午後四時二十六分頃。輿水大気さんは自転車で学校を出発します。元々一緒に向かう予定でしたが、掃除が長引き、急遽現地集合に変更したそうです。そして二十七分、新荒川橋に到着。ここで、彼は立ち止まります」
橋の欄干が夕日に照らされて、オレンジ色に染まっていた。たしかに、こんな景色だったのかもしれない。
「当時、大気さんは“夕焼けが綺麗で、思わず写真を撮った”と、語っています。工藤光さんの日記。つまり大気さんの日記の中で、そう証言されていました。……冬の夕焼けって、ほんとに幻想的だもんね。しかも、普段は部活でこんな時間に帰ることはなかった。その特別さが、余計に大気さんの心を動かしたんでしょうね」
「その写真……実際にあったら、見てみたかったな」
長谷川君がぽつりと呟いた。静かな同意の気配が、辺りに漂った。
「大気さんはその写真を、千紗さんに見せたらきっと喜ぶと思ったそうです。──でも、その直後でした」
渚の声が、少し硬くなる。
「午後四時二十八分三十秒頃。遠くから、サイレンの音が聞こえてきた。パトカーに追われていた黒い車が、こちらへ向かってきた。輿水大気さんは振り返り、その“殺気”を感じたと語っています」
夕焼けの静寂の中、サイレンだけが切り裂くように響いてくる──そんな情景が頭に浮かんだ。
「最初は、その車は大気さんの前方に突っ込んでいく様子だったとのこと。でも、その前方にいた中学生が身動きできずにいた。……輿水大気さんは、その子を庇うようにして動き、結果的に、車と共に新荒川橋から落下します」
風がふっと吹いた。空が、ゆっくりと茜色から群青に染まり始める。
そのとき──まるで時間が止まったように、全員が無言になった。
「午後四時三十分十秒頃。それが、事故の“記録上の時刻”です」
渚の声が、低く落ち着いていた。誰も口を挟まない。ただ、夕日の色と風の音だけが、その空間を満たしていた。
長谷川君が、そっと拳を胸の前で握った。
隣の美術部の宮崎君も、カメラ越しにじっと橋を見つめていた。誰も、冗談を言わなかった。
「今回は、車と当たるところまではしません」
その空気を切り替えるように、渚が声を張る。
「そこの撮影の仕方は、今後検討しますので。まずは、デートに向かっていく輿水大気さんのシーンと、パトカーのサイレンが聞こえて、表情が変化するシーン。この二つを中心に行います。何か質問は?」
渚の視線が一巡したあと、撮影隊の一人が手を挙げる。
「実際のカメラの配置は……?」
「それは配った絵コンテの欄外に書いてありますので、そちらを参考にお願いします」
渚は手元のプリントを指差しながら答える。
その「絵コンテ」は、私が作った脚本を元に、渚、そして美術部の二年生・鈴木さんと三人で練り上げたものだった。
ほとんど私たちが「こうじゃない?」「いや違うでしょ!」とわちゃわちゃ言って、鈴木さんがうまく整理してくれた形だったけれど。
それでも、彼女が仕上げたコンテは驚くほどイメージ通りだった。
「すげえ……」と、初めて見たとき、誰もがつぶやいた。
でも、当時の本当の現場がどうだったかなんて、私たちは想像でしか描けない。それでも、実際にこの場に来ると、やはり見えてこなかったもの。イメージできなかったものがふつふつと浮かび、気になってしまう。
「おっけい。じゃあとりあえず、まあやってみようか。それで、細かいことはあとから修正していこう!」
渚がパンと手を叩くと、その音を合図に場の空気が変わった。
長谷川君が、私たちの元にやってくる。
「よし、じゃあ自転車借りるね」
「うん、気をつけて。ちょっと段差あるから」
そう私が声をかけると、生徒会の子が彼に自転車を渡す。
「それにしても、この時間の光、ほんと綺麗だよね」
「ね。だから大気さんも、立ち止まっちゃったのかも」
ふと漏れた私の言葉に、長谷川君がうなずいた。
「じゃあ配置につこう」
渚の声で、キャストと撮影隊、それに編集担当の生徒たちがそれぞれ持ち場に散っていく。
機材の確認。カメラの調整。録音スタッフが風切り音をチェックしている。
橋の上に通行人はほとんどいないが、車はひっきりなしに行き交っていた。窓越しに、何やってるんだ? というような視線がいくつか飛んでくる。
けれど、それすらもどこか現実感が薄い。私たちの間には、妙な緊張感が漂っていた。
ただの放課後とは、明らかに違う空気。
「カメラ準備いい? マイクもよし。じゃあ……」
渚が軽く息を吸って──
「はい、アクション!」
その声と同時に、空気が一変した。
橋の手前に位置した撮影隊に向かって、自転車を漕ぐ長谷川君がゆっくりと近づいてくる。
そのペダルさばきは……正直、予想の遥か下を行っていた。
ぎこちないなんてもんじゃない。まるで「はじめての自転車教室・野球部員編」。ペダルを漕ぐたびに自転車が小さく「ひっ」と悲鳴をあげている気がする。
ふらふら、ぐらぐら、まっすぐ走ってくるのが奇跡みたいな状態で、現場の全員が無言でその様子を凝視していた。
ただ、表情は明るい。そこだけ見ると、デートに向かう男子高校生らしい。らしいんだけど──
……ニヤニヤしてる。いや、正確には「デロデロにニヤニヤ」してる。
目元はだらしなく細まり、口元はまるでソフトクリームが落ちる寸前の形。キラキラというよりテラテラしてる。青春というより、欲望。清々しさのかけらもない。
あれは「好きな子とデートでテンションMAX」じゃなくて、「欲望と煩悩に染め上げられた、見てはいけない何か」だ。なんかこう、見てるこっちが胃もたれしそうだ。
私の背中に、小さく寒気が走った。……うわ。なんか気持ち悪い。
「はい、カット!」
渚の声が響いた瞬間、見学に来ていたキャストの二人、久保田君と涼香が爆笑した。
「ぷはっ、ちょ、待って……!」
久保田君は親友の妙な演技がツボにはまったらしく、膝に手をついて笑い転げている。
「やっべー、久々にこんな腹痛ぇ……!」
「お、おい何だよ」
自転車を止めた長谷川君が眉をしかめながら抗議するが、苦笑しながらすぐにその場に立ち尽くす。
「ごめんって。でも、本当に気持ち悪いって」
涼香が手を振って謝りながらも、口元はまだ笑っている。
「気持ち悪いはひどくね? こっちも必死だったんだけど」
長谷川君はふてくされながら、少し乱れた学ランを手で直す。
「いやいや、その“必死”が別の意味になってるんだって」
久保田君が笑いながら言う。
「何かこう、初めて自転車に乗った小学生みたいな。いや、生まれたての鹿か? ガクブルしてるのに顔はニヤニヤしてんの、くそわらえる」
「なんだと? お前、やってみろよ!」
ちょっと火がついたように睨む長谷川君だったが、渚がすかさずその間に割って入った。まるで喧嘩を止める母親のような仕草で。
「はいはい、落ち着いて。進、涼香。翔太いじるのはそこまでにしといて。……でも、進の言うこともちょっとわかるかも」
渚は腕を組んで長谷川君に向き直る。
「翔太、どう思ってあの演技したの? 表情とか、気持ちの持ち方とか」
「あー、合宿のときに話したじゃん。普通に、大気さんってデート前で、しかも告白の返事がもらえるって場面でしょ? それはさ、テンション上がるし、ニヤつくのが自然だろ? 俺、素で想像してみたもん」
「翔太の場合、性欲に溢れた獣のように見えるんだよね」
すかさず涼香が指摘し、また周囲に笑いが起こる。
「なにをぉっ!」
長谷川君が声を荒げるが、渚が肩を押さえて押しとどめる。
「だから待ってって。いや、確かに気持ちはわかるけど、ちょっとやりすぎたのかもね。春、どう思った?」
突然話を振られて、私は一瞬戸惑った。けれど、視線を自転車のハンドルを握ったままの長谷川君に向け、言葉を探す。
「うーん……」
少し考えてから、私は答える。
「確かに、デートを楽しみにしていたのは間違いないと思う。告白の返事も、心から待ってたんだよね。だけど……輿水大気さんって、もっと素朴というか。なんというか……。ピュアな人だったと思うの。だからもう少し、嬉しい気持ちを“噛みしめてる”感じがほしいかな」
長谷川君の顔が、すぅっと曇る。
「ピュア?」
長谷川君が目をぱちくりさせる。いきなりの単語に戸惑っているのがわかる。
「う、うん。なんというか……そう、素直というか。無垢な喜び、みたいな」
私は言いながら、自分の言葉がふわっとしすぎてることに気づく。もう少し噛み砕いたほうがいいかも。
「あ、例えばさ、長谷川君にも“楽しみ”なことってあるでしょ?」
「楽しみ?」
「そう。例えば……モンハンの新作の発売日とか。思い出してよ。予約してたゲームがようやく届く日、朝からソワソワしてて、学校終わったら即帰って起動したくて仕方ない……みたいな」
「おいおい、モンハンと恋愛は違うだろ」
長谷川君が苦笑しながら突っ込む。
「狩りの前のワクワクってか。なんだよそれ、まるでこれから“クエスト”でも始まるみたいだな」
「くっそ、それ最高。『翔太、恋の緊急クエスト発生!』ってやつ!」
久保田君が腹を抱えて笑い出す。
だけど私は諦めずに続ける。
「違う違う、そうじゃなくて……うまく言えないけど、ほら、モンハン買うときって“これから始まるのが楽しみ”なんだけど、同時に“今ワクワクしてるこの瞬間も幸せ”って思うじゃん?」
長谷川君が少し首を傾げた。
「つまりさ、未来への期待もあるけど、それ以上に“今ここにある喜び”を噛みしめてる状態。大気さんも、たぶんそんな感じだったんじゃないかなって。好きな人とこれから会えて、デートできて、夕焼けは綺麗で……『うわ、俺、今めっちゃ幸せじゃん』って」
静かに流れていた風が、その言葉をふわりと運んでいく。
「なるほどなぁ……」
長谷川君が小さくうなずくものの、完全には腑に落ちていないようだった。すると渚が、どこか含み笑いを浮かべながら口を開く。
「じゃあ翔太、ミロちゃんでいこう」
「は? ミロ?」
「そう。翔太の家のペット、あのかわいいウサギのミロちゃん」
「あ、ああ……」
涼香が両手を丸めてぴょんぴょんさせる仕草を見せる。思わず久保田君が吹き出した。
「ミロちゃんと遊んでるとき、ほっこりするでしょ? なんか、あったかい気持ちになるじゃん」
「……まぁ、確かに。ミロが撫でてほしいときにこっちの膝にのってきたりすると、すげえ幸せ感じるな」
「その時の顔。翔太の、あのめちゃくちゃ穏やかな顔でやって」
「いや、それ演技じゃなくて素だろ?」
「うん、それがいいの。素朴で、珍しく飾ってない、そんな瞬間。今のシーン、あの表情でいこう」
「ディスられてんのか褒められてんのか、マジでわかんねえ……」
「いいからいいから。まずは表情からイメージして」
長谷川君はなんとなく納得したようなしないような顔で、自転車を押して、再びスタート地点へ戻っていく。ハンドルに手を添えながら、一度深呼吸。そしてペダルに足をかける。
渚が私の耳元でそっとささやいた。
「見ててね。今度は、いいと思うから」
そして、大きな声が飛ぶ。
「はい、二回目。アクション!」
長谷川君が自転車でやってくる。ゆっくりと、でも今度はどこか落ち着いた雰囲気をまとっていた。ぎこちなさは残っているが、先ほどのような“狩猟本能”は影を潜めている。
口元には、ごくごく小さな笑み。表情全体は静かだけど、心の奥にある嬉しさがにじみ出ている。まるで大気さんらしい、静かだけれど確かな喜び。
「はい、カット!」
渚が叫ぶと、スタッフがタブレットに集まり、その場で映像を確認する。私も覗き込む。カメラ越しの長谷川君の演技には、さっきにはなかった“優しさ”が宿っていた。
「春、どう思う?」
渚の問いかけに、私はもう一度タブレットを見ながら、うんうんと小さく頷いた。
「うん、先ほどよりもかなり自然。なんか、こう……見てて気持ちがふわっとなる感じ。使えると思う」
「おけ!」
渚は勢いよく親指と人差し指で大きな丸を作って、にっこり笑う。それを見た長谷川君も、照れ隠しのような笑顔を浮かべた。
「でもさ、渚。よくあんな的確な指示出せたね」
こっそり囁くように渚に聞いてきた。
「ミロちゃんのこと?」
「うん、まさかペットであんなに空気が変わるとは」
「まあ……翔太は、正直ミロちゃんのこと溺愛してるから。ラインのアイコンもミロちゃんだし。しかも、毎朝“おはよう”って話しかけてるって噂だよ?」
「うわ、まじか……」
「てか、今までの彼女よりも丁寧に扱ってる気がする」
二人でひそひそと笑っていたら、長谷川君が遠くから大声で叫んできた。
「おい、なんか今俺のこと悪く言ったろー!」
「言ってないよー! ねー、春!」
渚がとぼけながら私に振る。私は手を左右に振って誤魔化した。
「はいはい、じゃあ次行きまーす!」
渚が手を大きく振り上げて、全体に向けて声を張った。
その後も、光の角度や構図を変えながら、何パターンかの撮影を行った。演者もスタッフも、少しずつ“現場の空気”に馴染んできて、初めてとは思えないほどスムーズに進んでいった。
ふと気づけば、空はすっかり藍色に変わっていた。
近くの川辺からは虫の音が聞こえ、遠くでは車のヘッドライトがぽつぽつと揺れている。
時計を見れば、とっくに夜。
「……うわ、もうこんな時間か」
渚がスケジュール表を見ながら、満足そうに小さく息をついた。
「でも、最初のシーンとしては、最高のスタートだったね」
私も心から頷く。何より、みんなが笑っていた。それだけで、物語はもう少しずつ動き出している。