目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第56話:遠い昔の恋人

 「…どうか今だけ…お許し下さい…」

 涙の粒がいくつも落ちて、リオの黒髪を濡らす。

 どこかで聞いた乙女の声が、脳裏に蘇った。


 ―――「たとえどのような姿、どのような関係に生まれても、私はあなたの魂を愛しています」―――


「……エリエーヌ……」

 知らず漏れた呟きに、青年の肩がピクリと動く。

 エレアヌの腕の力が少し緩み、大人しく抱き締められていたリオは顔を上げた。


「エレアヌは、彼女の転生者なんだよね?」

 真っ直ぐに見つめる瞳に、嫌悪の翳は無い。

「いいよ。しばらくこうしていても」

 人なつっこい笑みを浮かべ、リオは穏やかな口調で言う。

 ただそっと抱擁されたまま、しばし沈黙の時が流れた。


「何だか不思議だな。エレアヌと僕が恋人だった頃もあるなんて」

 随分長く感じられる数分が過ぎた後、童顔の少年は女顔の青年に笑みかける。

「……遠い昔、この世界が誕生するより以前の事ですよ……」

 気持ちが静まったのか青年も笑みを返し、抱き締めていた腕をそっと離した。


「魂が輪廻し始めてから、途方もない時代が過ぎています。前世は、もはや一つではありません」

 生命の木に歩み寄り、足首まである金髪を揺らして立ち止まった青年は、細い指先を枝へと近付け、豊かな緑の葉の一つに触れる。


 千年近くの時を経た大樹。


 「魂」は、それよりも遥かな時を越え存在し続けている事を、エレアヌは勿論、リオも今では理解出来る。


「けれど人は、よほどの事が無ければその記憶を残してはいないでしょう」

 木洩れ日が煌めく梢に若葉色の瞳を向け、穏やかな物腰の青年は、口元に僅かな笑みを浮かべる。

「【リュシオン】と【エリエーヌ】の記憶は、私も殆ど覚えてはいません。ただ、貴方の魂に惹かれる心だけは、強く残っているのです」

 あと数センチ伸びたら地面に届きそうな金髪を、風が柔らかく持ち上げ、なびかせた。


「じゃあ、さっきの涙はエリエーヌの心が流したもの?」

 大木の根元に座り込み、リオは優美な青年を見上げる。

 異世界へ来て間もなく二ヶ月、切る機会が無くて伸ばしっぱなしになっている黒髪を、風は撫でる様に揺らしていった。


「そうです。すみません、女々しくて」

「涙を流すのは、悪い事じゃないよ」

 伏し目がちに言うエレアヌに対し、リオは真っ直ぐな視線を向けて応えた。

 目を丸くする青年に、素直な心をもつ少年は、柔らかく笑いかける。


 ―――…泣きたければ泣けばいい…―――


 ふいに、エレアヌの脳裏に、ずっと以前に聞いた言葉が蘇った。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?