――――ラーナ神殿に来る前、エレアヌは森の中で一人暮らしていた。
祖父が集めた膨大な量の書物、澄んだ泉と様々な実のなる木々。
それらに囲まれた質素で平和な生活を、彼は今でも懐かしく思う。
けれど今はもう、その森は存在しない。
十三年前の魔物大発生により、緑豊かな森は枯れ果て、石と木で造られた家は崩され、書物の大半は破られ紙屑と化した。
共に森で暮らしていた動物たちは散り散りに逃げ、或いは殺され、彼自身も危うく命を落としかけた。
大型の熊に似た魔物が目の前に迫ってきたとき、当時十三歳であったエレアヌは、死を覚悟してその場に座り込み、鋭い爪が振り下ろされる瞬間を待った。
(……もう、逃げても仕方がない……ここで死ぬのが私の運命か……)
けれど、魔物の爪は彼を引き裂くことはなかった。
「逃げろ!」
凛とした声に目を開けると、魔物はその場から消え去っていた。
代わりに立っていたのは、傷ついた子兎を抱いた一人の少年。
風に揺らぐ青みがかった銀の髪、その身を包む青銀の光。
やや切れ長の瑠璃色の瞳から、ふいに鋭さが和らぎ、腕の中でおとなしくしている子兎へと向けられた。
すると、子兎の全身にあった浅い切り傷が、急速にふさがり消えてゆく。
(……癒しの力……!)
息を飲むエレアヌの目前で、子兎はあっという間に傷が癒え、そっと地面に降ろされた途端、元気良く走り出した。
「見ろ、あんな幼いものでも生きる為に走る」
それを見送ると、少年はその瑠璃色の瞳をエレアヌへと向ける。
「お前も、その二本の足が動くなら、そんな所に座り込まず、安全な場所まで走れ」
よく通る声で言いながら、少年はエレアヌの片手を掴んで立ち上がらせた。
「こっちだ」
呆然としたままの相手を導き、駆け出した少年は、その行く手に現れた魔物に空いている方の手を向ける。
その掌が銀色の閃光を放ち、光は球と化して魔物へと飛んだ。
光球は魔物を包み、一瞬の内に塵に変えて消滅させる。
「……貴方は……一体……」
「俺はリュシア、ラーナ神殿の長だ」
やっとのことで言葉を紡ぎ出したエレアヌに、青銀の髪と瑠璃色の瞳をもつ少年はそう名乗った。
「……神殿の方が……何故こんな辺境に……?」
枯れ始めた木々を見回し、エレアヌは問う。
ここと神殿とはかなりの距離があり、人の足では二週間以上かかる。
「風の妖精に聞いたんだ。緑の賢者が住む森が魔物に襲われていると」
「……風の妖精……?」
真っ直ぐなまなざしを向ける少年に、賢者と呼ばれる少年が問おうとした時…
「リュシア!」
透き通った羽根をもつ小妖精達が、空から次々に降りて来た。
「魔物がどんどん集まってきてるわ」
「いちいち倒してたらきりがないよ」
妖精達は二人を囲んで口々にそう告げた。
「そうか。じゃあ、脱出を手伝ってくれ」
「分った」
リュシアが言い、妖精達が答えると、見えないヴェールに包まれる様な感覚と同時に、二人の身体が空中に浮かび上がる。
「貴方は、妖精の友なのですか?」
上昇しながら、エレアヌは問うた。
「ああ」
答えた少年の双眸は、昔語りに伝えられる聖なる青。
空よりも、海よりも深い、神秘の瑠璃色。
「どうした? 顔が赤いぞ」
言われて、自分の頬が紅潮している事に気付いたエレアヌは、慌てて視線を逸らす。
「……何でもありません……」
言いながら足元に目を向け、彼は思わず息を飲んだ。
「……森が……枯れる……」
次第に茶色く変色してゆく森を見下ろし、賢者の呼び名をもつ少年は細い眉を寄せた。
十三年間、ずっと暮らしてきた緑豊かな森。
彼にとっては、森全体が我が家であった。
それが今、続々と押し寄せる魔物達の手で死の森へと変えられてゆく。
エレアヌの澄んだ淡緑色の双眸が、僅かに潤んで揺れた。
(……泣いたところで……何にもならない……)
懸命に涙を堪えるエレアヌを、ふいにリュシアが抱き寄せた。
二人の身長差は、あまりない。
エレアヌの方がやや背が低く、肩幅も狭い程度。
けれど、不思議な力をもつ少年の腕の中は、何故か安心感があった。
少々荒っぽく抱き締められたエレアヌの耳に、さほど年の差はないと思われる少年の体温が伝わり、心臓の音が流れ込んできた。
何故か、胸の奥が熱くなる。
悲しみとは別の感情が、心の底で揺れた。
それが何であるかを知ったのは、ずっと後の事。
「泣きたかったら泣けよ」
ぽつりとリュシアが囁く。
「涙を流すのは、悪い事じゃない」
「……はい……」
答えると同時に淡緑色の瞳から一粒、透明な滴が零れ落ちた。
枯れてゆく故郷の森を霞む視界に収めつつ、少女のように見える少年は涙する。
肩にかかる黄金の髪を、風が優しく撫でて揺らした―――――。