「
片手では掴めぬほど分厚い本を胸の前に抱え、賢者は低く深みのある声で言う。
「オルジェ、ミーナ、あなた達はメランテの里の生まれでしたね。あそこに伝わる古い歌を覚えていますか?」
「はい」
答えるオルジェは、里を出たのは十二の時。
歌詞から旋律までしっかりと記憶していた。
「私も分ります。リュシア様が時々口ずさんでらした歌でしょう?」
四歳で難を逃れたミーナも、同郷の出である聖者の歌声を聞き、充分歌えるまでになっている。
「そうです。オルジェ、貴方は確か竪琴を弾くのが得意でしたね?」
ミーナに頷くと、エレアヌはオルジェの方を向いた。
「あの奥に古い竪琴があった筈です。探して手入れしておいて下さい」
それから、細く白い指で、書棚の向こうを指し示す。
「竪琴をどうなさるのですか?」
部屋の奥へ歩いてゆくオルジェに代わり、ミーナが問うた。
「闇人形に聞かせるのです」
返ってきた答えに、オルジェは驚いて足を止め、エレアヌの方へ顔を向けた。
「あの魔物はかつてエメンの民であった者達、ラナーリアを想う歌は、彼等に人の心を取り戻させる鍵になる筈です」
自信に満ちた笑みを浮かべ、賢者は言う。
「何故なら、ラナーリアとはエメンの都があった大陸の名ですから」
『……カエリタイ……』
『清イ水ト、ソヨグ風ニ恵マレテイタ、アノ頃ニ……』
嗚咽にも似た呟きが、怨霊達の間から次々に漏れる。
黒い霧が、次第に薄れ始めた。
「還れますよ」
エレアヌが、目元に笑みを浮かべて言う。
「あなた達が憎しみを捨て、安らかな心を取り戻した時、その魂は輪廻の輪に戻り、未来へ流れてゆくのです。そしていつか、新たな生命として生まれてくるでしょう」
小柄な少年の両肩にそっと手を置き、賢者である青年は優しく微笑んだ。
「その時を……未来を、自然に恵まれた時代に出来るのは、この方しかいません。何故なら、この方は今の時代で唯一人の、妖精の友なのですから」
リオを包む虹色の光が、その役目を終えたかのように消えてゆく。
入れ替わるように、微かな青銀の光がリオの身体から湧き出て、黒い髪が深青色を経て青銀に変わった。
もはや怨霊ではなくなったエメンの民の残留思念を見つめる瞳が、鮮やかな瑠璃色に変わる。
「僕は大地の妖精を助けたい。先へ進ませてもらえるか?」
よく通る声、その口調はどこか【リュシア】に似ていた。
人々の心からの祈りに護られる彼はこの時、白き民の長・リュシア=ユール=レンティスであり、日本から来た転生者・古谷リオでもあった。
強い意思と優しい心をもつ彼の、その双眸は妖精を愛し愛された証の聖なる青。
『……信じよう……。我等に人の心を取り戻させたお前達を……』
はっきりとした声を残し、エメンの怨霊は消えた。
「これは……」
入れ替わりに現れた物を見て、エレアヌが息を飲む。
「……地下への扉……。やはり、黒き民の城はこの下に在ったのですね」
先刻まで地面にしか見えなかった部分が、青く円状に発光している。
エジプトの遺跡に刻まれたヒエログリフを思わせる文字が、それを囲む様に並んでいた。