「行こう」
若干躊躇する一同の中で、最初に進み出たのはリオ。
魔法陣のようにもみえるそこに、彼が足を踏み入れようとした時、一人の女性の幻影が現れた。
「まだ何か潜んでやがったのかよっ!」
シアルが駆け出し、素早く剣を出現させる。
「待て!」
今にも切りつけそうな勢いのシアルをリオが制した。
「この女性に敵意は無い」
構えを解こうとしないシアルをなだめた後、リオは発光する円の中央に立つ、実体のない人を見つめる。
『……貴方は……あの子ではないの……?』
長く、クセの無い赤毛を揺らめかせ、女性が問うた。
『……貴方を見てると……とても懐かしい……』
潤む瞳は、鮮やかなスミレ色。
細いが形が良いとはいえぬ手が、リオの頬へと近付いてくる。
『答えて。貴方はディリオンでしょう?』
切なさに満ちた問いに対し、リオは首を横に振った。
『……違うの?』
女性の瞳が揺れる。
伸ばされた手が、遠慮するように退いた。
『じゃあ、貴方は誰? こんなに懐かしいのに、他人である筈ないわ』
スミレ色の瞳から、涙が溢れて頬を伝う。
けれど、幻影の涙は地面を濡らす事はなかった。
『それとも、これは私の思い違いなの? 会いたいって思うから、少し似ている貴方がディリオンに思えてしまうの?』
淋し気な笑み。
涙が更に数滴、頬を伝った。
彼女は両手で顔を覆い、しばし沈黙する。
「……僕が誰か分らない?」
代わりに口を開いたのは、ずっと沈黙していたリオであった。
彼は息を深く吸い込むと、一つの歌を紡ぎ出す。
十五歳の少年にしては澄んだ声が、静かに響き始めた。
―――夜になったら 明りを消して
眠りの精を 待ちましょう
遠くの空の 光の滴
閉じたまぶたに 落ちるから―――
『……その歌……じゃあ、貴方は……!』
女性は、目の前の少年が持つ魂を理解した。
歌うのをやめ、リオが微笑む。
その瞳が、女性と同じスミレ色に変わる。
『……セレスティン……』
女性の唇から、呟きが漏れた。
新たな涙が、その頬を伝う。
『……そうだったの……。ごめんね……気付かなくて……』
遠い昔に母であった人は、濡れた瞳のまま微笑んだ。
『……愛しい子……貴方を抱き締めたい……』
細い両腕が差しのべられる。
けれど、その手は我が子の生まれ変わりに触れる事は出来なかった。
虚しく空を切る、実体のない腕。
スミレ色の瞳が、淋し気に揺れた。
『教えて、セレスティン……貴方は無事に逃げられたの?』
彼女は問う。
『都が滅びたあの日、私は無我夢中で貴方を空間移動させたわ。でも、私の生命力はもう尽きかけていて、どこまで飛ばしてやれたか分らなかった……』
「……僕はエルティシア大陸までたどりついて、吟遊詩人のエラルドに拾われたよ」
母の言葉に呼応して、リオの中に【セレスティン】の記憶が蘇る。
正確には大陸ではなく、大陸付近の海に落ちて、溺れ死にかけた事は黙っておいた。
比較的早くに海岸へ打ち上げられたのと、そこを散歩していたエラルドに発見され、手早い処置を受けられたのは幸運といえる。
「そして僕はエラルドと一緒に旅をして、生き残った人を探した……」
そこまで言うと、リオは背後に立ち尽くすオルジェとミーナに目を向けた。
「……見つかった人達の子孫が、メランテの里の人……僕の後ろにいる、この二人なんだ」
『……ちゃんと生き延びられたのね……。よかった……』
涙を流し続ける母の姿が、スウッと薄れ始める。
『……セレスティン……貴方にお願いがあるの。この扉の向こうへ行くのなら、ディリオンを探して。貴方ならきっと見つけられるわ。私が愛してやれなかったあの子に、さっきの子守歌を聞かせてあげて』
「ディーは黒き民の所にいるの?」
咄嗟に出たセレスティンとしての言葉に、母は優しく微笑んだ。
『ええ。黒き民は、あの子の【力】を狙っていたから。……レイルはあの子を護ろうとして死んだのに、私はあの子を恨んでしまった……』
母の涙は泉の様に限りない。
けれどそれは、彼女の心を洗い流すもの。
涙を流すたびにその姿は薄れ、消えつつあった。
『お願い。私の代わりに、あの子を抱き締めてあげて。強くて優しかったレイルの子の貴方なら出来る筈よ。私はもう、あの子に触れる事も出来ないから……』
「分った」
リオが応えると、彼女は柔らかな微笑みを浮かべる。
遥かな過去に母であった魂は、輪廻の流れへと還っていった。