「……ディリオン……」
ぽつりと呟かれたその名に、黒髪の青年の表情が一瞬フリーズする。
「……何故……その名を……」
「一緒にエルティシアへ行こう」
呆然としつつ名を呼んだ者を見ると、親しみを込めた笑みが向けられていた。
「人は、独りで生きてるわけじゃない。ものを見る為に光が、息をする為に大気が、涙や身体を流れる血に水が、肌のぬくもりには火が。妖精が、力を分けてくれている。そして死した後は土に還り、新たな生命を育んでゆく」
話すリオの瞳の色は、鮮やかな瑠璃色。
人の中で、妖精と最も親しい者の証、聖なる青。
「心を支えるのは、一緒に喜び、怒り、悲しんでくれる仲間。今の君には、それが無い……」
「……だ……黙れっ!」
怒声が響いた。
「お前は一体何なんだ! 何故敵である筈の俺にそこまで世話を焼くっ!」
振りほどこうとする手は、しっかりと掴まれていたので離れなかった。
「ディー」
「?!」
ふいに呼ばれた名に、ディオンは一瞬硬直する。
「……僕が誰か分らない……?」
リオの瞳が、淋し気に曇る。
「なら、この歌は?」
そして彼は、澄んだ声で歌を紡ぎ出した。
遠い前世の母から頼まれた子守歌を。
ディオンは歌ってもらえたことはないが、弟に対して歌っていたのを聞いたことがある。
「……何故お前がその歌を……!」
ディーと呼ばれた青年の黒い瞳が揺れる。
「それに……その名で俺を呼ぶのは……一人しかいない……」
「僕は白き民の長の生まれ変わりだけど、遠い昔、エメンの都に住んでいた者の生まれ変わりでもある」
歌い終えて、リオは告げた。
その双眸が、スミレ色に変化する。
「……お前は……!」
ディオンが激しく動揺する。
母と同じ瞳の色。
その色を持つ者を、もう1人知っていた。
「……セレスティン……」
小さな呟き、一つの名が唇から漏れる。
それは彼にとって、この世で唯一信じられる兄弟の名前だった。
「ディー、これは母さんに頼まれた」
掴んでいた腕を引き寄せ、転生者の少年は驚愕する青年を抱き締める。
そのぬくもりが、七千年もの間凍っていた心を溶かしてゆく。
小柄な少年の抱擁に、青年の身体が委ねられる。
ディリオンという名の青年はリオからの癒しの力を受け入れ、大量の出血で下がっていた体温が上がり始めた。
「……やっと分った……何故僕がこの姿に転生したか……」
遠い昔の兄を抱き締めながら、リオは言う。
「白き民のリュシアには出来なかった事、やり残した事。……それは、君を孤独から救う事だ」
その言葉を、ディリオンは沈黙して聞いている。
「大丈夫、今は姿など関係ない。閉ざされていた心の扉は、僕が開けた」
かつて唯一心を許していた弟の言葉を、孤独から解放された兄は、薄れゆく意識の片隅で聞いていた。
「還ろう、自然の輪の中へ。人の和の中へ。……僕は、お前を迎えに来たんだ」
その声を聞くか聞かぬかの間に、七千年の時を経て再会した兄は意識を失った。
身長の割に軽いその身体を抱き締めたまま、リオは周囲を見回す。
そして、銀の髪をもつ少年に視線を定めた。
「シアル、聖剣であの
「分った」
少年は頷き、すぐ横で不気味な光を明滅させている巨大な血色の宝玉を睨む。
右手を胸の前に構えた彼の掌から、光明が現れ剣の形をとった。
「
静まり返った広間に、凛々しい少年の声が響き渡る。
そして、剣が宝玉に突き立てられた瞬間、赤みがかった金色の閃光が辺りを覆った。
それは、長き闇夜を退ける夜明けの光。
光が消えた時、七千年間魔物を生み続けていた闇の結晶体は消え去った。
リオは再度皆を見回し、問いかける。
「僕の兄を受け入れてくれる?」
その問いに、全員が頷いた。
それを確認すると、聖なる青の瞳をもつ少年は、いつも傍にいる小妖精たちに呼び掛ける。
「風の妖精、翼を貸して」
大気のヴェールが、全てを優しく包んだ。