先ほどまでの激しい戦いが嘘のように、廃教会の周囲は静寂に包まれていた。
暫く、リューファスの背中を脂汗が滴り落ちた。
高鳴る心臓をなんとか落ち着けようと努め、ようやく喉の奥に詰まっていた言葉を絞り出す。
「あのゴブリンは、どうやら余を知っているようだな」
リューファスは軽く息を吐き出し、踵を返して歩き出した。
視線を伸ばせば、メッツァが廃教会の前にへたり込んでいる。
普段の涼し気な態度は影を潜め、戦の疲労感を隠し切れていなかった。
初陣でもあるまいに、とリューファスは思った。
「どうした、貴殿。 疲れたのか?」
「空間を歪める術式を複数張ったんだ。これでも褒めてほしいくらいさ」
メッツァの声はいつになく弱々しい。
(その割に『矢避け』の術式を維持しているのを見ると、こやつの生存への執念だけは本物らしい。なんだ、言うほど大変そうではないな)
リューファスは、興味を失いかけた視線をゴブリンの屍に移し、軽く首を振った。
リューファスとしては、爆裂術式なり、火炎術式なりで敵を殲滅してくれた方が、よほど心が躍る。
空間を歪曲させるなど、よくわからないことを言われても困るのだ。
「お前の魔術はわかりにくい。せめて、その『矢避け』の術を余にも付与すれば良かったものを」
「確率改変を遠隔で他人に付与なんて、無茶だよ。そんな要求、魔術の範疇を超えている」
理屈ばかりこねるつまらん男だ、とリューファスは思う。
それでも役に立つ能力には違いない。
そんな折、視界の隅に黒衣の双子姉妹が現れた。
「あなたたちが、共和国大学から来たリューファスとメッツァね」
率先して話しかけてきたのは、ポニーテールで真紅の瞳を持つ姉のダムだ。
その隣に立つ妹ディーは短いボブカットと青紫の瞳が印象的だ。
どちらも戦場とは思えない冷静な表情で、場慣れしているのが明らかだった。
「わたしたちは、トゥイードル冒険者事務所の者よ。わたしはダム、こっちは妹のディー」
ディーは軽く会釈するだけで口を開かなかったが、妙に落ち着いた雰囲気が彼女の存在感を際立たせる。
「どうやら、我らの素性はわかっているらしいな。確かに余はリューファスだ、護衛をしている。後ろにいる白面文弱がメッツァだ」
「言っとくけど、僕が悪口言われてるのくらいはわかるからね? ……はあ、研究生メッツァです」
簡単に挨拶を済ませ、リューファスは残りの二人に注目した。
少し離れて、銀髪銀眼の女が屈み込んでいた。
神官服に身を包む彼女は、得体の知れない蘇生術を使う聖職者だ。
無表情で死したレッドキャップの耳を調べながら、誰かに語り掛けるように呟いている。
リューファスが奇異な視線を向けていると、ダムが察して説明した。
「ああ、アレ? 気にしないで。あんまり話が通じないの。蘇生教会の聖女リリーよ。自分の身を護れる蘇生装置みたいなものだから、気も遣う必要もない」
「蘇生教会の聖女だと?」
「ええ。 珍しいでしょ、蘇生教会の聖女が冒険者パーティに同行するなんて」
「蘇生教会とは?」とリューファスが疑問を口にしかけたが、それを遮るようにメッツァが耳打ちしてきた。
「女神アルテナを祀る教会だよ。冒険者や兵士の治療と蘇生が主な役目だけど、そのサービス料に、金銭と服従契約を要求してくるんだ」
リューファスは眉をひそめた。
「奉仕ではなく服従契約か? 実利教会というのは、随分俗っぽく聞こえるがな」
「今の時代、神様だって実益が大事なんだよ」とメッツァは肩をすくめてみせた。
『アルテナ』という名前に、リューファスの記憶が揺れた。
かつて、リューファスに仕えていた専属術士の名だ。
(600年前の話ゆえ、今も生きているはずはないが……)
思わぬ偶然に、リューファスは胸騒ぎを覚えた。
地面を滑るような音と共に、深い闇から浮かび上がるように、華美なゴシックドレスを纏った異形の女が近づいてきた。
背中には蜘蛛のような鋭い足が突き出ている。
「息があるゴブリンには、だいたい止めを刺しておいたわ。 それと――今回の特別ゲストさんね。 で、そっちの美味しそうなのが、大学の研究者さん」
意味深な視線を受けて、メッツァがリューファスの陰に身を隠しながら、「さ、さっきはどうも」と愛想笑いをした。
「あら、ちゃんとお礼も言えるんじゃないの」
マニキュアの具合を確認しながら、女は優雅に微笑んだ。
「貴様、アラクネか」
「そうよ。別に隠してもいないけれど、ね。フフ、あたしはマフェット。トゥイードル冒険者事務所に所属している、いちおう冒険者よ」
「化け蜘蛛の分際でか」
マフェットの琥珀色の瞳が冷たく光を帯び、周囲の空気が張り詰めた。
しかし、彼女は意図的に声を和らげる。
「その呼ばれ方は好きではないわ、品がないもの」
「ほう、面白い冗談だな。人を喰うのに品格が必要とでも?」
異形の怪物に掛けてやる情けもなければ、尽くしてやる礼儀もない。リューファスはそう判断した。
(『魔女』の類と関わって良いことがあった試しもない。だいたい、アラクネには良い思い出がないのだ)
威圧したところで、一触即発の雰囲気になりかけたが、ダムが割って入る。
「わたしたちは、廃教会で包囲されているあなたたちを助けた。 それに対して少しは敬意を払うべきでは?」
「確かに助かった。礼は言おう。しかし、共闘したからといって信用する理由にはならん」
「まあ、疑うのは当然ね」と、マフェットは肩をすくめた。
「ただ、これだけは知っておいて。奥方様――そう、あなたの妻からの依頼でここに来たのよ」
さすがのリューファスも一瞬言葉を失い、思考を巡らせた。