妻と聞いて、最初に頭を過ぎったのはヘカーティアの名だった。しかし、600年もの時が経った今、彼女が関与しているはずがない。
「馬鹿な、あいつが生きているはずがない。何を企んでいる?」
「何を企むか……そうね、敬意をもって教えてあげるわ、オーサマ」
自身の身分を言い当てられて、リューファスは言葉を止めた。
数百年の月日を隔てた今でも、一部の者たちに己は知られているらしい。リューファスは鋭く睨み返す。
メッツァが眉をひそめ、「オーサマ?」と困惑気味に聞き返した。
マフェットは恭しくふわりと広がるドレスの裾を静かに持ち上げ、ゆっくりと膝を折った。
紅をさした唇は微笑みをたたえ、長いまつ毛が閉じられる中、琥珀色の瞳は地面に釘付け。礼儀正しくもどこか遠ざかるような、気品あふれる所作だった。
「女王陛下より賜った名を、今ここで明かすつもりはございません。ただ、我らが女王も喜ばれるでしょう。600年もの眠りを経て、貴方様がこうしてお目覚めになられたことを」
仕草に不穏なものを感じながらも、リューファスは返した。
「まさか、貴様はクロトの眷属か。……まだ、生きておるのか、あ奴めは」
「はい、もちろんでございます。ただ、この場に参りましたのは、クロト陛下の御用ではございません」
マフェットはさらりと続けた。
「奥方様より直接の依頼を受け、我が女王の代理として参じた次第です。奥方様は今、この呪詛汚染の森の最奥、神殿にてお待ちです。ベスタルの聖杯の傍らで」
ベスタルの聖杯――聖なる火の受け皿にして、膨大なエネルギーを蓄える器。かつてリューファスがヘカーティアに託したものだ。
彼は無意識に拳を握りしめた。
「……神殿で、あれは最期を迎えたというのか?」
マフェットは姿勢を崩さぬまま、返答する。
「はい。600年前、貴方様が石化した後、奥方様は神殿へ向かい、最期の準備を整えられたそうです。貴方様を未来へと繋ぐために」
述べられた情報が示すのは、ヘカーティアが600年にわたって何らかの形で、リューファスを待ち続けているという現実だった。
メッツァが頭を抱えて、「話にまるでついていけないんだけど、まさかこの森の奥へ行くなんて言わないよね?」などと、言い出したのでリューファスは鼻を鳴らした。
リューファスの脳裏に、600年前の光景が鮮明に蘇る。
血の匂い、炎の揺らめき、その中で微笑むヘカーティア。
その笑みの奥に隠された想いの深さに、あの時の自分は気付けなかった。
「約束したのだ。すべて終わったら――必ず迎えに行く、と」
それは、かつて果たされなかった誓いであった。
「ええっ!? 絶対無理だって! 僕、こんな呪詛まみれの森でこれ以上生き延びられる気がしないんだけど!」
「もとより、呪詛サンプルとやらを回収するための旅なのだろう」
「そんなの奥に行かなくても回収できるじゃないか! 『聖なる火の神殿』なんて調査隊でも未発見だぞ、やってられるか」
抗議するメッツァを無視し、リューファスは冒険者たちに向き直った。
「今の余では、この森を抜けられるかわからぬ。護衛を頼む。なにより、以前とは様子も違うのでな」
「護衛はきみだよ! それも僕のね!」
リューファスとて、己が簡単に敗れるとは思わないが、可能な限り力を温存しておきたい。
ましてや、全盛期からほど遠い今、最奥までの道のりになにがあるのかもわからないのだから、打てる手は打つべきだ。
「礼を崩してもよろしくて?」
「ああ、問題ない。その堅苦しい物言いも、やめろ」
「それは良かったわ、こんなもの時間の無駄だもの」
マフェットは、あっさりとリューファスに対する礼儀を撤廃した。
「決定権はダムにあるのよね。彼女があたし達パーティの指揮官だから」
ダムは僅かに考えた。真紅の瞳が右上へと向いてから、すぐに地面を映す。
「先の戦闘ですら、わたしも傷を負った身だし。最後まで同行する保証もしないが、途中退却した場合でも経費は請求させてもらう」
示された答えに、メッツァは顔を歪めた。
請求書は間違いなく彼の研究室宛てだろう。あるいは、メッツァの実家宛てか。
呪詛汚染されたエリアの深層に赴くのは、単純に危険が跳ね上がるだけでなく、蘇生が成功しないリスクすら高めるため、請求はかなり上乗せされるのが相場だった。
「しっかし、あんな火薬式の武器でも、当たれば痛いものね。そうは思わない。ディー?」
「そうね、ダム。 強化施術を受けていない生身なら、致命的。でも、冒険者を止めるには、まるで衝撃力が不足。 ……
「事前に知ってれば、対策装備持ってきたのだけれど。まあ、マフェットの作った服を貫通することはないから頭だけは守ろうね」
呑気に声を掛け合いながら、双子姉妹は槍の点検を済ませていく。
魔術工房の武器は頑強だが、メンテナンスも必須だった。
それから、戦闘で消費したエネルギー補給のため、粘土めいた固形物を荷物から取り出し、口に入れていく。
アラクネのマフェットも、「ちょっと失敬」と言いながら比較的損傷の少ないゴブリンの肉に手を付け始めた。
思わず、リューファスもメッツァも不愉快そうに視線を外す。
一方、リリーと呼ばれる銀眼の聖女は、まだ死者の耳や指を弄り続けていたが、動きに気づくと、ゆっくりと立ち上がった。
血塗られた指を見つめながら、リリーは小さく呟く。
「急いだほうがよろしいかと……レッドキャップ達もまた、森の奥を目指しています。 どこかでかち合うでしょう」
死体からいったい何を読み取ったのか、抑揚のない声で断言した。
奴らが単なる強盗や気まぐれな殺戮者ではなく、明確な目的を持って動いているとしたら、面倒ではある。
しかし、リューファスが感じたのは、そのような情報を得られたことに対する喜びよりも、一行に対する不気味さだった。
「メッツァ、冒険者と言うのはこういう連中ばかりか? 余が世間知らずなのは、理解しているがどうにも腑に落ちぬ」
「極端な例ではあるけど、多かれ少なかれ、こういう人種ではある印象だね。最初は普通の人間が徒党を組んでも、生き残りはいずれこういう雰囲気になる」
「頼もしいかもしれないが、余の知っている冒険者ではない」
「伝説のライル王の成果でもあるんだけどね。 ……魔術師ではない人間が、英雄譚を築けるという証明が、今の冒険者の在り方に繋がったんだから」
リューファスは、なにか当てつけめいた口調をメッツァに感じた。
薄々、正体に気付かれているのだろうか。
かつて、リューファスが、まだライ・ユーファス・セレスティアヌスを名乗っていた頃。
彼は、王として『雷鳴の騎士団』を結成し、誰もが英雄となり得る未来を夢見た。
誰もが己を高め、力と知恵を有する仕組みを作ることで、半島全体をまとめあげ強い国を作ろうと思ったのだ。
しかし、その理想は今の冒険者たちにどう映っているのか。複雑な思いが胸に去来する。
(余の理想を追求した結果がこれか? 思ったようには、ならないものだ)
準備を整え、移動を開始する冒険者たちの背中を見つめなら、今の世を生きる人間の強さを称賛すべきか、託そうとした想いをきちんと引き継げなかった己の不足を恥じるべきか。複雑さを噛みしめた。
かつての愛剣「セレスティン」の重みを懐かしむ手が、今はただ虚空を掴むばかりだった。