そろそろと聖女リリーが魔獣の死体に近づくと、手袋をはめて触り始める。何か所か、身体の斑点などを確認すると血液や毛を採取し始めた。
「あ、それ、僕もやりたい」とメッツァも、後に続く。
メッツァも元々、呪詛汚染のサンプルを集める名目でここに来ているのだから、このチャンスを逃す理由がなかった。
そんなメッツァに対して、リューファスは人造魔剣を指して抗議する。
「おい。 この剣、使い物にならないぞ。 切れ味は悪くなかったのに、連戦に耐えられていない」
「えー? そもそも、ここまでの冒険とか想定してないからさ……汎用的に使われてる装備なんだから、別に安物ではないんだよ。 信頼性はきちんとある工房のだし、軍のトライアルに勝ってるんだから」
「理屈は良い。替えはないのか?」
「そういう準備すらしてないから、帰りたいってさっきから訴えてるんだけど?」
大型の魔獣を相手にすると最初からわかっていれば、それ相応の準備と対策は用意しただろうが、今回は完全に想定外だ。
「そもそも、こんな魔獣が出る深度まで行くなんて聞いてないよ。……ああ、もう。 これより先に行くとか」
メッツァが苛立たしげに頭をかくと、リューファスは首を傾げた。
「何か問題か?」
「大ありだよ! うわ、叫んだら、また気持ち悪くなってきた」
兎人の娘がおそるおそるそこで口をはさむ。
「あの、武器が必要なのですか」
一行の視線が一斉に集まった。
兎人の娘の長い耳が、ぴくぴくと動く。
注目を浴びて、緊張してしまったようだが、それでも言葉をつづけた。
「近くに、わたしたちの里があります。 人間が歓迎される場所ではないですが、それでもよろしければ」
「里だと?」
リューファスの眉が僅かに動く。
彼にとって、兎人の住む集落はほとんど未知の領域であり、敵対する種の場所でもある。
しかし、戦闘の余波で消耗した装備と体力を補うには、この申し出は捨てがたかった。
「ほう、それは興味深いわね」と、マフェットが微笑を浮かべる。琥珀の眼が、好奇心と共に警戒の色を帯びていた。
「けど、どうやって歓迎されない場所に招き入れるつもりかしら?」
兎人の娘は一瞬躊躇したものの、意を決したように顔を上げる。耳がぴんと立ち、震えながらも力強い声で答えた。
「わたしが案内します。それに……さっき命を救っていただきました。里の長に伝えれば、必ず協力してくれるはずです」
娘の決意を目の当たりにし、一行は短い沈黙に包まれた。
リューファスは腕を組み、周囲の顔を見回す。
「ふむ。兎人の里か……確かにこの場で立ち往生するよりは賢明な選択かもしれん。ただし、我々に害意を向ける者がいれば容赦はしない。覚悟はいいか?」
威圧的な声に、兎人の娘は怯みながらも力強く頷いた。
「わかりました……責任はわたしが取ります。 命の恩人のことですから」
マフェットはその様子を見て肩をすくめる。
「まあ、あたしは面白そうだから賛成。ね、ダム?」
槍を担いだダムは黙って頷き、リーダーとしての役割を淡々と果たす。
妹のディーとわずかに目配せをする。姉妹の意思疎通に時間は、必要なかった。
「ああ、そうね。 選択肢が増えるなら悪くない。リリー、何か問題はある?」
聖女リリーは魔獣の死骸から立ち上がり、手袋を外しながら淡々と答えた。
「採取は終わりましたし、構いません。アルテナ様の教義に種という垣根もございませんので」
呪詛汚染された死骸を触るのに手慣れているのか、そこに何も感慨はないようだった。
いささかズレた回答をするが、確かにそこに兎人という種に対するなんらかの感情は読み取れない。
「なら、決まり。 兎人の案内で里に向かう。何か起きたら、その時はその時だ」
ダムが宣言をすると、メッツァは安堵したように息を漏らした。
「ようやく休めるよ」
どこかリューファスは不機嫌そうではあった。
目ざとくメッツァが「そもそも助けたのは、キミでしょ」と声を掛けると、「わかっている」と鼻を鳴らす。頭ではわかっていても、何か感じるものがあるらしかった。
「あ、でも、先行ってていいわ」とアラクネのマフェットは髪をふわっと靡かせて、魔獣の死骸に向かって歩き出す。
「これ、いい糸になりそうだから」
弧を描くその笑みを見て、ダムとディーの双子姉妹は視線を外し、距離を取る。
なんとなく一行も察して、マフェットから離れた。
アラクネの習性として、力ある生物の死骸を糸に変えるのは、みな知っている。過程となる作業が、気持ちの良い光景とならないことは察した。
「まあ、マフェットは一人でも大丈夫でしょ。 で、案内してくれる? 兎ちゃん」
ダムはにっこり笑って、案内を促した。
兎人の娘は緊張が入り混じった表情を浮かべた。
「では……ついてきてください」
兎人の娘が歩き始めると、一行もそれに続く。
森の中、兎人特有の軽快な足取りで進む娘に、リューファスたちはなんとか歩調を合わせた。
茂みを抜け、徐々に密度を増す樹々の間を進むうちに、空気が変わり始める。清浄さの中に、わずかな違和感――魔力の流れが独特な形で漂っていた。
「この辺り、結界でも張っているのか?」
リューファスは真っ先に気付いて尋ねた。
兎人の娘は振り返り、小さく頷く。
「はい……里を外敵から守るためのものです。侵入者には錯覚を与え、辿り着けないようにしています」
「ふむ、賢明だな。 よく出来ている、これならば強力な隠蔽が働くだろう。 遠目では、余も見つけられる自信がない」
「結界術にお詳しいのですか? 簡単に見抜けるものでないのですが」
「さて、な」
必要以上に答えようとしないリューファスに、兎人の娘は気を取り直した。
娘は胸元から小さな石のペンダントを取り出し、呪文のような言葉をつぶやいた。その瞬間、空気が振動し、霧のような薄膜が消え、周囲の景色が鮮明に映し出された