神殿の空気が一瞬凍りついた。
「おやおや、気に障ったかっ!」
狂帽師の嘲笑する声が響き渡る。
「鏡でも見ていろ、ひどく歪んだ醜いバケモノめ」
その言葉とともに、狂帽師は宙に浮かび上がり、金属の粒子を自在に操って刃へと変えていく。
その挑発的な笑みは長くは続かなかった。
ジャバウォックの反撃は容赦なく、そして圧倒的だった。
爪、牙、術式、瘴気——その全てが狂帽師の金属の身体に襲いかかる。
歯車で構成された体が自己修復を試みるも、襲い来る猛攻の前には全く追いつかない。
「ぐっ……!」
最後の抵抗として展開された『磁力の盾』も、ジャバウォックの前では脆い紙のように引き裂かれた。
巨大な力で地面に叩きつけられた衝撃に、狂帽師の身体から部品が飛び散る。
メッツァは戦況を見つめ、ジャバウォックの力の差に愕然とした。
「なぶり殺しだ……その気になれば、全員まとめてやられる」と胸中で呟く。
メッツァは、いや、誰もが恐怖で身動きが取れなかった。
次の標的になることを恐れ、息を潜めることしかできない。
目の前で展開される光景は、逃れられない死の未来そのものだった。
歯車とネジで構成された狂帽師の身体が、もはや形を留めないほどに崩壊していく。魔力の限界を迎え、その存在そのものが音を立てて崩れ落ちていった。
それでも最期に、狂帽師は不敵に高らかに笑った。
「ふっ、ふはははっ! 素晴らしい、想像以上の未練がましさだった。吾輩の次の幕では――」
続きは、紡がれなかった。永遠に。
轟ッと、ジャバウォックが吐き出した粘着性の炎が狂帽師を飲み込む。
ゲル状の炎は執拗に纏わりつき、金属の身体を無慈悲に溶かし、焼き尽くした。燃え滾る炎だけが、メラメラと残留し、生命の気配は存在しない。
その光景を目の当たりにしたとき、リューファスが叫びを上げる。
「惚けている場合か! ドラゴンを相手にして、足を止めるな!」
名刀タリアエルバが、ジャバウォックの紫鱗へと叩きつけられる。
しかし、数多の敵を討ち果たしてきた名刀すら、この邪竜の鱗には傷一つつけられなかった。悠然と紫の翼をふわりとしならせ、身を翻した。
「今の余では、刃が通らぬかっ!」
「リューファス、無茶だ! こんなの、個人で倒せる相手じゃない。軍隊でも——」
メッツァの警告が神殿内に響くが、リューファスは一歩も退かない。
「黙っていろ、
叫ぶと同時に、リューファスは刀を両手で握り、さらに魔力を注ぎ込む。
「試練の間から、容易く退却できると思うなッ! 余が退いたら、誰がこいつを止める。戦えぬなら、隅でガタガタ震えてろッ」
メッツァは反論の言葉を飲み込んだ。
確かに、このままでは誰も生還できない。しかし、戦ったところで――。
ジャバウォックはリューファスを見下ろし、一瞬動きを止めたと思うと、再び口を開く。
瘴気が神殿を満たし、粘りついた炎が口腔から放たれた。
「風を纏え、タリアエルバッ!」
リューファスは見事に炎を薙ぎ払った。
一振りで草を刈るように敵を薙ぐ剣閃は、粘性の炎を寄せ付けないことに成功した。
だが、その瞬間こそが死角だった。
炎を払ったその背後に、紫鱗の覆う鋭い尾が稲妻のように襲いかかる。
「危ないっ!」
メッツァの咄嗟の判断で輝いた虚数演算宝珠が、リューファスの身体を強制的に後方へ弾き飛ばす。
直後、尾が地面を粉砕した。
「余計なことをするな!」
リューファスが怒声を上げる。
「だが、助かった。余よりも自分を優先して動け。少しでも高い所ヘな」
メッツァは、冷や汗をかきながら気づいた。
周囲に漂い始めた濃密な瘴気——それは既に環境そのものを汚染し、呪詛となって浸食し始めている。
んー、と唸りがら、聖女リリーが無感動に警告した。
人間性を欠いた声が、淡々と事実を告げる。
「呪詛死には、蘇生は使えませんので、せいぜいお気を付けを」
既に全員が消耗している。聞いたダムが急いで指示を出す。
「みんな、ここに長居するのはまずい! 瘴気でじわじわとやられるよ! マフェット、脱出経路は?」
「無理ねー、引き返す通路は閉じられてるわ。破壊するのも一苦労」
この闘技場のような広い空間は、すり鉢状に沈み込んだ楕円形の構造だ。
円周には観客席のように高台が設けられ、無数の彫像や奇妙な
「ダム、上に登ろう。ディーが足場を作る」
「頼むわ、ディー。……って、ちょっとメッツァ! どこに行くのよ」
そんな中、メッツァは突如としてパーティから離れようとする。
「マルシャとハレが危ない。彼女達も逃がす!」
「……馬鹿じゃないの。自分のことを、優先して動けって言われたばかりでしょ」
ダムの呆れた声が追いかける。
しかし、メッツァは振り返らない。
虚数演算宝珠で、瘴気を払いながら突き進む。
擦り切れそうな魔布は、未だに自分の身体を守ってくれていた。
「僕だって、好きでこんなことをしてるんじゃない。でも、信頼してくれた相手を失うのが、嫌なんだ」
自分に言い聞かせるように呟きながら、メッツァは走り続けた。
焦燥と苛立ち、そして恐怖が胸の中で渦を巻く。
視界の端には、邪竜と一騎打ちを続けるリューファスの姿が映っていた。