リューファスの体には、白兎騎士ハレとの決闘による無数の傷跡が刻まれていた。
全身が痛み、万全の状態からは程遠い。流れ出た血も、決して少なくはなかった。
温存してきた力を、使うのは今だ。それが不利を覆す保証がないとしても。
しかし、それはリューファスにとって珍しいことではなかった。
これまでの人生で、彼に課された戦いは常に不利なものばかり。敗北は当然と言われ続けてきた道のりだった。
巨大な邪竜ジャバウォックが、神殿の天井を覆うように佇んでいる。
その紫の鱗は毒々しい輝きを放ち、翼が僅かに動くたびに、瘴気を含んだ風が渦を巻いていた。
リューファスは名刀タリアエルバを握り締めながら、その巨体を見上げた。
ジャバウォックの放つ紫の炎は、戦場となる足場を次々と侵食していく。
追い詰められた先で展開された重力の魔法陣。押しつぶされる寸前、リューファスは咄嗟に空中へと身を躍らせた。
「タリアエルバ、飛ぶぞッ!」
風を纏ったタリアエルバを操り、束の間の飛行を試みる。
ジャバウォックは長い首をくねらせ、爛々とした眼で獲物を追跡した。
しかし皮肉にも、この場所は巨大な邪竜には狭すぎた。翼を広げ、自由に飛翔することすら許されない空間。
「窮屈そうだな、ジャバウォック。……それは余もだ、ここはあまりに閉鎖的に過ぎる」
リューファスの胸にある、漠然とした息苦しさ。
『聖なる火の神殿』に足を踏み入れて以来、その感覚は消えることがなかった。
リューファスにとってこの場所は、大きな墓所のようなものだった。失われた記憶の面影を、朽ち果てた神殿の中に探し続ける終わりなき旅路。
「だが、懐かしいな。そうだ、黒龍フェアヘニングスと戦った時に似た感覚だ」
かつて王として、国の未来を守るために戦った日々が脳裏を過ぎる。
しかし今、彼は何のために剣を振るうのか。
手にしているのは確かに名刀ではあったが、所詮は代用品に過ぎない。本来の聖剣セレスティンは、まるで彼を見放したかのように姿を消したままだった。
リューファスは深く息を吸い込み、心を沈めた。
「何のために戦うか。余がそなたと戦うのは、亡き妻ヘカーティアとの再会を果たすため」
静かな決意と共に、リューファスは身をかわした。
破壊的な力の使用は避けたかった。誰かを巻き込む危険性を考慮してのことだが、もはや考え込む余裕すらなかった。
「来たれ、
暗碧の法衣が、まるで霧から形作られたかのように具現化する。被り笠の隙間から、銀色に輝く左目が冷たい光を放った。
「――寄り添え、
リューファスの低く、しかし確かな詠唱が神殿の喧騒を切り裂いた。
瞬間、目の前の光景が一変する。
タリアエルバが彼の手の中で共鳴するように震え、神殿内を埋め尽くしていた瘴気が、まるで追い払われるように霧散していく。
代わりに広がったのは、冷たく澄んだ雨の気配。
リューファスが、かつて関わって来た者たち心象の具現。それこそが
降り注ぐ雨は、全てを洗い流す静寂の化身。誰かの心の中で、この雨だけが唯一の慰めとなった孤独な記憶の具現化。
通常なら簡単には消えない炎でさえ、その雨に触れれば粘性を失い、化学的な組成すら覆されていく。『火は雨によって消える』という揺るぎない概念の具現化が、この領域を支配していた。
ジャバウォックは異変に気づき、鋭い咆哮をあげた。
震わせる声は空間を揺るがし、外周の彫像が崩れるほどだったが、不思議なことにリューファスの立つ足元だけは微動だにしない。
「どうした、ジャバウォック。その力、その鱗、その瘴気……すべてを賭してかかってこい!」
リューファスは膝を落とし、低い姿勢で刀を構える。足元には雨粒が細かな波紋を描き、剣先からは微かに湯気が立ち昇る。
法衣は雨粒を霧へと変容させ、その身を守るように包み込んでいく。
(これだけの力を使えば、余とて消耗は避けられん。この精神がどれほど持つか、か)
力の反動として、耐え難い孤独感が彼の胸を締め付けた。
正気を保とうとする意識が、引き裂かれそうになるのを必死に抑え込む。
巨大な尾が鞭のように振るわれたが、リューファスは前方へと滑るように躱した。
降り続ける雨粒は、静かにジャバウォックの鱗を蝕んでいった。雨が触れる度に、毒々しい光沢が少しずつ失われていく。
「その巨体では本領を発揮できまい。この孤独雨ではなおさらな」
言葉とともに一閃。
タリアエルバの刃は、雨とともに疾り、ジャバウォックの左の翼を深く切り裂いた。砕け散る紫鱗。黒紫の血が霧となって舞い散る。
悲痛に満ちた鳴声が、神殿内に響き渡った。
無防備にも見える姿。
しかし、圧倒的な質量を持つドラゴンを相手に、リューファスは一瞬たりとも気を緩めなかった。
すぐに重力の見えざる顎が炸裂。雨粒の歪みが不可視の攻撃を一層明確に浮き彫りにした。
「くっ、反応が早い」
連続攻撃の起点となる出だしを防がれた。
さらに、鱗から滲み出るように紫の炎が燃え上がった。それは鎧のように邪竜の身を包み、いくつもの尾のように伸びていく。
小回りの利かない巨体を補うかのように、紫炎は自在に動き回った。
近づけさせない紫炎と重力術式の猛攻。
熱気を法衣に纏う霧が相殺するが、必死に逃げ回る。相手の死角に潜り込むことで、標的から逃れようとするが、紫炎の追尾と、地面が隆起して無数の刃を為すことでさらに追い詰めを図る。
「この雨の下は、術式を阻害する領域なはずなんだがなっ」
このままだとじり貧だ。
孤独雨が止む前に、決定的なダメージを与える必要があった。
邪竜ジャバウォックは大きく紫翼を広げ、猛烈な突風を巻き起こす。雨を吹き飛ばし、リューファスの足元を強引に崩そうとした。
こうなれば、もはや一刻の猶予もなかった。
「覚悟せよ、この一撃でそなたを葬るッ!」
雨粒を纏ったタリアエルバが虹色の軌跡を描き、ジャバウォックの首筋へと狙いを定める。
しかし、その瞬間の焦りが、全てを狂わせた。
紫炎に紛れて、ジャバウォックの周囲に煌めく粉塵。
気付いた時には、遅かった。
急激な熱波と共に、爆炎が轟音を上げて膨れ上がる。
そして、雨は止んだ。