神殿の中心で、ジャバウォックが
鉄槌の如く、振り下ろされた巨大な尾が地面を粉砕。飛び散る破片の間を縫い、メッツァは疾走した。
「マルシャ、聞こえるか!」
焦る心を抑え、メッツァは声を振り絞った。
邪竜の瘴気は刻一刻と濃度を増し、今や神殿全体が命を蝕む毒の檻と化していた。
慎重に瘴気を払い続けていた虚数演算宝珠の輝きは、徐々に弱まっていた。
(魔力を使いっぱなしなのはキツい……宝珠に魔力を充填する余裕がない)
ようやく神殿の隅に、マルシャとハレの影を見つける。
マルシャは、血が滲む手で結界を維持していた。小さな体で必死に耐えている様子が痛々しい。
兄である白兎騎士ハレは、まだ身動きが取れない様子で、壁に背を預けたまま己の身体を抑えていた。
「メッツァさん、まさか助けに来てくれたんですか?」
マルシャが驚きと安堵の入り混じった声を上げる。
白兎騎士ハレが、息を吐いた。
「丁度良い。おい、そこの人間。この跳ねっ返りをどこかに連れていけ」
「兄さんのためにここまで来たのに、見捨てられるわけないじゃない! なんで、そんなこと言うの?」
「いい加減、殺そうとしてきた相手を兄と呼ぶのは止めろ。大人になったつもりなら、その程度の分別を付けるんだな」
「分別? 自分だけ助かることが? そんな損得勘定が大人になることなら、わたしはずっと大人じゃなくていい」
ずっと、この場所で言い争い続けていたように見えた。
マルシャは涙に頬を濡らしながら叫び、ハレは疲れ切った顔で自暴自棄になっていた。
(リューファスが命懸けで戦ってる間に、なにしてるんだ!)
その様子を見たメッツァの中で、何かが切れた。
普段は争いを避ける彼の性格が、一瞬にして覆された。
「黙って僕に従えっ。うだうだ言ってないで、生き残るために動けばいいんだっ!」
メッツァの一喝に、二人は言葉を失う。
「……人間の小僧。まさか、それはこの私にも言っているのか?」
「アンタは、リューファスに負けたんだろ! 負けて生かされたくせに偉そうにすんな! 正々堂々、戦って負けたんだから、己の誇りにかけて与えられた結果を全うしろ!」
思考を突き抜けるメッツァの怒りは、その場の空気さえも変えた。
マルシャは目を丸くし、涙を拭うのも忘れたままメッツァを見上げる。
ハレは一瞬メッツァを睨みつけたものの、やがて観念したように頷いた。
「容赦がない連中だ。……小僧、言っておくが、次は貴様を真っ二つにするかもしれんぞ」
「やれるもんならやってみろ、嫌だけど! けど、今は黙って助けられてろ!」
ハレは険しい表情のまま目を伏せたが、それ以上何も言わなかった。
「マルシャ、結界は僕が維持するから、まずは壇上に上がって。たぶん、マフェットと協力すれば、兎人を引き上げるくらいできる」
「ありがとうございます! メッツァさん、わたし」
「お礼とかは後で良いから」
戦局は刻々と悪化の一途を辿っていた。
リューファスが得体のしれない力で、邪竜ジャバウォックを翻弄していたが、どんどん追い込まれていた。
そんな緊迫した空気の中、強烈な爆音が響き渡る。邪竜ジャバウォックの身体から放たれた真っ赤な熱波に、思わず目を覆う。
リューファスの体が壁に叩きつけられ、崩れ落ちた瓦礫の下に消えていく。
メッツァの焦りは頂点に達した。
「早く跳べ、マルシャ! 今ならまだ間に合う!」
メッツァの手の中で虚数演算宝珠が青白い光を放つ。
素早く結界を展開し、瘴気を弾き飛ばす道筋を作った。
わずかな躊躇いの後、マルシャは軽やかに壁を駆け上がり始めた。
「すぐに助けに来ますっ!」
だがその動きは、邪竜の注意を引いてしまう。
大きく呼吸するジャバウォックは共に、口腔内に新たな炎を溜め込み始めた。
メッツァの解析レンズが、発生している現象を瞬時に解読。
表示された化学式の組成を見て、すぐに察した。
「揮発性の高い燃料を合成したゲル状燃焼剤か。高温になるように金属粉まで混ぜている。うわ、めんどくさい火炎術式!普通の手段じゃ消火できないじゃないか!」
邪竜の炎の正体は、メッツァには容易く理解できた。
それは軍隊が敵陣を焼き払う際に、使用する焼夷型の火炎術式に近いものだった。
しかし、その規模と威力は比較にならないほど強大で、消火の難易度は桁違いに高かった。
「瘴気を孕む
メッツァの頭に様々な対策が浮かぶ。消火剤の合成、酸素の遮断、超冷却、気流操作――しかし、虚数演算宝珠の魔力は既に底を突きかけていた。
(――あ、ダメだ。どう足掻いても、焼け死ぬ)
メッツァは分不相応な行動だった、と悔いる。
以前の自分なら、他人なんてどうでもよかったはずだ。
高速で思考が出来るメッツァの脳裏には、決断の後悔や今回の冒険、家にいた頃の自分、積み重ねた人生の映像が駆け巡った。
それでも、迫り来る炎から目をそらすことはできなかった。
そして、その覚悟の瞬間に気づいた。
炎を裂いて飛び込んでくる一つの影を。それは彼の英雄リューファスではなく。
「我が、父祖……っ!?」
白兎騎士ハレの声が震えた。
純白の毛並みは血と瘴気に染まりながらも聖なる威厳を放ち、その手に握られたヴォーパルブレードからは青白い光が放たれ、周囲の闇を切り裂いていく。
それは、かつてのヴォーパルの英雄、
「――これこそが我が輝き。邪竜ジャバウォック、それ以上の狼藉は許せぬ」
真なるヴォーパルの英雄は、炎も瘴気をも薙ぎ払いながら、強大な邪竜の前に威風堂々と立ちはだかった。子孫の危機に、愛剣を握りしめて駆けつけたのだ。
この白き異形を、爛々と光る眼に映した邪竜ジャバウォックは狂乱する。
怒涛のように放たれる術式の数々を、
邪竜の見えない顎から放たれる攻撃すら、構築された魔法陣を切断することで無力化していった。紫の炎による反撃も、剣波によって霧散させていく。
「我が子らに背負わせた過ちを、今こそ清算する時」
理性ある英雄のその声に、白兎騎士ハレは言葉にならない叫びを上げた。
もはや、ハレは自分が何を言いたいのかすらわからなかった。
その声が届く前に、
その動きは目で追えないほどの速さだった。
ジャバウォックは再び口腔内に炎を溜め始める。しかし、今度の炎は先ほどとは質が違っていた。より次元の高い力を帯び、より濃密な瘴気が絡みついていた。
「死ぬならば、諸共だ。全てを終わりにしようぞ」
一振り。
青白い光が神殿全体を照らし、すべてが静止したかのような錯覚を覚えた瞬間。
ジャバウォックの首筋から胸にかけて深い傷が刻まれ、血と瘴気が奔流のように吹き出した。