神殿の『鎮魂の間』で儀式の準備をしていた私の手元に、一通の文書が届けられた。
リューファス王からの提案。東の区画の首長をベスタルの族長とすること。
さらに、返還した聖杯を結納品として扱い、ベスタルの最も優秀な巫女ヘカーティア、つまり私を4人目の妃に迎え入れることだった。
聖杯を押し付けられたあの日が、より苦々しく蘇る。
「私を4人目の妃に、ですって? これが計算づくなら、引っ叩いてやりたい」
しかし、私の怒りをよそに、族長たちはこの提案を歓迎した。
「ヘカーティアよ、これはただの婚姻ではない。ベスタルが半島の中心となるべき存在であることを示す絶好の機会だ」
族長はもはや、リューファス王がもたらした秩序の恩恵を手放すまいと、新たな地位と権力の座を確保することに躍起になっていた。
ああ、これがベスタルが衰退する理由か。
見えていた未来が、繋がってしまった。
巫女が
そんな私の暗い思考を、ディアーナの明るい声が遮った。
「ねえ、ヘイティ聞いたわよ。神殿はわたしが護っているから、安心してね。他の姉妹たちも立派に育てるわ」
「なぜ、笑顔なのよ? ディア」
「わたしには無理だもの。そりゃ本音を言えば、半島を旅してみたいと思ったわ。あなたから王様の話を聞くたびにワクワクしたの」
私が眉をひそめて悩むときでさえ、ディアーナはいつも何かを見つけて微笑む。
「ねえ、ヘイティ。神殿を離れたら、そのときは少しでいいから、わたしの代わりに遠くまで行って。たくさん見て、たくさん色んな人と話をして、そしていつか教えてね。どんな景色だったか」
以前から、ディアーナはリューファス王の語る冒険譚に心を躍らせていた。
本当に神殿を出たがっていたのは、私ではなく彼女だったのかもしれない。
「はあ、もしもそうなったら、少しだけあなたの夢に付き合ってあげる」
ディアーナは目を輝かせた。
揺るがない笑顔に、私は息をついた。
その後、リューファス王との言い争いを経てから、妻となってみると、重責は大きいものだった。
だが、それはその立場が飾りではなく、実を伴うことを示していた。
(謀略は巡らせるけど、考えてみれば、リューファス王が私に嘘をついたことは一度もなかったわね。このまま行くと、実質的に東の地の支配者は私になってしまうわ)
私は、所縁のある諸侯を手勢にしながらも、火守りの巫女を半島全土で活躍させた。
ベスタルの神殿を託したディアーナは、巫女を育てる姉として、師として、力量を発揮した。
(まあ、それでも抱きこめない代表例が、リューファス王その人なんだけど。巫女に予言された運命を、情報の1つとしてしか捉えていないあの男は、やはり異端だ)
とは言え、それ以外の人物が与しやすいかと言えば、そうではない。
特に、私を含めて、東西南北の各方位を治める候補となる家柄。
なかでも、リューファス王が選んだ妻たちは、その誰もが一癖も二癖もあり、油断ならない人物ばかり。
「一番、まともなのが私ね。先が思いやられるわ」
私が傍仕えの侍女にそう
ずいぶんと失礼な反応だ。私が寛大であることに、感謝して欲しい。
「ヘカーティア様は、ご自身が平凡だと思われてらっしゃるのですか?」
「自分が平凡とは思っていないわ。私が己を平凡と呼称するのは、他の巫女たちへの侮辱だもの」
ベスタルで最高の巫女であったことは、間違いなく事実だから。
「ただ、我が王は、女の趣味がよろしくないわね。選ばれた誰もが、何かに突出し過ぎているし、足並みをそろえるには向いていない。各々が独自の観点で世界を見ていている」
妻たちは少なからず、それぞれがなにかに狂っていると言っても良いほど、強烈でこだわりが強かった。
ある意味では、女傑や烈女ともいえるが、全員が今ある古い世界を焼きかねない熱を持っていた。
そう、崩壊の火種となり得るほどの。
「ヘカーティア様、それほど冷静に仰るのは結構ですが。リューファス王に見初められて、王妃となったからには、ご自身だけがその例外であると思うのは、都合が良すぎるのではありませんか?」
侍女は微笑みながらも、わずかに皮肉を込めてくる。
思わず軽く眉を上げてしまったが、私は受け流すことにした。
私は人生で初めて、空いた時間をどう使うか考えることになった。
新たな趣味は、聖杯の使い道を考えることと、南方や西方から流れてきたと言う物語を読むことだった。
書を読むと言えば、巫女の力を研鑽するためだったから、恋愛に重きを置いた物語は、特に目を惹いた。
「うーん、こうやって読むと、私は別にリューファス王に恋をしているわけでもなければ、愛を感じているわけでもないわね」
リューファス王との結婚生活は、思っていたよりも会える時間は多くなかった。
政務に加えて、彼が軍事面での最高責任者と最高戦力を兼ねている以上、常になんらかの脅威に立ち向かわねばならなかった。
その上、王は、私を含めた4人の妻全員に公平に接する必要があった。
妻とその勢力、どの面子も潰すわけにはいかず、使う時間や手間、贈り物にも過不足があってもいけなかったからだ。
晩餐の席は飾り気がなく、むしろいつも質素だった。
私と王のほかには、供の者すらいない。
私が淹れるお茶を
彼の話しぶりは声が弾んでいて悪戯心に満ちていたが、時折眩しそうに目を細める瞬間があった。
(なぜか、本当に楽しそうね。……疲れを知らないのかしら、この男)
リューファス王の言葉や行動には、不思議な一貫性があった。
「ヘカーティア、そなたの淹れる茶は本当に見事だ。先日の采配も見事。
「遠くからでも、土地を見るのが得意なだけです。……さすがに、茶と
まず、相手を試さない。
一度、力量を認めたと言う前提がそこにあり、加えて褒める言葉には裏がない。
策略家としての顔を持つ一方で、虚飾のなさを好んだ。いわく、腹を
「
(夜警の女神、ね。そんな洒落た呼び名が出るとは)
ただ笑って流すこともできなかったけれど、王の言葉に妙な温かみがあるのもまた事実だった。
「では、その女神からお願いがあります」と、私は茶器を置いて話を返す。
「なんだ? 新しい神殿でも建てる計画か?」
「いいえ、そんなもの焚き付けにすればよいのです。今はもっと些細なことをお願いしたくて」
私は微笑みながら彼を見た。
瞳がわずかに動き、興味を示したのが分かった。
「些細なことだと? フム、聞こうか」
「あなたが私に対して、もう少しだけ時間を割いてくれること。それだけです」
「……それが些細なことだと?」
「ええ、些細なことだと信じたいですわ」
意外と難しいことなのは、知っていた。だからこそ、『お願い』にする価値があった。
しばし思案顔を見せたが、やがて王は笑い声を漏らした。
それが負けを認めた時の顔なのは、もう知っていた。
「いいだろう。そなたの頼みだ。少しばかり、時間を割こう」
(やはり、奇妙な男ね)
それが彼の強さでもあり、弱さでもあるのだろう。
物事に隠された真意を見抜くのは簡単ではなく、私の直面していることの多くは、様々な思惑が絡む。
でも、少なくとも、彼は嘘をつかない。
だからこそ、私はこの王との関係を築き上げることができたのかもしれない。