今思えば、これが一番幸せな時期だった。
少しずつ自分のやりたいことが見えてきて、それが形になって。
誰かに残したいもの、伝えたいことが日に日に増えていく。
リューファス。
淹れたての茶を無防備に口にしながら、話を面白おかしく語る自信過剰な男。
そんな彼に困った表情をさせて、ちょっとした無茶を飲ませるのが何よりの楽しみだった。
ああ、ここから先は思い出したくない。
もう少しだけ、幸せな夢を。
――王が死んだ。
そうだ、王が死んだ。
あれこそが、運命の日だった。
最期の日、全てを呪い滅ぼす黒龍フェアヘニングスが辺境に現れた。
避けようのない強制力だった。
運命の分岐を、何度も良い方へ捻じ曲げ続けた王は、ついに逃れられない滅びと対峙した。
「お願い、もう何もいらないから。私と逃げて」
どれほど必死に引き止めても、リューファスは聞いてくれなかった。
「すべてが終わったら必ず迎えに行く」
「嘘つき! もう、困らせたりしないから! お願い、最後の我儘だから」
戦いに赴くことすら私にはできない。
私がここを離れれば、私の子供たちが死ぬ。
いったい誰の企みなのか。あまりにも、多くのことが一斉に起こり過ぎていた。
「私と今すぐ逃げれば、生き残れます。国は滅びるでしょうが、どうせあなたが死んだら終わるのよ、こんな国は!」
「仮に、余が死んでもそうはならん。積み上げてきたあらゆるものが、必ず応えてくれる」
言葉は、虚ろに響いた。
そうならないことを、私は知っていたから。
リューファスの瞳には、けして揺るぎない決意があって。
ああ、何と傲慢なのだろう。自分の信頼に相手が応えることだけは、疑うことすらしない。
自ら選び抜き、鍛え上げた者たちが未来を築くと信じている。
「応える? 本当にそう思っているの?」
「フフ。ヘカーティア、そなたの茶席での『お願いごと』は、一度として嫌だと思ったことはなかったぞ」
「違う。今、欲しいのはそんな言葉じゃないの」
「託せる相手がそなたでよかった。やはり、余の目に狂いはなかった」
彼は、少年のようないつもの笑みを浮かべて言った。
私はあまりに多くの感情が絡み合い、何も返せなかった。
国が保たれたのは、わずかな一時。
心の奥で何かが壊れる音がした。
王剣セレスティンは輝きを失ったものの、石像と化した王の魂を封じ込め、かろうじて命を繫いだ。
だが、愚かな家臣たちが希望を打ち砕いた。
奴らは王剣セレスティンを砕き、王の蘇生を阻むばかりか、その力を奪おうとした。
偽王が現れ、雷鳴の騎士団は殺し合いを始めた。
呪詛に汚染された領土と、諸侯たちの野心が混沌を深めていく。
託されたというのに。あの人から、この国の未来を託されたというのに。
「絶対に許さない、あの人の心を裏切るなんて」
報復は後だ。石像まで砕かれれば、復活の望みは完全に消える。
必死に隠す方法を考えねばならなかった。
駆けつけてくれたディアーナと、王の術士アルテナだけが味方だった。
アルテナは気に入らない女だったが、王の安全を守るという一点で、私たちは手を組むことができた。
「剣の欠片を確保しました。僅かですが、貴女にも託しましょう」
「へえ、それはなぜかしら?」
殺して全て奪ってやろうか。そんな考えが、一瞬頭をよぎった。
だが、アルテナは私の感情など些事だと言わんばかりに、静かに答えた。
「独占すれば、貴女は敵となる。しかし、これを分け合えば、異なる方向から事に当たることが最善だと、理解できるはずです」
「本当に不愉快な女ね。いいでしょう、ただし石像の安置場所は私が決めます」
「承知しました。呪詛汚染の深い東方こそが、捜索者たちの死角となるでしょう」
最初から用意していた策だったのか、アルテナはあっさりと石像を私に託した。
結果、私の手元に残ったのは、王剣のほんの欠片だけだった。
この僅かなセレスティンの欠片を、何かで繋ぎ合わせていくしかない。
「ディア、お願い。神殿でこれを形にして。聖なる火なら、少しは望みがある」
「……ヘイティ。私の力では不完全な復元になるわ、余分な力が入り込んでしまう」
「それでいい。私は……これからの準備をしなければ。信じられるのはあなただけよ」
その時のディアーナは何を見たのだろう。
何かを言いかけて、結局は黙って頷いた。王剣の欠片を握りしめ、他の巫女たちと共に去っていった。
私が妨害を退け、計画を整えた時には、『聖なる火の神殿』は襲撃を受けていた。
騎士団でも諸侯でもない。兎人を筆頭とする亜人種の賊たちが襲ったのだ。
機能を失った試練の間を駆け抜け、私は走った。
見知った者たちの亡骸を横目に、聖火の奥院を目指す。
そこで横たわっていたのは、ディアーナだった。
折り重なるように、互いを庇いあう火守りの姉妹たちが血に染まって倒れていた。
耳障りな音が鳴り響く。
それが自分の喉から漏れる悲鳴だと気づくまで、永遠とも思える時が流れた。
「なぜ? どうして? ディアーナ!」
いや、違う。
わかっていたはずだ。ベスタルの神殿はいずれ滅び、その時、姉妹たちは皆死ぬことを。
だが、まさかそれが今だとは。何が引き金となったのか。
私は何を変えてしまったのか。
冷たくなったディアーナに縋りつくが、あの明るい笑顔は二度と戻らない。
遺体には何かを守ろうとした痕跡だけが残り、腕は切断され、奪われていた。
――王剣の欠片だ。
ディアーナは剣を復活させようとしていた。
不完全でも、形になった剣を私に託そうとして、命を落としたのだ。
「あは、ははは。そうか、全て私が招いたのね」
きっと、計画が漏れたのだ。
これからの私の行いが、奴らに察知されたから、こうなった。
何を犠牲にしてでも、やり遂げようとは思った。
でも、あなたを犠牲にするつもりなんて、なかったのに。
「おお! ヘカーティアよ、無事だったか」
ベスタルの族長のしわがれた声が響く。
どこかに隠れていたのか、年老いた男が豪奢な刺繍のローブと宝石を纏って現れた。
「必死に守ろうとしたが、賊どもには多勢に無勢。ワシは敵わなかった。だが、ヘカーティア、お前さえいれば神聖なるベスタルは立て直せる!」
神聖だと?
奥院に足を踏み入れ、試練の間を通ってきたはずだ。
そこに刻まれた文面は、巫女の神字でもなければ、私たちの歴史を示すものですらない。
「今こそ、半島をベスタルが治める時! お前が女王として君臨すればよい。『遠くを見通す者』『
全ては偽りだった。
ここは元から『聖なる火の神殿』ではなかった。
誰かが建てた神殿を、私たちベスタルが塗り潰したのだ。巫女たちが身を焦がした火の正体は。お前たちの崇めていた火は――。
気が付けば、乾いた笑い声が漏れる。
奥院の瓦礫に、それが虚しく響き渡った。
「
族長の目が細まり、その奥に潜む欲望が透けて見える。
生き残った自分が勝者だと思い込んでいる。
……私がその役目を引き受けると信じ切っている。
「では、ヘカーティア、早速――」
「必死に守った、と言ったわね」
私はその醜く老いた顔を鷲掴みにして、膝をつかせた。
「なら、なぜ貴様は生きている?」
ベスタルの族長、私の父の顔が恐怖に歪む。
死が運命だとしても、わざわざその時を待ってやる必要はない。
今、ここで、終わりにしてやる。
――それが終わった私は振り返り、奥院を見据えた。
かつての輝きを失った聖なる火は、今や僅かな残り火でしかない。
だが、それで十分。その火種にも用途はある。
歴代の火守りの巫女たちの魂こそ、私の力となる。
「あなたたちも手を貸してね。ディアーナ、そして火守りの姉妹たち」
私の見通す先には、再会の約束が果たされる未来がある。だから、あなたは嘘つきなんかじゃないわ、リューファス。
そのために払う犠牲の大きさも、今はよくわかっている。
「でも、どうせ私が救った命だもの。私が守った地だもの」
呪われるがいい、滅びるがいい。
ベスタルの地も、諸侯たちも、愚かな亜人たちも。
死は救済ではない。お前たちに救いなど存在しない。
「聖なる火よ、お前こそが諸悪の根源。あの日、お前があの方を選ばなければ、こうはならなかった」
私は全てを呑み込んで、あの方に会える日まで、不死の女王として君臨してみせる。
そう、私こそが。