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第47話 (幕間)ヘカーティア⑥

 今思えば、これが一番幸せな時期だった。


 少しずつ自分のやりたいことが見えてきて、それが形になって。

 誰かに残したいもの、伝えたいことが日に日に増えていく。


 リューファス。

 淹れたての茶を無防備に口にしながら、話を面白おかしく語る自信過剰な男。

 そんな彼に困った表情をさせて、ちょっとした無茶を飲ませるのが何よりの楽しみだった。


 ああ、ここから先は思い出したくない。

 もう少しだけ、幸せな夢を。


 ――王が死んだ。


 そうだ、王が死んだ。

 あれこそが、運命の日だった。


 最期の日、全てを呪い滅ぼす黒龍フェアヘニングスが辺境に現れた。

 避けようのない強制力だった。

 運命の分岐を、何度も良い方へ捻じ曲げ続けた王は、ついに逃れられない滅びと対峙した。


「お願い、もう何もいらないから。私と逃げて」


 どれほど必死に引き止めても、リューファスは聞いてくれなかった。


「すべてが終わったら必ず迎えに行く」

「嘘つき! もう、困らせたりしないから! お願い、最後の我儘だから」


 戦いに赴くことすら私にはできない。

 私がここを離れれば、私の子供たちが死ぬ。


 いったい誰の企みなのか。あまりにも、多くのことが一斉に起こり過ぎていた。


「私と今すぐ逃げれば、生き残れます。国は滅びるでしょうが、どうせあなたが死んだら終わるのよ、こんな国は!」

「仮に、余が死んでもそうはならん。積み上げてきたあらゆるものが、必ず応えてくれる」


 言葉は、虚ろに響いた。

 そうならないことを、私は知っていたから。


 リューファスの瞳には、けして揺るぎない決意があって。

 ああ、何と傲慢なのだろう。自分の信頼に相手が応えることだけは、疑うことすらしない。


 自ら選び抜き、鍛え上げた者たちが未来を築くと信じている。


「応える? 本当にそう思っているの?」

「フフ。ヘカーティア、そなたの茶席での『お願いごと』は、一度として嫌だと思ったことはなかったぞ」

「違う。今、欲しいのはそんな言葉じゃないの」

「託せる相手がそなたでよかった。やはり、余の目に狂いはなかった」


 彼は、少年のようないつもの笑みを浮かべて言った。

 私はあまりに多くの感情が絡み合い、何も返せなかった。


 国が保たれたのは、わずかな一時。

 心の奥で何かが壊れる音がした。


 王剣セレスティンは輝きを失ったものの、石像と化した王の魂を封じ込め、かろうじて命を繫いだ。

 だが、愚かな家臣たちが希望を打ち砕いた。


 奴らは王剣セレスティンを砕き、王の蘇生を阻むばかりか、その力を奪おうとした。


 偽王が現れ、雷鳴の騎士団は殺し合いを始めた。

 呪詛に汚染された領土と、諸侯たちの野心が混沌を深めていく。


 託されたというのに。あの人から、この国の未来を託されたというのに。


「絶対に許さない、あの人の心を裏切るなんて」


 報復は後だ。石像まで砕かれれば、復活の望みは完全に消える。

 必死に隠す方法を考えねばならなかった。


 駆けつけてくれたディアーナと、王の術士アルテナだけが味方だった。

 アルテナは気に入らない女だったが、王の安全を守るという一点で、私たちは手を組むことができた。


「剣の欠片を確保しました。僅かですが、貴女にも託しましょう」

「へえ、それはなぜかしら?」


 殺して全て奪ってやろうか。そんな考えが、一瞬頭をよぎった。

 だが、アルテナは私の感情など些事だと言わんばかりに、静かに答えた。


「独占すれば、貴女は敵となる。しかし、これを分け合えば、異なる方向から事に当たることが最善だと、理解できるはずです」

「本当に不愉快な女ね。いいでしょう、ただし石像の安置場所は私が決めます」

「承知しました。呪詛汚染の深い東方こそが、捜索者たちの死角となるでしょう」


 最初から用意していた策だったのか、アルテナはあっさりと石像を私に託した。


 結果、私の手元に残ったのは、王剣のほんの欠片だけだった。

 この僅かなセレスティンの欠片を、何かで繋ぎ合わせていくしかない。


「ディア、お願い。神殿でこれを形にして。聖なる火なら、少しは望みがある」

「……ヘイティ。私の力では不完全な復元になるわ、余分な力が入り込んでしまう」

「それでいい。私は……これからの準備をしなければ。信じられるのはあなただけよ」


 その時のディアーナは何を見たのだろう。

 何かを言いかけて、結局は黙って頷いた。王剣の欠片を握りしめ、他の巫女たちと共に去っていった。


 私が妨害を退け、計画を整えた時には、『聖なる火の神殿』は襲撃を受けていた。

 騎士団でも諸侯でもない。兎人を筆頭とする亜人種の賊たちが襲ったのだ。


 機能を失った試練の間を駆け抜け、私は走った。

 見知った者たちの亡骸を横目に、聖火の奥院を目指す。


 そこで横たわっていたのは、ディアーナだった。

 折り重なるように、互いを庇いあう火守りの姉妹たちが血に染まって倒れていた。


 耳障りな音が鳴り響く。

 それが自分の喉から漏れる悲鳴だと気づくまで、永遠とも思える時が流れた。


「なぜ? どうして? ディアーナ!」


 いや、違う。

 わかっていたはずだ。ベスタルの神殿はいずれ滅び、その時、姉妹たちは皆死ぬことを。


 だが、まさかそれが今だとは。何が引き金となったのか。

 私は何を変えてしまったのか。


 冷たくなったディアーナに縋りつくが、あの明るい笑顔は二度と戻らない。

 遺体には何かを守ろうとした痕跡だけが残り、腕は切断され、奪われていた。


 ――王剣の欠片だ。

 ディアーナは剣を復活させようとしていた。

 不完全でも、形になった剣を私に託そうとして、命を落としたのだ。


「あは、ははは。そうか、全て私が招いたのね」


 きっと、計画が漏れたのだ。

 これからの私の行いが、奴らに察知されたから、こうなった。


 何を犠牲にしてでも、やり遂げようとは思った。

 でも、あなたを犠牲にするつもりなんて、なかったのに。


「おお! ヘカーティアよ、無事だったか」


 ベスタルの族長のしわがれた声が響く。

 どこかに隠れていたのか、年老いた男が豪奢な刺繍のローブと宝石を纏って現れた。


「必死に守ろうとしたが、賊どもには多勢に無勢。ワシは敵わなかった。だが、ヘカーティア、お前さえいれば神聖なるベスタルは立て直せる!」


 神聖だと?

 奥院に足を踏み入れ、試練の間を通ってきたはずだ。

 そこに刻まれた文面は、巫女の神字でもなければ、私たちの歴史を示すものですらない。


「今こそ、半島をベスタルが治める時! お前が女王として君臨すればよい。『遠くを見通す者』『女救世主ソテイラ』『夜警の女神』……そうとも、ワシが必死にここを守った甲斐があったというものだ」


 全ては偽りだった。

 ここは元から『聖なる火の神殿』ではなかった。

 誰かが建てた神殿を、私たちベスタルが塗り潰したのだ。巫女たちが身を焦がした火の正体は。お前たちの崇めていた火は――。


 気が付けば、乾いた笑い声が漏れる。

 奥院の瓦礫に、それが虚しく響き渡った。


女救世主ソテイラ、ね。いい響きだわ。まるで、私が全てを救えるかのよう」


 族長の目が細まり、その奥に潜む欲望が透けて見える。

 生き残った自分が勝者だと思い込んでいる。


 ……私がその役目を引き受けると信じ切っている。


「では、ヘカーティア、早速――」

「必死に守った、と言ったわね」


 私はその醜く老いた顔を鷲掴みにして、膝をつかせた。


「なら、なぜ貴様は生きている?」


 ベスタルの族長、私の父の顔が恐怖に歪む。


 死が運命だとしても、わざわざその時を待ってやる必要はない。

 今、ここで、終わりにしてやる。


 ――それが終わった私は振り返り、奥院を見据えた。

 かつての輝きを失った聖なる火は、今や僅かな残り火でしかない。


 だが、それで十分。その火種にも用途はある。

 歴代の火守りの巫女たちの魂こそ、私の力となる。


「あなたたちも手を貸してね。ディアーナ、そして火守りの姉妹たち」


 私の見通す先には、再会の約束が果たされる未来がある。だから、あなたは嘘つきなんかじゃないわ、リューファス。


 そのために払う犠牲の大きさも、今はよくわかっている。


「でも、どうせ私が救った命だもの。私が守った地だもの」


 呪われるがいい、滅びるがいい。

 ベスタルの地も、諸侯たちも、愚かな亜人たちも。

 死は救済ではない。お前たちに救いなど存在しない。


「聖なる火よ、お前こそが諸悪の根源。あの日、お前があの方を選ばなければ、こうはならなかった」


 私は全てを呑み込んで、あの方に会える日まで、不死の女王として君臨してみせる。

 そう、私こそが。

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