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第56話 生き残った者の気持ち

「……メッツァくん、きみは本当に……うう、バカぁ」


 途切れがちな声とともに、コレーは悔しげに唇を噛んだ。

 先ほどまでの威圧感は消え失せ、残されたのは、ただ幼い悲痛な響きだけ。まるで、大切な宝物を失った直後のように、覚束ない口調。


「わたくしたちは、ただ、ヘカーティア様の意思を継ぎたかっただけなのに」


 リューファスは、そんなコレーを静かに見下ろしていた。瞳には、憐憫ともつかない複雑な感情が宿る。


「コレー。余は妻の想い、願い、そして罪。その全てを背負っていかねばならぬ。故に『聖杯』を渡す訳にはいかぬ」

「……放り投げて、押し付けたくせに」

「あの時は、あれが最善だったと信じている。批判は本人以外からは受け付ける気はない」


 メッツァは眉間にしわを寄せた。

 さすがに「妻に聖杯を放り投げて、押し付けた」と言う話は聞いていない。思わず、説教をしてやりたくなったが、空気を読んで何とか沈黙を保った。


 しばらくの間、じっとリューファスを見つめていたコレーだったが、力なく首を振った。


「……わかりました。今もなお、あの忌まわしき『聖なる火』が、あなた様と共にあることは理解しています。ですが、諦めたわけではありません。ベスタル家は、必ず聖杯を取り戻し、あなた様を、しかるべき場所に導きます」


 再び従者たちに視線を送った。黒装束の一団は、粛然しゅくぜんと部屋から出て行く。ダムとディーに酷似した女たちも、忠実な人形のように後に続く。

 最後に、コレーはリューファスを見つめた。


「それでは、失礼いたします。しかし、遠からず、またお会いすることになるでしょう」


 そう言い残し、コレーは黒犬を連れて部屋を出て行った。扉が閉まると、部屋には再び静寂が訪れた。


 メッツァは大きなため息をつき、椅子に深く腰掛けた。


「ああ、本当に疲れた。なんとか、丸く収まった、か?」


 張り詰めていた空気が、ようやく緩んだが、冷汗がまだ止まらなかった。自分が生き残った実感が遅れてくる。


「……メッツァ」

「ああ? なにさ」


 語り掛けてくるリューファス。返答には、つい棘が生えた。

 部屋には穏やかな空気が流れているものの、メッツァの心臓はまだ少しだけ早鐘を打っている。


「礼を言う」


 彫刻のように端正な顔立ちが、わずかに和らいでいた。素直に礼を言われたのは珍しい。だが、それでも先に立つのは怒りだった。

 ここまで素直に礼を言われたのは、あまり記憶にない。

 しかし、それを踏まえても、先に立つのは怒りだった。


「そう思うなら、少しは慎重に行動しろよ。バカじゃないの? きみは命を捨てて戦う覚悟があるかもしれないけど、僕にはそんなのまっぴらだ!」

「しかし、ヘカーティアは余に聖杯を返すつもりでいたのだろうか。改めて問われると、わからぬものだな」

「僕の話、ちゃんと聞いてよ! そんなの、僕が知るわけないでしょ。自分の奥さんのことくらい、自分で考えて?」


 死者の気持ちなど、正直、メッツァにはわからないことだった。自分が生き残るために、どちらかを諦めさせるしかなかったからこそ、言葉と論理を尽くしただけだ。

 メッツァはさらに言葉を重ねようとしたが、リューファスの視線が窓の外に向けられていることに気づき、言葉を飲み込んだ。


 リューファスは、遠くアイアンウッドの森を見つめていた。その表情は、先ほどの威圧感とは打って変わり、どこか遠い場所を見ているようだった。


「……そうだな、余が考えるべきことだった」


 リューファスの声は、和やかで、確かな重みを伴っていた。


「気高く聡明で、そして……折れることを知らない女だった。己にも厳しく、なにかと説教臭くて素直ではない女だ」


 紡がれる言葉には深い敬意と、失われたものへの哀惜が込められている。


「――だが、強すぎる故に、孤独だったのかもしれぬ」


 リューファスはふっと息を吐いた。窓から差し込む光が、その横顔に陰影を落とす。


「全てを一人で背負い込もうとした。余にさえ、弱みを見せようとはしなかった。責任感が強いことなどわかっていたはずなのにな」


 言葉を聞きながら、メッツァは静かに息を吐いた。


(先祖の惚気話ってどんな顔すればいいのさ。……喪中の夫に、あまりキツいことも言うのもな)


 客観的に見れば、そういう話なのだ。

 古き英雄であると言うフィルターを外し、素朴に捉えれば、妻の理解が不足だった男の悔恨。そして、その遺品をどう扱うか、と言う話なのだ。


 そして、そうでしかないことを理解しているのは、この世界でメッツァだけだった。


「……余は、もっと早く気づくべきだったのだ。余の言葉がどれほど、あの女を縛るかを。残されたのは、背負わせた罪と為した功績。犠牲の果てに託された、この王の証レガリアだけだ」


 だからこそ、リューファスは残りの一生を、妻と向き合うためにも使うつもりなのだろう。

 窓から差し込む陽光が、リューファスの金髪を照らし、横顔を一層際立たせていた。刻まれた左頬の呪痕と、変色してしまった銀眼が、背負ってしまった宿業を現わしている。


 やがて、メッツァは頭を搔いてから、作業机へと歩いた。


「なら、これからの人生は、『生き残った者』の気持ちを考えて生きるんだね」


 そう言い残し、再び論文の執筆に取り掛かった。カリカリとペンを走らせる音が響き渡る。それもまた、メッツァなりの死者への向き合い方。


 決して、なかったことにはしない。たとえ、ありのまま世に出ることがなくとも。


 この目で見たこと、この手で触れたこと、そして何よりも、ヘカーティアという存在が確かにそこにいたことを、何らかの形で後世に伝えなければならないと思っていた。

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