実際のところどう転んでも、リューファス王の妻にお飾り者など、存在しえなかった。侍女はヘカーティアの髪を結いながら、改めてそう思った。
貴重な香油が惜しみなく使われ、手入れされていく髪は、気品と温かみのある独特な甘い芳香をあたりに漂わせる。
それは古来より儀式に用いられてきた神聖な乳香であり、元巫女であるヘカーティアに相応しいと、侍女は考えていた。
「一番、まともなのが私ね。先が思いやられるわ」
侍女は、王妃の独り言に苦笑を禁じ得なかった。
敬意が不足しているのではないか、と責めるような眼差しを向けられたが、恐れは見せなかった。ヘカーティアを幼少の頃からを知る身の上であればこそ、許される境界線は把握している。
とはいえ、それはあくまで侍女の一方的な認識に過ぎないのだが。
「おや、ヘカーティア様は、ご自身が平凡だと思われてらっしゃるのですか?」
「自分が平凡とは思っていないわ。私が己を平凡と呼称するのは、他の巫女たちへの侮辱だもの」
自信過剰とも聞こえる物言いは、一切の誇張を含んでいない。
彼女と並べば、巫女たちはすぐに恐れ多いと引き下がるだろう。巨人を杖で殴り殺せるような女と同列にされるのは、誰だって勘弁して欲しいものだ。
「ただ、自分が狂人の側ではない、と思ってるだけよ」
そう言いながらも、ヘカーティアは目を細めた。未来を覗こうとしている時の所作であるのかもしれないが、余人には理解し得ない。
「――狂人、ですか?」
「ええ、我が王は、女の趣味がよろしくないわね。選ばれた誰もが、何かに突出し過ぎているし、足並みをそろえるには向いていない。各々が独自の観点で世界を見ていている」
侍女は、聞いた言葉があまりにもそぐわない内容だと顔を顰める。声には呆れすら混じった。
「ヘカーティア様、それほど冷静に仰るのは結構ですが。リューファス王に見初められて、王妃となったからには、ご自身だけがその例外であると思うのは、都合が良すぎるのではありませんか?」
皮肉を込めて言うと、ヘカーティアは軽く眉を上げた。
「あら、度胸のある貴女を侍女にしたのは誰かしら?」
「わたくしめを推薦してくださったのは、専属術師のアルテナ様ですね」
侍女が応えると、ヘカーティアは思い出したくないことでもあるのか、顔を背けかけた。しかし、「手入れ中ですので、動かされぬよう」と注意すると大人しく従う。
「はあ。侍女にしては随分と辛辣ね。まあ、否定しないわ。むしろその狂気こそが、今の王国を支えているのだと思う。あるいは、それが崩壊を招く種火となるかもしれないけど」
予言めいた言葉が、ヘカーティアの口を突いて出た。
それは侍女にとっても、事実でしかなかったので訂正する必要もなく、目を伏せて役目に集中した。
この役目を果たすのは侍女にとても楽しいことだった。
リューファス王は妃たちに公平であり、誰かと逢瀬を過ごせば、次は別の妃のもとへ赴く。侍女はそれを察し、次の準備を整えた。
侍女は耳が早く、そのたびに季節の花や、流行の服を用意する。
特に、王妃のために似合うドレスを用意することには熱心だった。時折、自ら縫い合わせることがあるほどに。気に入った相手を着飾るのは、この侍女にとっては本能のようなものだった。
「着飾ったって、あの男は別に喜ばないでしょう」
「いえ、ヘカーティア様はわかっておられません。王が美しいと褒める時は、心の底から感じてる時です」
「そう、かしら」
信じてはいないが、悪い気はしない。
王妃ヘカーティアは、まだ自覚はないが、リューファス王を深く愛している。初めて芽生えた感情に名前をつけることすらできないほど、彼女は世間知らずだった。
ヘカーティアは遠見の術を有していたが、王が他の妻とどのように過ごしているのか、それをひどく知るのは嫌がった。
仮にそうしていれば、侍女が耳聡くある必要性などなかったし、感情に向き合う時間もあっただろう。
「ふう。まあ、いいわ。貴女には助かっているのは事実だし」
「あら、そうでございますか。それはなによりです」
「……あの男が、私をないがしろにしない限りは、あなたの役目もなくならないわよ、きっと」
珍しく王妃がそんなことを言ったから、一つ、興が乗った。
王の心が離れるかもしれないと、無意識に気に病んでいるらしい。その癖、恋愛物語を読みながら、「この気持ちは愛でも恋でもないわ」と己に言い聞かせているのだから、侍女としては失笑ものである。
「そうですね、でしたら一つ、お約束いたしましょうか」
「なに、その気味の悪い顔」
「これから先、王がヘカーティア様をないがしろになさるまでは。わたくしは、王妃殿下の侍女としての役目を全うし、働かせていただきましょう」
「……なんて意味のない約束」
冷めた返答が、ヘカーティアから返って来た。王妃として寵愛を失い、立場を失えば、この侍女がいる意味もないのは当然のこと。そう考えたのだろう。
「意味のない、ですか」
しかし、侍女は小さく笑った。
「いいえ、ヘカーティア様。意味のないことなど、何一つありません」
侍女の言葉に、ヘカーティアは興味を示した。過去に投げかけられた言葉にひどく似ていた気がしたから。
まるで、ヘカーティアの『眼』には見えぬものが、侍女には見えているかのような言葉。
「――ほう。では、私とお前とのその『お約束』には、どのような意味があるのかしら?」
「そうですね。もし、これから先、ヘカーティア様がリューファス王とお会いしたいと、願う時が来たら。必ず、わたくしめが叶えて差し上げましょう」
ヘカーティアは、侍女の言葉の意味を反芻した。リューファスと再び会いたいと願う時が来たら、必ず叶える。
一見、侍女の忠誠心からの言葉でしかないようにも聞こえる。
しかし、侍女の纏う空気がどこか神秘的で、琥珀の瞳孔が囁くように揺らめいてくるものだから。
「……どういうこと?」
思わず、ヘカーティアが問い返すと、侍女は微笑んだ。
反射的に、ヘカーティアは目を細めたが、すぐに痛みを感じて、「うっ」と声を漏らすと閉じた。幸い、痛みはすぐ消えたが、同時に自分が何をしようとしたのかすら、ぼんやりとしてしまった。
「そのままでございます。ヘカーティア様が、その時まで、この気持ちを覚えていてくださるならば。わたくしめは、必ずお役目を果たしましょう」
残った侍女の言葉は、まるで謎かけのようだった。
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紡ぐもの――アラクネの女王クロトは静かに目を開いた。
悠久の時を生きるクロトにとって、過去も現在も等価に体感できる鮮明なもの。あの時の匂い、熱、感触。それらは決して色あせることなく、瞼の裏に常に刻まれている。
なかでも、ヘカーティアの侍女として過ごした時間は、一際、鮮明に残したもの。お気に入りの一編。
ちょうどその時、眷属のマフェットが遥か彼方より、跪いて報告を届けた。クロトは静かに応じる。
「そうか……。ヘカーティアは、満ち足りて逝ったか」
ヘカーティアは、己の言葉を忘れなかった。
そして、美しく未来を紡いだ。ディアーナの献身とともに、見事な未来を織り上げて。
思えば、ヘカーティアはリューファス王との未来に心を奪われ、ディアーナはその未来のために苦心した。
この二人の献身の果てが、クロトが眼にした物語の結末であった。破滅の先に、正しく『痕』を残したのだ。
「クロト陛下も、ご満足されましたか?」
どうやらマフェットは、どこか遠くの豪勢な屋敷の一室で、母なるわが身に語り掛けているようだった。
姿見の鏡を、報告する相手に見立てている辺り、洒落が聞いた眷属だとクロトは嗤う。敬意よりも、様式美と言うものに価値を置くところは嫌いではなかった。
「ああ、満足だ。ヘカーティアは、最期までヘカーティアであった」
介入しなかった場合の歴史と比べて、大きく変わった。
最初は、偶然にも『眼』が合った幼子に気まぐれに声を掛けてみただけだったが、その言葉が導いた先に、今の未来があったのは、まさしく人の為せた奇跡だった。
「人間の視野は狭い。未来を読む『眼』を持とうとも、映る筋書きには語られぬものがあるのだ」
クロトは思う。どんなに優れた眼を持っていたとしても、容易く自己を規定できるほど、人間は賢明でもなければ、広い視野を持つ存在でもない。
意識の外にあるものを、認識することはできないのだから。
「その矮小な脳如きで、己を理解できると思うほど、我が身を小さきものと捉えてしまうのは、余りに哀れよな」
本来の歴史のままなら、ヘカーティアは王妃とならず、新たな神格として顕現しただろう。それでも、クロトとしては問題はなかった。せいぜい、半島が犠牲になるだけに過ぎない。
世界と共に、燃え尽きようとしたヘカーティアの成れの果ても、また美しかっただろう。
――ただ、少し。そう、ほんの少しだけ。
ヘカーティアを自ら着飾ってやる方が、愉しそうに思えた。その程度の戯れだった。
最期に、目を掛けた者が、燃え尽きるように逝く様は、感傷と呼ぶに近い感覚をクロトに与えてくれた。
「揺らめく炎に焦がれる蛾のようだと、いつかお前は言っていたな。しかし、身を灼き真っ赤に燃え上がることは、愚かしいようで、なにより似合っていたぞ」
口惜しいことに、クロトには、その燃え尽きる姿が、自ら縫ったドレス以上にしっくりと馴染んでいるように思えた。
なんと、心地の良い敗北感か。王の心を最も射止めたドレスは、ヘカーティア自身の生きざまだった。ああ、悪くない。と、何度もクロトは頷いた。
「ふふ、さあリューファスよ。神々の加護を跳ねのけし愚者よ、今度はお前が紡ぐ番だ。ヘカーティアが繋いだ未来を、台無しにすることだけはしないでおくれよ」
呟きは、虚空に溶け消えた。残されたのは、静寂と、クロト自身だけ。
クロトは琥珀の瞳を光らせると、悠久の時の中で再び糸を紡ぎ始めた。その糸は、複雑に絡み合い、様々な模様を描き出す。それは、まだ見ぬ未来の姿。
ヘカーティアが繋いだ未来の糸を、リューファスがどのように紡いでいくのか。
クロトは、今度はそれを楽しみにすることにした。