石壁の亀裂から、微かな粉塵が床に舞い落ちる音だけが聞こえる。
リューファス王の激昂に、胸が騒ぐ。それは恐怖心ではなかった。
「つまらない女」と評されたことへの怒りよりも、それを否定しきれなかった自分に、心が保てなくなりそうだった。
……そして、「もっと気概のある女を探す」と投げつけられた事実は、想像以上に私を抉った。
王に求められた私は、何を成すべきだったのか。答えは、まだ見つからない。
だが、確かなことがひとつある。私をベスタルから解き放てるのは、他の誰でもない。私自身なのだ。
その時、ディアーナが部屋にそっと入って来た。
いつも明るい彼女の顔に、今は不安の色が浮かんでいる。
「ヘイティ……大丈夫?」
ディアーナの小さな声が、やけに大きく聞こえた。
ゆっくりと顔を上げ、微笑みかけたつもりだった。でも、どこか引き攣っていたかもしれない。
「大丈夫よ。ありがとう、ディア」
声が震えてしまったが、ディアーナは何も言わなかった。
ただ、そっと手を握り返してくれる。その温もりが、今の私には救いだった。
思い出すのは、巫女として幼い頃から叩き込まれた戒律と義務。視えた未来を特等席で告げるだけで評価された人生。
それら全てが、私を縛り付けているように思えた。
そして今、縛り付ける鎖を断ち切る機会が、目の前にあった。
「……ディア。私は王を追うわ」
ディアーナの目が驚きに見開かれた。
「え? ヘイティ、何を――」
「私の意志を伝えなきゃ。私がどう生きたいかを、決める日が来たの。どんな運命だろうと、逃げるのはもうやめたい」
ディアーナはしばらく黙っていたが、やがてその顔に理解と決意が浮かんだ。
「わかった。行ってらっしゃい、ヘイティ」
ディアーナの暖かさに背中を押され、私は一歩踏み出した。
さらに何か、呟きが聞こえた気がしたが、もう振り返ることはできなかった。
息を乱して、廊下を駆け出す。
王がどの部屋に向かったかは知らない。その堂々とした足音だけが頼りだった。
去りゆく背に、思わず声を張り上げる。
喉から出たのは、意志を超えた叫び。生まれて初めて出すほどの声量。
「待ってください!」
私は今、得体のしれない熱い何かに衝き動かされ、その感覚に身を委ねている。
それは聖なる火の意思でも、巫女としての役割から来るものでもない、全く別の衝動。
彼はゆっくりと振り返った。瞳には失望の影が未だ宿っている。
「何か用か? この話は無しにする、と言ったはずだが」
息を切らせながらも、王の行く手を阻む。ここから先へは行かせない。
汗ばむ手のひらで拳を握り締め、視線は逸らさない。
「私の気持ちを伝えるために来ました」
「余は、もはや言葉遊びに興味はない」
「ならば、話がつまらなかったなら。ここで私を殺してください」
どうにか引き止めようと、口をついて出た言葉に、自分が驚く。なりふりなど構っていられない。今はただ、言葉を交わす機会が欲しい。
王は一瞬、目を細めた。驚きか、それとも侮蔑か。その真意は、読めなかった。
「……許す。気が済むまで話してみろ」
王は一言一句聞き逃さないと言うように、向き直る。私の戯言を本気で受け止めたのだ。
喉を鳴らしてから、私は思考を整える間もなく言葉を吐き出した。
「私がここで、一生を終えることを望んでいると思いますか? 貴方に『気概のない女』と見下され……つまらない女だと思われたままでいることを、私が受け入れてこのままずっと?」
意思に反して、言葉を詰まらせてしまった。
口にするのすら、ひどく恐ろしかった。
死ぬことよりも、恐ろしい未来がそこにあった。
「本当は……ベスタルなんか、大嫌いっ。火に焚べられる生き方なんて、まっぴらごめんだわ。姉妹が焼けただれる姿も、もう見たくない。未来を告げ、ひれ伏されるのも、巫女として生きるのも、全部嫌!でも、他の生き方なんて知らない……わからない、怖い、どうしようもないのっ!」
震える手を隠すように両手を組み、リューファス王を見つめる。ああ、見られてる。こんな哀れな姿すら目を逸らしてはくれない。
でも、話し終えるまで、彼は間違いなく私だけを見ている。
心臓が高鳴り、言葉を継ぐのさえ苦しかった。
でも、このまま見送るわけにはいかなかった。もう、二度と会えなくなるのだから。
「どうせ燃えるなら、大切な人を導く松明で在りたいの。巫女たちが囚われるのではなく、誇り高く生きられるように。自分を燃やす火は、せめて自分で選ぶんだ。それがだめなら、こんな土地焼き払ってしまいたいっ!」
一息で、思いの丈をぶちまけた。
訪れた静寂の中で、私は自分が何を口にしたのかを反芻する。
(絶対だめだ、失望された。……これ以上ないくらいに)
リューファス王は深く息を吐き出した。唇の端に笑みが浮かぶ。それは、幼子を見るような、優しい色を帯びていた。
「とんでもないことを言う。誰かに聞かれたらどうする?」
王の声から、怒りや苛立ちは消え失せた。穏やかな、せせらぎのようですらあった。
「今のが、そなたの望みか」
「わからない。込み上げてきたものを全部口にしただけなの」
「そうか。つまらなかったら殺せ、と言ったくせに『わからない』、か」
「ねえ、巫女を捨てた私に、本当に価値がある? ただのお飾りじゃなく、統治者としての能力が必要だなんて。でも『こんなはずじゃなかった』なんて、貴方には言わせたくない」
仮に予知で何が起こるかが視えたとしても、それを具体的な方策に落とし込むのは容易ではない。
私の気持ちがどうあれ、王の妃と言う役割を果たせる保証はなかった。
「なぜ、素直に不安があると言わなかった」
「わからない、けど。きっと、貴方から失望されたくなかったから、だと思います」
「他人に弱い自分を見せたくない。本音で話すのも、恐ろしいか。まあ、なるほどな」
なんとか取り繕うとする私を、リューファス王は妙に見透かしてくる。
こんなに、人生でわからないなんて言ったのは、初めてだ。
「少しは、余を信じろ。こう見えても、人を動かすのは得意な方だ。そなたが力を発揮できるよう、きちんと整えよう」
「それでも、失敗したら?」
「それも余の責任だ、共に背負うとしよう。なんだ、その顔は。妻を見捨てるような男に、誰がついてくる? それが器量というものだ、万が一の時は隣にいればそれでよい」
言葉は優しい。
だが、どこかその底に計算高さを感じてしまうのは、私の邪推なのだろうか。
「他の妻となった女たちにも、そのような言葉を掛けたのですか?」
「……よせ。そこはあまり深堀するな」
「ふふ、やっぱりそうなんでしょうね」
私は王のわずかな表情の乱れを見逃さず、軽く笑った。
ようやく勝った気がする。けれど、どこか虚しい。
そうだ、この人には、既に3人の妻がいる。
どんな条件での婚姻かは知らないが、この男が選んだ以上、全員が只者ではないはずだ。
「フム、そなたは一筋縄ではいかぬ女だな」
リューファス王は眉間に皺を寄せ、しかしその口調には嫌悪ではなく、むしろ感心の響きがあった。
「わかった。事前にそなたに了解を得なかったことは、悪かった。謝罪しよう。婚姻の了解を改めて、そなたから直接得たい」
謝罪と譲歩。この人に、ここまで言わせたなら、私は満足するべきなのだろう。
「お答えする前に、少し化粧を直してもいいかしら? ……退屈ではない女をお望みだったなら、ちょうどよかったでしょう」
私は静かに尋ね返した。
声は震えず、むしろ落ち着き払っていた。
感情を曝け出した後の、不思議な清涼感が私を支えている。
今、深く考えたら、羞恥心にうずくまるかもしれない。でも、これ以上の失態は見せたくない。私にも意地と言うものがある。
「退屈、か。余は、妻を選ぶことを余興とは思っていないぞ。少し出直して、後ほど花束を用意してから尋ねに行く」
「ならば、私もいつものようにお茶を用意しましょう。それが退屈でないかどうかは……貴方が決めることです」
「そなたとの茶会が退屈だったことは、一度もない」
私の声には、なお反抗心が残っている。
だが、心のどこかで、彼が自分を救い上げたように感じていた。
「ならば、証明してみせます。私は、自分の意思で生き方を決められる女だと」
もう、後戻りはできない。
運命が、どんな結末をもたらそうとも。
私はこの日から自分の意思で、生き方を貫くのだ。だって、今こうして約束したのだから。最期の瞬間までそうしてみせる。