妻が益州へ行くと言い出して、劉備は仰天した。
「だめだ! 女を戦場には連れて行けん!」
尚香は反発した。
「なぜですか? 女だからと言って差別しないでください。わたしは戦えます!」
劉備は絶句した。
会議室は静まり返った。誰もが劉備と尚香との対話のなりゆきに注目した。
「おれはおまえを死なせたくないのだ。おとなしく公安城で待っていろ!」
「わたしはただ待っているなんて嫌です。わたしだって玄徳様を死なせたくないのです。戦場でお守りします!」
「おまえに守ってもらう必要などない。おれには護衛がいる」
「わたしはその護衛の方より強いです!」
「馬鹿を言うな。関羽と張飛の息子たちだぞ」
「勝負させてください」
劉備は尚香の強情さに驚いたが、関平や張苞に勝てるはずがないと思った。
「関平、悪いが、試合してやってくれ。誰か、棒をふたつ持って来い」
尚香の武術の師匠、趙雲は彼女の上達ぶりを知っている。いい勝負になるかもしれない……。
尚香と関平は棒を持って対峙した。
「奥方様、手かげんなしでよろしいのですか?」
「もちろんです。真剣勝負でお願いします」
「では、腕の骨の一本くらいは折れる覚悟をしてください」
関平は打ちかかった。
尚香は棒で防ぎ、逆に攻撃してきた。鋭い突きで、関平を焦らせるほどの威力があった。
その攻防だけで、関平は尚香が容易ならぬ相手だと知った。
関羽や張飛らの達人も、見ているだけで彼女が相当の腕を持っているとわかった。
尚香と関平の試合はなかなか決着がつかず、延々とつづいた。少なくとも、尚香は関平と互角であることは明らかだった。
劉備は唖然とした。妻がこれほど強いとは思っていなかった。
「そこまでにせよ!」と劉備は叫んだ。もし関平が負けたら、関羽の息子に恥をかかせることになる。それは避けたい。
「玄徳様、連れていってくださいますね?」
劉備は弱り果てた。
「子龍、おまえの弟子を説得してくれ。試合はできても、戦場とはちがうのだと」
「尚香様は、心の強い方です。戦場でも戦えると思います」
「おまえまでなにを言うのだ!」
「玄徳様、師匠も太鼓判を押してくださいました。わたしを兵士として使ってください」
どうすればいいのだ、と劉備は悩んだ。連れていかざるを得ないとは思ったが、一兵士として前線に出す気にはなれなかった。
「おれの護衛をしろ、尚香。護衛役は、関平、張苞、尚香の三人とする」
211年、劉備の配下たちは、益州遠征の準備をした。
龐統は法正から益州の情報をよく聞いて、作戦を練った。法正は益州の地図を持っていて、それを提供した。益州の軍備などについても、惜しげもなく話した。
孔明は兵糧の準備をし、兵を動員し、公安城に集めた。
孫乾と伊籍は揚州へ行き、同盟相手である孫権に劉備軍が益州へ行くことを説明した。孫権は劉備が益州へ進出することを喜ばなかったが、同盟を破綻させるつもりはなく、反対はしなかった。
黄忠や魏延は、兵の調練に励んだ。戦争に勝つためには、強い兵が必要である。
そして、尚香はますます武術修行に熱心になり、趙雲をうならせるほどの槍の巧者になっていった。並みの兵士では、彼女にまったく太刀打ちできない。
あるとき魏延が、尚香に話しかけた。
「奥方様、武術と作戦、戦においてどちらがより大切だと思いますか?」
「それは、作戦でしょうね」
「では武術修行より、兵法の研究が大切ということになります」
尚香の目がきらりと光った。
「兵法を学びたいです」
「まずは孫子を読むことです」
その後、尚香は熱心に孫子を読むようになった。
劉備は妻が急に書物を読み始めたのを見て、不思議に思った。
「なぜ突然、孫氏などを読み出したのだ?」と尚香にたずねた。
「魏延様に勧められたのです」
劉備はこれ以上、妻が戦争に興味を持つことを好まなかった。
「魏延、よけいなことを言うな!」と部下を叱った。
「すみません」と魏延はあやまったが、彼と尚香はときどき兵法について語り合うようになっていた。
尚香の方が熱心に、魏延に兵法談義を持ちかけていたのだ。彼に罪はなかった。
劉備は苦笑しながら、黙認せざるを得なかった。
212年春、劉備軍は益州へ向かって出陣した。
船を集め、長江をさかのぼり、荊州南郡から益州巴郡に入った。江州県で船から降り、陸路で広漢郡へ進んだ。
広漢郡の涪城で、劉備と劉璋が面会する予定になっていた。
張松は法正へ手紙を出した。
涪城で劉璋様を殺すよう劉備軍の誰かに働きかけよ。
劉備様を成都城へ迎え入れられるよう手筈を整えておく。
そういう内容だった。