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第45話 出陣

 妻が益州へ行くと言い出して、劉備は仰天した。

「だめだ! 女を戦場には連れて行けん!」

 尚香は反発した。

「なぜですか? 女だからと言って差別しないでください。わたしは戦えます!」


 劉備は絶句した。

 会議室は静まり返った。誰もが劉備と尚香との対話のなりゆきに注目した。


「おれはおまえを死なせたくないのだ。おとなしく公安城で待っていろ!」

「わたしはただ待っているなんて嫌です。わたしだって玄徳様を死なせたくないのです。戦場でお守りします!」

「おまえに守ってもらう必要などない。おれには護衛がいる」

「わたしはその護衛の方より強いです!」

「馬鹿を言うな。関羽と張飛の息子たちだぞ」

「勝負させてください」


 劉備は尚香の強情さに驚いたが、関平や張苞に勝てるはずがないと思った。

「関平、悪いが、試合してやってくれ。誰か、棒をふたつ持って来い」

 尚香の武術の師匠、趙雲は彼女の上達ぶりを知っている。いい勝負になるかもしれない……。


 尚香と関平は棒を持って対峙した。

「奥方様、手かげんなしでよろしいのですか?」

「もちろんです。真剣勝負でお願いします」

「では、腕の骨の一本くらいは折れる覚悟をしてください」


 関平は打ちかかった。

 尚香は棒で防ぎ、逆に攻撃してきた。鋭い突きで、関平を焦らせるほどの威力があった。

 その攻防だけで、関平は尚香が容易ならぬ相手だと知った。

 関羽や張飛らの達人も、見ているだけで彼女が相当の腕を持っているとわかった。

 尚香と関平の試合はなかなか決着がつかず、延々とつづいた。少なくとも、尚香は関平と互角であることは明らかだった。

 劉備は唖然とした。妻がこれほど強いとは思っていなかった。

「そこまでにせよ!」と劉備は叫んだ。もし関平が負けたら、関羽の息子に恥をかかせることになる。それは避けたい。


「玄徳様、連れていってくださいますね?」

 劉備は弱り果てた。

「子龍、おまえの弟子を説得してくれ。試合はできても、戦場とはちがうのだと」

「尚香様は、心の強い方です。戦場でも戦えると思います」

「おまえまでなにを言うのだ!」

「玄徳様、師匠も太鼓判を押してくださいました。わたしを兵士として使ってください」

 どうすればいいのだ、と劉備は悩んだ。連れていかざるを得ないとは思ったが、一兵士として前線に出す気にはなれなかった。

「おれの護衛をしろ、尚香。護衛役は、関平、張苞、尚香の三人とする」


 211年、劉備の配下たちは、益州遠征の準備をした。

 龐統は法正から益州の情報をよく聞いて、作戦を練った。法正は益州の地図を持っていて、それを提供した。益州の軍備などについても、惜しげもなく話した。

 孔明は兵糧の準備をし、兵を動員し、公安城に集めた。

 孫乾と伊籍は揚州へ行き、同盟相手である孫権に劉備軍が益州へ行くことを説明した。孫権は劉備が益州へ進出することを喜ばなかったが、同盟を破綻させるつもりはなく、反対はしなかった。

 黄忠や魏延は、兵の調練に励んだ。戦争に勝つためには、強い兵が必要である。

 そして、尚香はますます武術修行に熱心になり、趙雲をうならせるほどの槍の巧者になっていった。並みの兵士では、彼女にまったく太刀打ちできない。


 あるとき魏延が、尚香に話しかけた。

「奥方様、武術と作戦、戦においてどちらがより大切だと思いますか?」

「それは、作戦でしょうね」

「では武術修行より、兵法の研究が大切ということになります」

 尚香の目がきらりと光った。

「兵法を学びたいです」

「まずは孫子を読むことです」


 その後、尚香は熱心に孫子を読むようになった。

 劉備は妻が急に書物を読み始めたのを見て、不思議に思った。

「なぜ突然、孫氏などを読み出したのだ?」と尚香にたずねた。

「魏延様に勧められたのです」


 劉備はこれ以上、妻が戦争に興味を持つことを好まなかった。

「魏延、よけいなことを言うな!」と部下を叱った。

「すみません」と魏延はあやまったが、彼と尚香はときどき兵法について語り合うようになっていた。

 尚香の方が熱心に、魏延に兵法談義を持ちかけていたのだ。彼に罪はなかった。

 劉備は苦笑しながら、黙認せざるを得なかった。


 212年春、劉備軍は益州へ向かって出陣した。

 船を集め、長江をさかのぼり、荊州南郡から益州巴郡に入った。江州県で船から降り、陸路で広漢郡へ進んだ。

 広漢郡の涪城で、劉備と劉璋が面会する予定になっていた。


 張松は法正へ手紙を出した。

 涪城で劉璋様を殺すよう劉備軍の誰かに働きかけよ。

 劉備様を成都城へ迎え入れられるよう手筈を整えておく。

 そういう内容だった。

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