李厳は白水関へ向かう前に、涪城に寄り、涪県令の費観に会っていた。
李厳と費観は、ともに劉璋を支える重臣で、仲がよかった。
「劉備殿と戦うよう命じられた」
そのとき李厳は、憂鬱そうな顔をしていた。
「気鬱そうだな。劉備殿と戦うのが嫌なのか?」
「正直に言って、気が進まないね」
「どうして?」
「私が益州へ来る前、荊州にいたのは知っているだろう?」
李厳は荊州で劉表に仕え、いくつかの県令を歴任していた。
劉表の死後、劉琮が戦いもせずに曹操に降伏するのを見て、嫌気がさし、益州へ逃げて劉璋の部下になった。
益州でも能力を認められ、成都県令に任じられた。
県令は、県の軍事もつかさどる。李厳は文武にすぐれた人であった。
「私は新野城にいたときの劉備殿を知っている。あの方だけは曹操に屈しなかった。立派な方だ」と李厳は言った。
「曹操が益州に攻めてきたら、劉璋様は降伏するだろうな……」と費観はつぶやいた。
「たぶんな」
「益州を守れるとしたら、劉備殿だけかもしれない。益州牧になったとしての話だが」
「劉備殿なら、敢然として曹操と対決するだろう」
李厳の憂鬱は、尊敬している劉備と戦わなければならないために生じている。
聡明な費観には、友人の心理が手に取るようにわかった。
「ではきみは配下の兵もろとも、劉備殿に降伏すればよいのではないか? そして彼を益州牧にしてしまうのだ」
李厳は驚いて、費観を見つめた。
「劉璋様の娘婿のきみが、それを言うのか?」
「娘婿など関係ない。益州の主として、劉璋様か劉備殿、どちらがふさわしいかだけが問題だ」
「明らかに劉備殿だ。器がちがう」
「では劉備殿に従ったらどうだ? 法正殿や張松殿は、そうすべきだと考えて、劉璋様を裏切ったのだろう」
李厳は暗い顔をし、ゆっくりと首を振った。
「戦いもせずに降伏するような人間にはなりたくない。それに私が率いているのは、益州に家族がいる兵士たちだ。彼らから見たら、劉備殿は侵略者。降伏したくはないだろう。私は戦う」
李厳軍は葭萌県を越え、白水関に近づいた。
戦いが近づくにつれ、李厳の表情はますます険しくなっていった。
「李厳様、顔が怖いですよ?」
副将の馬忠がそれを気にして、少しおどけて言った。
馬忠は明るく、物事を深刻に考えない性格だった。いまは目の前の戦いのことだけを考えている。劉備軍を討つ。
李厳はそんな馬忠の単純さを好ましいと思っていた。
「私はもとからこんな顔だ」
李厳はそう言ったが、その表情から少し険しさが取れていた。
「穏やかになられました。その方がいいです」と馬忠は言った。
劉備軍は白水関の南の平原で布陣した。
まもなく李厳軍が到来することがわかっている。
劉備は明るく微笑んでいた。
「殿、どうしてそんなに楽しそうなのです?」と龐統がたずねた。
「おれは常に寡兵で大軍と戦ってきた。今日の戦いの兵数は、ほぼ互角だ。そのような戦いをするのは初めてなので、うれしいのだ」
劉備は悠然として、馬に乗っていた。
「皆、存分に戦ってくれ」
彼の表情には緊張もなく、緩みもなかった。普段のままだった。
孫尚香は隣から夫の顔を見て、頼もしいと思った。
李厳軍が見えてきた。地平線を越えてくる。
劉備軍の先鋒の魏延隊が突っ込んでいった。
敵の先鋒、馬忠隊とぶつかり、激しくせめぎ合った。
黄忠が中軍を指揮して進んだ。
李厳はそれに呼応して、全軍で迎え撃った。
平原が戦いで満ちた。わめき声や悲鳴があちこちで響いた。
「張苞がいる場所がわかるな。さすが張飛の息子だ。そこだけ敵が逃げ惑っている」
劉備が言った。彼の左右には関平と尚香がいて、大将を守っている。
彼らの背後には、精鋭の親衛隊二千がいた。
「私も戦いたいです」と関平が気負いなく言った。
「わたしもです」と尚香も言った。彼女には前のめりな気配があった。
「落ち着いて戦いを見守っていろ。おまえは血の気が多すぎる」
「血の気が多くなんかありません!」
尚香が叫び、劉備は笑った。
戦闘は朝から始まった。
激闘が長時間つづいた。
正午を過ぎても、決着がつかなかった。
黄忠と魏延は懸命に押した。李厳と馬忠は必死で押し返した。
太陽が益州を囲む山脈に沈もうとしていた。
「今日はここまでかな」と劉備はつぶやいた。
尚香はふと、勝てそうだ、と思った。
「玄徳様、もうひと押しすれば、勝てると思います」
「なぜそう思う?」
「勘です」
「孫策殿の妹の勘か」
劉備は戦場を見渡した。彼には相変わらず互角の戦いに見えた。
「関平、どう思う?」
「私も、もうひと押しだと思います」
「そうか。関平、親衛隊を率いて、敵の中央を攻めてみよ」
「はい!」
関平は勇躍し、「私につづけ!」と叫んで、戦場へ駆けていった。
「わたしも行きます!」
「おまえは見ていろ」
劉備は尚香の突撃を止めた。やはり血の気が多い……。
李厳は、つらい戦いだと思っていた。
劉備軍は強い。指揮官が強く、兵も強い。
部下たちはよく戦っているが、限界が近い。
そろそろ引こうと考えていたら、新手が向かってきた。
ものすごい剛の者が率いていた。精鋭部隊のようだった。
その部隊に味方が蹴散らされた。敵の全軍が勢いに乗り、手がつけられなくなった。
ついに李厳軍は総崩れとなった。
馬忠が李厳のそばにやってきた。
「李厳様、負けましたね」
「ああ、負けた」
「逃げましょう」
「いや、私はここで討ち死にする。多くの兵を死なせた。おめおめと生きてはおられん」
「では、私も付き合いますよ」
ふたりは死ぬつもりで、最後の戦いをしようとした。
だが、彼らは死ねなかった。
関平と張苞が突進してきて、李厳と馬忠の剣を叩き落とし、ふたりを縄で縛った。
李厳軍の主将と副将が、劉備の前に連れてこられた。
「李厳殿、荊州で会ったことがあったかな」と劉備は穏やかに話しかけた。
「あります。話したことはありませんが」
「あなたのことはよさそうな人だと思っていた。どうだ、おれに仕えてみないか?」
劉備が居酒屋にでも誘うような調子で言った。
李厳はなぜか感動して、涙を流した。その言葉を待っていたような気がした。
「はい……」と答えた。
「そちらの若い人、きみもおれの部下にならんか?」
「いいんですか?」
馬忠は明るく、あっけらかんと言った。
劉備は、面白そうな若者だ、と思った。
「もちろんだ」
「お仕えします!」
「関平、縄をほどいてやれ」
李厳は関平の顔を見た。彼の軍にとどめを刺した剛の者だった。