母の退院が決まった。退院の日時は当然父親には伝えない。どこに転院するのかも知らせない。DVからの避難なので当たり前だ。
母は車いすのまま専用のタクシーに乗って老健、介護老人保健施設まで移動する。その費用7000円。地味に費用がかかる。病院代は3か月で100万円を超えた。「高額療養費」ってのを申請していたので、手術しようが入院しようが、上限が約6万円になるはずなのだが、「差額ベッド代」という部屋代は別なのだ。
この病院は全室個室で1日1万円なので、単純計算でも月に36万円かかるのだ。それが3か月分……。だいぶ財布が心もとない。相変わらず、仕事はないので生活費を考えるとかなり厳しい状況だった。
一応、ハローワークに行って「失業手当」を申請していたので、働いていたときの約6割のお金を毎月もらっていた。それだけが俺の収入。だいぶ追い詰められている気がする。
そんな折、家のポストに弁護士事務所から封筒が届いた。しかも、2通も! 別々の弁護士事務所から封筒が同時に2通も届くことってある!? めんどくさい予感しかしなかったが、開けるしかなかった。
まずは、1通目。
「親権譲渡通知書」
そう書かれていた。簡単に言うと、元嫁からの手紙だった。娘の親権を渡す、と。その代わり、養育費は払わない、というもの。
俺はこれを娘達に見せた。
「養育費はお父さんに払われるんじゃなくて、私たちの生活と教育に使われるお金なのに!」
妹、智恵理がぷりぷり怒っていた。
「まあ、正式に大手を振ってこの家にいられるってことで御の字かな……」
お姉ちゃんは大人の判断だった。
正直俺としては、カネはどうでもよかった。元嫁は、自分でいうことはなかったけれど、弁護士経由で親権を主張しないことを言ってきたのである。元嫁の性格を考えたらこんな相手の利益にしかならないことを自らいうことはない。それは娘達も分かっていたようだ。
「お母さん、どういう考えで親権を渡してきたんだろう?」
お姉ちゃんもそれを踏まえてつぶやいた。
「お父さんが私達を養いきれなくなって音を上げると思ってる……とか?」
智恵理もそうとう母親に良くないイメージを持っているようだ。
「もしかしたら、単に二人の幸せを考えて……かもしれないだろ?」
娘のことはかわいいと思ったのかな。
俺の考えに反して娘達二人がため息をついている。「絶対違う」って言ってるようなもんだな。
まあ、娘のことを考えてくれたに違いない。そういうことにしておこう。
「新しいお父さんは暴力を振るってきたっていってなかった?」
「あれをお父さんとか呼ばないで! 最初は擦り寄って来るみたいな感じで、べたべた触ってきて……ちぃちゃんはあからさまに嫌な顔してた……」
「だってあいつ、触り方がキモいし!」
散々な言われようだな。まあ、やってることは良くないけど。
「そのうち懐かないと思ったら手が出て来るの。例えば、一緒に出かけるって言い出して、忙しいって言ったら腕を強引に引っ張って……」
「抵抗したら叩く……みたいな」
いや、最悪だった。ダメじゃん。子どもかよ。
今日はこれで終わりにしたかった。それでも、別の弁護士事務所からの封筒がもう1通。こっちは普通サイズの封筒だから数枚の手紙ってところか。
「お問い合わせ」
なんだこりゃ。差出人は福岡市内の弁護士事務所のようだった。よくよく見ると依頼人は善福清司。俺の父親だ。
内容を見たら、翔子(俺の母親)を私(父親のこと)の知らない所に勝手に連れて行ったのは誘拐であり犯罪だ、というもの。
なんでも俺の行動は「面会する権利の制限」になっているのだとか。弁護士らしく、過去の判例のコピーも送って来ていた。
弁護士から手紙が来たら普通は驚くし、ビビるだろう。だけど、俺には怖いものが無かった。だって、カネもなければ地位もない。仕事もない。守りたいものは娘二人だけ。実に簡単だ。
俺は翌日に弁護士事務所に乗り込んだ。
「過去にあいつが何をしたか知ってる上でやってるんですか?」
談話室に通された俺は弁護士に聞いた。できるだけ冷静に話した。おねえちゃんと智恵理も一緒に来ると言って聞かないので3人で話したのもよかった。1人よりも3人。交渉ごとは人数が多い方が心情的に有利なのだ。
「しかし、お父様には面会する権利が……」
「DVからの避難だから、あいつに行き先を知らせないのは当然でしょ? 病院に入りこんだら病院に勝手な医療行為をしたり、病院で騒いだり、そのくせカネを払わなかったり……。あれは捕まってないだけの犯罪者ですよ? あなたの正義ではあれの手助けをするのが正しいのですか?」
「しかし、私の依頼人なので……」
忘れていた。弁護士とは正義の人ではない。カネさえ払えばどんな無茶でも依頼人のために動く職業だった。ここでお姉ちゃんが弁護士から送られてきた封筒を開いて中の手紙を出して言った。
「一緒に送ってきた判例って、兄妹げんかをした兄が妹が面倒を見ている母親に会いたいって起こした裁判の例ですよね? DV関係ないですよね? 今回の件とは的外れじゃないですか?」
「いや、これは……」
「過去の判例付けて送ったら、素人は訳も分からずビビりあがっていうこと聞くって思ったんですか!?」
「いや、あの……」
お姉ちゃん強い。プロの弁護士がたじたじだ。
「と、とにかく、熊五郎様の主張はお聞きしましたので、お父様にお知らせしておきます」
印象的にダメダメな弁護士だと思った。本当にカネのためにやってるんだろうなぁ。
「お姉ちゃん、智恵理、助かったよ。俺一人だったら弁護士に会うとか緊張して……」
「大丈夫! お父さんはお父さんだもん!」
「あの弁護士、絶対潰してやる……」
……智恵理さん、なんか物騒なことをつぶやきました?
〇●〇
帰宅後、弁護士からメールが届いていた。何か違和感があるメール。
『善福清司様 本日、息子様と面会させていただきました。……』
なんだ? すごい違和感。
「これ、お父さんに送ったらダメなメールじゃない?」
お姉ちゃんが俺のパソコンの画面を横から覗き込んで言った。
「これ、お爺ちゃんに送るはずのメール。依頼者と面会者を間違えて送ってる……」
智恵理の解説でようやくわかった。そういうことか。ポンコツだと思っていたが、ポンコツすぎる弁護士だったか……。中卒の俺でもこれはやったらダメだと分かるミス。
しかも、メールの中で俺のことを悪く言ってる。最悪だな。
「お父さん、私に任せて!」
お姉ちゃんがいたずらを思いついた時の顔をしている。
「……任せた」
返事を聞くや否や、お姉ちゃんがキーボードを取ってメールを書き始めた。
『優しさでお知らせしますが、クライアントに送るメールを面会者に送ってますよ。弁護士の能力としてどうなんですか? ついでに議事録を付けていたようですが、こちらが言ってもいないことが書かれていました。こちらはボイスレコーダーで録音していたので、事実と違う旨 あなたのクライアントに伝えましょうか?』
「ちょっと挑戦的じゃないかぁ?」
文面を呼んで不安になる俺。
「何一つ脅してないから恐喝にならないし、こっちは親切に間違いを教えてあげているんだから! はい、メール送信……っと!」
「あっ!」
送っていいっていう前にエンターキーを押して送ってしまった。そしたら、すぐに返事が返ってきた。
『大変申し訳ございませんでした。本来起こってはいけないミスが起こってしまいました。今後再発しないよう、細心の注意を払うようにいたします。大変申し訳ございませんでした』
平謝りのようだった。これで何かやらかしたら、やり返せるカードができたってもんだ。それにしてもポンコツ弁護士だ。今後も要注意かな。
とにかく気分が悪かった。
□□□ 母の近況
今日、生活保護の申し込みの結果が電話で出た。申し込みから約1週間。母は、父親に貯金通帳ごと取られて、一文無しだ。病院に入院中で、その入院費は俺が払うことになっている。とにかくお金が無い。だから、生活保護は出ると考えていた。
結果、「不採用」。
呆気にとられた。じゃあ、母はどうやって生きていけば良いというのか。
結果は、電話ではなく窓口まで言って聞かされた。結果を聞いたときは絶望していたが、担当の柞原さんが「境界層ってご存知ですか?」と聞いてきた。
俺は聞いたことが無い言葉だったので、ハテナが頭の上に浮かんだ。その表情を見て汲み取ってくれたのか、「こちらへどうぞ」とブースに案内してくれた。
「生活保護は出ませんでしたが、お母様の場合年金が入りそうです。そのため、施設代には若干足りないくらいの経済状態と判断されました。そして、足りるか足りないか、ギリギリラインの方が『境界層』なのです」
銀行口座を開けたことは柞原さんに伝えた。年金がその口座に入りそうなことも伝えた。もっとも、年金は2か月に1回しか振り込まれないのでまだ1回目の振り込みを確認していないけれど。それでもギリギリのラインではなく、足りないことを言いたかったけれど、俺は相手の言い分も聞く必要があると思って、柞原さんの説明が終わるまで大人しく聞いた。
退院したら自宅ではなく、ケアマネジャーさんが紹介してくれた「老健」に入所した。
単に「老人ホーム」という名前の施設は存在せず、「介護付き有料老人ホーム」、「住宅型有料老人ホーム」、「サービス付き高齢者向け住宅」、「グループホーム」など民間、公的なもの含めて8種類もあるらしい。知ってたか?
退院後に勧められたのが「介護老人保健施設」通称「老健(ろうけん)」だ。簡単に言うと、病院と老人ホームの中間みたいな施設で公的な施設だ。入院した年寄りが家での生活ができるようにリハビリなどを行うようなイメージと言ったら分かりやすいだろうか。
母の場合はこれに当てはまらないが、老人ホームはほとんど空いていないらしい。特に、年金で費用が収まる「特別養護老人ホーム」通称「特養(とくよう)」はほとんど空きが無く、100人待ちなどがざららしい。
「100人待ち」っていうのは、その施設を利用している人が使わなくなるってことなので、そういうことだ。人が死ぬのを待っているみたいであまり気持ちがいいものではない。しかし、申し込まないと入れないのもまた事実。
そんなこんなで、比較的空きが出そうな「老健」を押さえてもらっていた。
母の年金は1か月あたりで考えたら、手取り9万5000円くらい。そして、老健が12万円から13万円くらいかかるらしい。当然足りない。そして、老健は公的機関なので、割引を福岡市が申し込むとのこと。差額は市が払うのか、老健が割引してくれるのかは分からないが、とにかく、母の年金の9万5000円で生活できるようにしてくれる、と。
ただ、実際にかかる費用は人にもよるので実際に母を見てもらわないと金額が算出できないらしい。実際に生活してみて、実際に足りなくなってから初めて市は動いてくれるのだ。収入も支出も金額がふわっとしていて計算できないのが余計に不安になった。
生活保護はお金をもらえるのだと思っていたが、お金をポンと15万円くらいくれるのではないらしい。家賃のために最大36000円、食費にいくら、とある程度の使い道が決まっている。そして、家賃分は生活保護者対象者にもらえるのではなく、大家に直接振り込むのだとか。
ややこしい話だが、母の場合は施設に入って居住費、食費、生活費と切り分けが難しく、専門的な書類にはその内訳が記載されているらしい。そして、生活保護を渡すよりも「年金」+「境界層」という割引を併用した方法の方が楽な生活になるのだとか。
詳しいことは正直理解できなかったが、担当の柞原さんは良い人に見えた。その人が言うのだから信じてその「境界層」をお願いすることにした。当然、また役所で書類を書いて待たされる時間があったのだが……。
老人にもう少し優しくして欲しい。俺がいなかったら、母にこんな手続きやあんな手続きできるはずがないと思った。