部屋に戻ると、すぐにララが来て、
建物の中に入りながら「ずっとお湯が湧き出ているのよ。だから使用人の私達も毎日湯浴みができるんだよ!」とララが得意げに話してくれた。ちなみに、シリル専用の温泉は別にあるらしい。
桜は感心した。大量のお湯はどうやって沸かすの?とか、お風呂はどうしてるの?とか、思うところはたくさんあったから。だけどそうか、温泉か。トイレもすごく不安だったけど、驚いたことに水洗だったし。温泉の使い終わったあとのお湯を利用しているらしい。下水も整っていて、衛生面もしっかりしている。
異世界に来てしまい不安だったけど、この世界でよかったかもしれない。縄文時代みたいな所だったら、たぶん生きていけない。
桜は、たっぷりと湧き出るお湯で全身を洗い、温泉で暖まり、ララと一緒に屋敷に戻る途中に夜空を見上げた。星がある。月もある。月は少し赤い。ここも宇宙のどこかなのだろうか。それともまったくの別次元の世界なのだろうか。さっぱり訳が分からない。その時、星が一つ流れた。スッ…と流れ落ちた星は、とても美しかった。
シリルの屋敷の朝は早い。外が白み始めると同時に、使用人達は起きて活動を始める。
桜も同じ時刻に起きるよう、使用人を取りまとめている家政婦長のハンナに言われてるのだが、毎朝寝坊をしてしまう。夜更かしは得意だが、早起きは苦手なのだ。しかも目覚まし時計なんて無いし。
そのハンナから苦情が入ったのだろう。一週間後、桜の部屋にインコが持ち込まれた。
このインコは、シリルによって「サクラ」という言葉を教え込まれており、外が明るくなってくると、かなりの声量で「サクラ」と叫ぶ。そのおかげで、桜は寝坊することなく起きられるようになった。毎朝驚いて心臓に悪いけどね!
インコはシリルが持ってきた。七日間連続寝坊した桜に呆れて、鳥籠に入れて持ってきた。
桜は「なぜにインコ?」と疑問だったけど、インコの姿がかわいかったので、まあいいかと思った。その時に、シリルがインコのこちらでの名前を言ったけど、発音が難しすぎてわからなかった。
インコは頭が白く体が青く、とてもかわいい姿をしている。バルコニーから見たこともない派手な色の鳥を見ていたから、普通の色の鳥もいたんだと安心した。知っているものを見ると安心する。
桜はインコにアオと名づけた。体が青い色だから。単純な理由だ。
インコの名前をアオにすると聞いたシリルが「サクラでいいではないか。おまえの目の色と同じなのだから」などと言ってきた。
シリルは、たまにドキリとすることを言う。天然たらしめ。たまにそんなことを言ったとしても、失礼なことを言う割合のほうが多いからね。この一週間、どの仕事をあてがわれても、まともにできない桜に怒って呆れて最後には笑っていたからね。とっても失礼だよね!
屋敷内の仕事がまともにできないのは仕方がない。だって、桜は家事をしたことがない。掃除も下手で料理もできない。洗濯機がないから洗濯もできない。しかも、ここは異世界で、掃除の仕方も料理の道具も違う。だからララや他の使用人達に教えてもらったのだけど、失敗ばかりして、皆を困らせてしまった。
家事がダメなら花の世話ならどうかと任されたが、日本の春と同じくらいの気候の日差しにさらされ、肌が赤く焼けてしまった。痛くてヒリヒリする上に、熱まで出てしまい、二日寝込んだ。三日後に熱は下がり、赤味も引いて白い肌に戻ったが。
使用人達から報告を受けたシリルは、頭を抱えた。
サクラの素性は謎だが、本当に田舎貴族の令嬢かもしれないから、本気で働いてもらおうとは思っていない。だけど、今はどこの誰かもわからない怪しい人物ではある。そんな人物を、ただで屋敷に置いてやるのも
結局、桜にはシリルの休憩時にお茶と軽食を運ぶ仕事と、食事の時に同席する仕事が与えられた。
桜は首を傾げた。お茶と軽食を運ぶことはわかる。でも同席ってなんでだ。
サイモンに聞いたところ「食べてる時のサクラの表情がおもしろいから、退屈しないで済むとシリル様が仰ってました」だそうだ。
桜は最高に嫌そうな顔をした。
シリルは私を何だと思ってる?おもしろい顔で食べてないから!それに私だけ簡単な仕事では、他の使用人達に恨まれていじめられるのでは…。
しかし、心配は
しかも「サーラは何もしなくてもいいんだよ」とまで言われた。
ちなみに屋敷の人達は、桜のことを「サーラ」と呼ぶ。シリル一人を除いて。サクラと発音がしづらいらしい。
何もしなくていいと言われて困った桜は、休憩時間に桜の部屋に遊びに来ていたララに相談した。
桜の部屋は、シリルに助けられた時に寝かされていた部屋だ。そのまま桜の部屋になった。シリルも住まう本館だ。ララ達使用人の部屋は、本館から少し離れた別館にある。
桜は、ララが持ってきてくれた紅茶を飲み、ため息をつく。
「私の仕事、ただでさえ簡単なのに、何もしなくてもいいって言われたんだけど。なんで皆、優しいのかな」
「そりゃそうでしょ」
ララが即答する。
「え?あ、もしかして私が、あまりにも何もできないから?」
「違うよ。桜はね…」
ララは紅茶で口を湿らせると、話し始めた。
この世界では、青色は神聖な色らしい。桜は神聖な青色の目をしている。
ここでは、すべての人が琥珀色の目を持つ。稀に、灰色や緑の目の人がいたという、昔の記録に残ってるそうだが、実際に見た人はいない。だから誰もが、青い目をした人物を初めて見たことになる。
屋敷内の使用人や騎士の間では、美しい青い目を持つ桜は、神聖な存在である。もしや女神かもしれないと噂になっているという。
日に当たると、すぐに赤く染まってしまう白い肌、艶やかな黒髪、そして吸い込まれそうな美しい青い瞳。なんと教会に
話を聞いて、桜は開いた口が塞がらなかった。とんでもない誤解をしている。桜は普通の大学生だ。人間だ。天使だの女神だのと、とんでもない!
キラキラとした目で見てくるララに対して、桜は首をふる。
「違うよ?私はララと同じ、普通の女子だからね?」
「ふふ、いいのよ。サーラがそう言うなら、そういうことにしておいてあげる。私、サーラと仲良くなれて嬉しい。とても自慢よ!」
「……」
絶対ララも、私のこと神子とか女神だとか思っているよね?誤解だ。とんでもない誤解だ。
まさかシリルは信じてないでしょうね…。大丈夫だと思うけど。信じていたら、あんな偉そうな態度をとらないもんね。
笑顔で紅茶を飲むララを見ていたら、何も言えなくなった。これ以上否定しても、信じてくれそうにない。まあ、おいおい誤解を解いていくか、とカップを手に取り、桜も紅茶を飲んだ。
異世界に来て十日も経つと、ずいぶんと慣れてきた。
お風呂は温泉が湧いているから問題ない。料理や手洗いに使う水は、井戸水を使っている。そして紙もある。ふわふわとはしていないけどタオルもある。手洗い場には、何かの植物から作られたという液体の石鹸があるし、お風呂場にも体や髪を洗う用の、手洗い用とは別の植物から作られた液体石鹸がある。この石鹸は非常に質が良くて、いい匂いがして肌がすべすべになり、髪は指通りが滑らかで、乾くとサラサラになった。
どんな植物なのかが、とても気になる。そして液体でもいいけど、これらを固形にしたい。ここにはプラスチックの容器がないので、固形にした方が持ち運びに便利じゃないかと桜は思った。
陶器やガラスもあり、桜が日常で使っていた食器と大差ない。ここで生活していくのに、何ら支障はない。
ただ、大きく変わっていることといえば、カラフルな髪の人がいること。シリルはターコイズブルーだし、ララはピンクだし。家政婦長はオレンジだった。人だけでなく、動物も植物もカラフルだ。まだ屋敷内の人や鳥や花しか見てないから、屋敷の外ではどうなのかわからないけど。
よく食事に出てくる鶏も、初めて見た時は驚いた。だって羽毛が白でも茶でもなく紫だったのだ!奇抜すぎない?異世界の色、バグってない?だけどここでは、それが常識だ。もしこちらの人が、桜がいた世界の色を見たら、不思議だと思うのだろう。
でも見慣れた色もある。レタスやブロッコリーやキュウリは緑だ。トマトは赤い。苺も赤い。野菜や果物は同じ色なのだ。とても不思議である。