異世界へ来て三週間が過ぎた。
ここでの生活に慣れることに必死で忘れていた。元の世界に帰る方法を探さなくては。そのために、まずは桜が突然現れたという教会に行きたい。そのことをララに告げると、困惑された。
「うーん…行けるかな」
「どういうこと?ここから遠いの?」
「いや、歩いて一時間もかからないよ?」
「一時間…歩き…」
「近いでしょ?距離じゃなくて、屋敷から出ないとダメだから」
「出ちゃダメなの?」
桜は棚の扉を閉めながら聞く。
ここは台所だ。食器を片付けるララの手伝いをしていたのだ。
初日にシリル専用の高価だという皿を二枚割ったために、洗い物をすることを禁止された。シリルには「次に割ったら弁償させるぞ」と怒られた。でも、もう大丈夫だ。細心の注意を払っているから、あの日以降は割っていない。それにシリル専用の皿には
ララも片付けを終え、桜を振り返る。そして指を頬に当てて「うーん」と
「シリル様が、サーラが屋敷の敷地内から出ないよう、注意して見てくれって、初日に皆の前で言ってたから。勝手には出ちゃダメだと思う」
「ええ!そんなこと言ったの?なんの権限があって私の行動を制限してんの?どこに行こうと私の自由じゃん!」
桜は口を尖らせて怒る。
ララが「まあまあ」と桜をなだめていると、家政婦長のハンナが来て、
「サーラ、シリル様が休憩なさる時間だから、これを持って行ってくれる?」
「はい。いつもの紅茶ですか?」
「そうよ」
ハンナが微笑みながら頷く。
桜の母親より少し年上くらいで、少しぽっちゃりとしていて、親しみやすい雰囲気の人だ。しかし、怒ると怖い。桜も怒られた。
働き出した初日にシリル専用の皿を割った時と、シリルの部屋を掃除していて水をこぼし、ちょうど部屋に戻って来たシリルが、床の水に足を滑らせて転んだ時に。シリルに怪我がなくて安心したが、厭味ったらしく怒られ、桜が悪いのだけど腹が立った。ハンナにも
数日シリルは腰が痛いと言い続けた。桜はなんて心の狭い男なんだと呆れた。だってちっとも痛そうではなかったから。あまりにもしつこいので、食事後に側に行き、無言でシリルの腰を撫でたら、また怒られた。短気な男め。
その時のことを思い出す。
「なっ、何をするっ」
桜から飛びのき、シリルが焦った様子で言う。
「毎日毎日、腰が痛いと言うから、撫でてあげようとしたのよ」
桜が近づこうとすると、更に離れようとする。
「なんで逃げるの?私のせいで怪我したんだから。本当にごめんなさい。怪我が治るまで何でもするよ?」
「いい!それに撫でてどうする!」
「手当てっていって、手を当てて撫でると、痛みが治まるの」
「そんなわけあるかっ」
「やってみないとわからないでしょ。ほら」
「だから、もういい!治ってる!」
「ふーん。痛いふりをして、私を
「違う!」
「もう部屋に戻ります。おやすみなさいませ」
「あ、おい!」
シリルが止めてくるけど、知るもんか。
桜は振り向きもせずに部屋を出た。
この翌日、シリルは桜に悪いと思ったのか、殊勝な態度をとっていたが、そんなのは、その日一日だけだった。
桜がシリルの部屋に行くと、窓を背にした大きな執務机の前で、シリルは書類に目を通しているところだった。扉近くの机では、サイオンが書き物をしている。
「お茶と軽食を持ってきました。休憩しますか?」
「ありがとう、サーラ。そこに置いて、待っていてください」
「はい」
サイオンが顔を上げ、桜に部屋の中央にあるソファーに座るよう促す。
桜は籠を机に置き、ソファーに座ってシリルを見た。とても真剣な表情で、書類を見ている。こうして見ると、モデルか俳優かってくらい、かっこいいのに。いや、ここの世界観からして、王子様だ。しかし口を開くと、途端に残念な男になる。とてももったいないと思う。
桜の視線に気づいたシリルと目が合った。
シリルは書類を机に置き、こちらへ近づいてくる。
「なんだ?」
桜の向かい側に座りながら言う。
桜は、とりあえずカップに紅茶を注ぎ、大きな皿に乗ったマドレーヌを籠から出した。実際は、マドレーヌという名前ではないけど、見た目も味もマドレーヌだ。とてもおいしくて気に入っている。そしてこれは、シリルの好物でもあるそうだ。好みの味が似てるなんて嫌だけど。
サイオンも桜の隣に座る。一瞬、シリルの眉が動いた気がした。サイオンも気づいたらしく「どうかされましたか?」と聞く。
しかし、当のシリルが「何がだ?」とまったくわかっていない様子だったので、サイオンが「いえ、気のせいでした」と、それ以上はつっこまなかった。
シリルがマドレーヌを一つ食べ、紅茶を飲んで、カップを下ろしたタイミングで、桜は口を開いた。
「シリル、お願いがあるの」
「なんだ」
「私が現れたという場所に行きたい」
「行ってどうする」
「帰る手がかりがないか、調べたい」
「…帰りたいのか」
「もちろん!異次元ポケットみたいな穴があるかもしれないし」
「ポケ…?またおかしなことを言いだしたぞ、サイモン」
「そうですね。サーラ、目まいとかしてないか?」
「大丈夫です。正常です。おかしくない」
桜も、マドレーヌを手に取り口に入れる。うん、おいしい。紅茶で流し込み、シリルの目を見る。
「シリルが許可してくれなくても、勝手に行くから。そもそも、なんで外に行くのにシリルの許可がいるの?」
「おまえは今、俺の庇護下にある。それに今まで世話をしてきた分を、働いて返してもらわなければならない。だから逃げられては困る」
「逃げないよ。だからお願い。教会に行きたい」
シリルは無言で桜を見つめた。しばらくして「わかった」と息を吐き出した。
桜はシリルの方へ身を乗り出して喜ぶ。
「本当?ありがとう!」
「ただし、俺が連れていく。サイオン、明日の午後の予定は?」
「街に行く予定が一件。しかし次の日にずらせます」
「ではずらせてくれ。サクラ、明日の午後は、おまえも休みだ。教会に行くぞ」
「ありがとう!お昼にここに来ればいい?」
「いや、
「え、もしかして馬に乗るの?」
「そうだが、一人で乗れないのか?」
「うん…」
「なるほど。まあ心配するな。ならば俺が乗せてやる」
「はあ…」
心配するなと言われても、不安しかない。
だって、すごい揺れそうじゃん?お尻や腰も痛そう。ここには車がないからなぁ。もちろん、電車も飛行機もない。移動は馬か馬車だ。馬車にしたって揺れそう。絶対酔う。でも歩きだと一時間はかかるらしいし。忙しいシリルを歩かせるわけにも行かないし。付いてこなくていいよと言っても聞かないだろうし。
桜は少し不安を抱きながら、「連れていくと言ってるのに、なぜ不服そうなんだ!」と文句をいうシリルと苦笑するサイモンに挨拶をして、空になったカップと皿が入った籠を手に、シリルの部屋を後にした。
翌日の昼に厩に行くと、初日に会ったジャンが、馬の手綱を手に待っていた。
「あ、パンツの人…」
桜の気配か、もしくは声に気づき、ジャンが桜に顔を向けて、軽く頭を下げる。
桜も会釈をすると、馬に近づき目を丸くして叫んだ。たまたまネットで見かけて、感動して調べたから知ってる馬だったのだ。
「え!この馬ってアハルテケ?」
「いえ、この馬の名前はシャルロットです」
「あ、違くて。馬の種類のことです」
「種類とは?」
桜は説明に困り、話を変える。
「えと、シャルロットはシリルの馬ですか?」
「そうです。国に数十頭しかいない、希少な馬です」
「へぇ。すごくきれい。触ってもいいですか?」
「ダメです。シリル様しか触れません」
「そうなの?残念」
桜はシャルロットを見上げた。
間近で馬を見る機会などなかったから、ワクワクするし、感動もしてる。
シャルロットは、体毛が金色だ。キラキラと輝いて美しい。もしかして、銀色の馬もいるのかな?あるいは、ここはド派手な色のモノが多いから、赤や青、緑の馬がいたりして。
そんなことを考えていると、シリルが来た。いつもはレースのついた上等なシャツに上着を着ているのに、今日は違う。上部にボタンが三つ付いた、長袖Tシャツみたいな服に、少しゆったりとしたズボンにいつものブーツだ。男の使用人が着ている服に似ている。でも、生地は上等で、とても柔らかそう。黒い革手袋をはめた手には、同じく黒いマントを持っている。
桜はシリルの恰好を見て、顔を曇らせた。
私もシリルの恰好がよかった。だって、いつものスカートの下に、シリルと似たズボンを履いてるんだもん。スカートいらなくない?ハンナさんに、女子のたしなみだからと言われて、スカートを脱ぐことを禁止されてるから、渋々履いてるんだけど。
本当は毎日もズボンがいいけど、屋敷の女の人は皆、スカートを履いているから、ここの世界では、それが当たり前なんだと納得して、渡された服を着ている。もちろん服に不服はない。
ブラウスはレースが付いてるものや刺繍が縫い込まれたものが多く、かわいくて着心地もよくて清潔だ。スカートもそう。フリルやレースが付いてたり、リボンを結ぶようになってるものもある。これらもかわいくて清潔で、汚さないよう気をつけている。
それでも汚してしまい落ち込んでいると、「服用の石鹸で洗えば、すぐに取れるよ」とララがなぐさめてくれた。実際、きれいに汚れが落ちて、服は戻ってきた。
桜の部屋の棚には、そのような服がたくさん入っている。
ちなみに最初に桜のブラジャーが脱がされていなかったのは、こちらでも似たようなブラジャーがあったから。それに着替えをしてくれた女の人が、何となく外してはかわいそうだと思ったらしい。それと、外し方もわからなかったそうだ。今は、こちらで使われている物をつけている。
その時、いきなりシリルに腕を引かれた。
「何をぼんやりとしている。何度も声をかけているのに。早く乗れ」
「あ、ごめん。いいの?シャルロットはシリルしか触れないって」
「俺がいればシャルロットは怒らない。支えてやるから早く乗れ」
「どうやって?」
「は?本気で言ってるのか?」
「うん」
「もしや、一人で乗ったことがない以前に、一度も馬に乗ったことがないとか?」
「うん、そう」
「田舎に住んでいたのに?」
「だから、田舎じゃないから。それに、もっと便利な乗り物があったんですぅ」
いつもの失礼な発言に、桜は少しムッとする。
シリルは桜の言葉を聞いてるのかいないのか、フード付きのマントをはおると、軽やかにシャルロットの背に乗り、手を伸ばしてきた。
「ほら、手を出せ。反対側の手で、そこを掴め」
桜は言われた通りに
何とか馬の背に乗れた。引っ張られた勢いで、シリルに抱きつく恰好になっていることに気づいて、慌てて前を向く。
「わあ…高い」
目線がとても高い。しかもどこを掴めばいいかわからなくて、不安定で怖い。高い所は苦手ではないけど、揺れる乗り物は苦手だ。だけど教会に行きたいと望んだのは桜だ。しかも馬まで出して連れていってくれるのだから、我慢しないと。
「シリル、ありがとう」
「…ふん、行くぞ。そこの出っ張りを、しっかりと掴んでおけよ」
鞍には掴むのにちょうどいい突起があった。そこを掴むように指示され、しっかりと両手で掴む。
すると、シリルが桜の体をマントで包み、前を大きなボタンを留めた。
驚いて「え?」と振り向くと、「前を向け」と頭を掴まれ前を向かされる。
どうやらシリルは、桜の分のマントも持っていたようだ。
「日中は暖かいが、風を受けると冷える。それは俺のだが、特別に貸してやる」
「どうも…」
いや、そこは素直に寒いから着ておけ、でいいんじゃない?この人、この性格じゃ友達とかいないんじゃないかな…。
でも確かに、日差しは暖かくても風は少し冷たい。それにマントは、日焼け防止にもなる。できれば焼けたくない。
ここに来た最初の頃に、庭仕事で日に焼け熱まで出した。熱が下がってすぐに、シリルが日焼けに効く薬だという、とろりとした液体状の物をくれた。薄いピンク色をしていて、ほのかに甘い匂いがした。これも、何かの植物から作られているらしい。この世界の植物って、万能ですごいなと思った。ピンク色の液体は、肌に塗っても色は付かない。そして滑らかに伸び、日にも焼けないし、焼けた後の赤味を抑えてくれる。
今日、その日焼け止めを塗ってきてるが、日焼け対策はどれだけしてもいいと思っている。
桜は長い髪をマントの中にしまい、フードをかぶった。
「では行ってくる」
「お気をつけて」
シリルがジャンに声をかけ、ジャンが頭を下げて見送った。
敷地を出るまでは歩いて、敷地を出てからは軽く跳ねるように、敷地から離れると、シリルがいきなり馬の横腹を蹴ったために、勢いよく走り出した。
「えっ、ちょっ…、待って!」
「喋るな。舌を噛むぞ」
「やだっ、無理ぃ…」
初心者だって言ってんのに、飛ばしすぎじゃない?絶対にわざとやってるじゃん!だって、耳元でくすくす笑う声がする。なんて意地の悪い男だ!
振り落とされそうで怖い!と固く目を閉じていたけど、違和感を感じて目を開けて俯いた。いつの間にか、シリルの腕が、お腹にしっかりと回されていて、落ちないように抱えてくれている。
桜は落ちないとわかり、少し安心した。すごく跳ねてお尻も腰も痛いけど、なんだか楽しく思える余裕も出てきた。余裕が出てくると、今度は背中にぴったりとシリルの胸がくっついてることが気になり、恥ずかしくなる。
いや、落ちないようにしてくれてるだけだから。仕方ないことだから。でもこれ、すごく照れる。シリルは平気そうだな。慣れてるのかな。まあ、体が密着してるっていっても、マント越しだし。大したことない。
そう思うのだけど、桜の動揺は止まらなかった。
シリルは、胸に触れるサクラの体温を感じながら、出会った日のことを思いだした。
あの日、いつものようにシャルロットに乗り、供も連れずに教会を訪れた。定期的に教会へと足を運んでいたが、あの日は気持ちがざわつくような気がしたように思う。
シャルロットを門扉の柱につなぎ、教会へと続く長い階段を上る。最後の階段を上りきったところで、ガラスが割れるような音が聞こえた。シリルは顔を上げた。すると、いきなり空中に、水に包まれた人が現れた。シリルは驚き固まり、目が離せなくなる。その時、その人のまぶたが開き、一瞬目が合った。シリルの心臓が跳ねる。目が青い。初めて見た。きれいな色だ。その人の体が地面に落ちた。シリルは慌てて抱き上げる。若い女だ。長い黒髪で、肌が白い。まだ少女のようだが…。
本当は、受け止めようと手を伸ばしかけた。でも、驚きすぎて動きを止めてしまった。そのせいで、硬い石の地面に落としてしまった。鈍い音がしたが、大丈夫だろうかと、頭に触れてみる。腫れてもいないし血も出ていない。少し安心した。でも、背中と腰を打ってるかもしれない。怪我をしているとしたら、申し訳ないことをした。目の前にいながら、助けられなかった。
間近で女の様子を見ていて、更に驚く。女の体は濡れていた。たぶん水だ。髪の先や指先から、ぽたりぽたりと雫が落ちている。その雫に色がない。ここでは、雨も川も湖も、水は青い。それなのに、彼女の体を包む水には色がない。
シリルは教会へは入らずに、女を抱えて階段を下りた。
彼女を屋敷に連れて帰る。本当に青い目をしていたか確かめたい。それに神を祀る教会の前で、珍しい青い目の女が現れた。神が遣わした者かもしれな
い。もしくは怪しい者かもしれない。いずれにせよ、興味がある。
そう思い、慎重にシャルロットに乗せて連れて帰ったが、目が覚めた女は、驚くほどおかしな言動をする。腹が立ち、呆れることもあるが、まだ何者かわからない。何者かがわかるまで、屋敷に留めおくことにした。
屋敷に置くことを決めたシリルだが、サクラの失敗の被害を受け、胃が痛い日々だ。しかし、サクラは紅茶を入れるのはうまい。サクラが紅茶を入れてくれる休憩時間を、少し楽しみにしている。そんなこと、決して本人には言わないけど。