石が敷かれた道や、踏み固められた道を進んで、体感二十分ほどで目的地に着いた。
シリルが教会の門をくぐり、小屋の前で馬を止める。
すぐに小屋から初老の男が出てきて、頭を下げた。事前に知らせていたのか、驚いた様子はない。
「シリル様、お待ちしてました。馬をお預かりします」
「ああ。そんなに長居はしないが、水と
「はい。それでは準備してきます」
初老の男が小屋に戻ると、シリルが馬を下りた。そして桜に手を差し出す。
「ほら、手を出せ」
「ありがとう…」
桜は素直に手を出す。
シリルは頻繁に、こういう動作や仕草を自然にする。育ちがいいとはこういうことかと感心する。このような優しさを見せられると、思わず心を開きそうになる。だけど、性悪だしな…と思うと、開きかけた扉を閉じてしまう。
シリルに抱えられて地面に着地した瞬間、桜の視界が傾いた。咄嗟に桜がシリルのマントを、シリルが桜の腕を、同時に掴んだ。
しかし、桜は慌てて手を離して引っ込める。
「ごめん、よろけた」
「具合が悪いのか?」
「うん…少し。酔ったみたい。でもすぐに治ると思う」
「俺が馬を飛ばしすぎたせいか。悪いな」
まったく悪いと思っていない口調で言われた。これほど心のこもっていない悪いなを初めて聞いた。内心では、あれくらいで情けない奴だと笑っているのでは?と、うつむき気味だった顔を上げて驚く。
シリルは笑ってはいなかった。むしろ、心配そうな顔で桜を見ていた。
ぽかんとしている桜に、シリルの顔が、怪訝なものに変わる。
「なんだ、俺の顔に何かついているのか?間抜けな
ひと言余計だと心の中でつっ込みながら、桜は疑問を口にする。
「でも…神父さんの邪魔になるよ」
「神父は留守だ。先ほどの下男も、馬の世話をしているから、中には誰もいない。気兼ねすることはない」
「そうなの?」
「ああ」
シリルが頷き、桜の腕を掴んで支えるように歩くが、桜の足が思うように進まない。初めての騎乗に、思ったよりも体に負担がかかったのかも。
すると、のろのろと歩く桜に我慢できなかったのか、シリルがいきなり膝裏をすくい、お姫様抱っこをした。
「えっ、ちょっと!」
「暴れるなよ。まともに歩けないのだから、大人しく運ばれておけ」
「言い方…」
桜は、シリルから目をそらせてため息をついた。
シリルは天邪鬼だ。もしくは、照れ隠しで憎まれ口を聞いているのか。とにかく、桜が困っていると、紳士的な態度で助けてくれる。ここに来てからの三週間で、何度も助けてもらった。しかし言葉が厭味ったらしい。腹の立つ物言いをする。だから、あまり借りを作りたくはないのだけど、今は体調が悪いから仕方がない。このまま大人しく運ばれるしかない。
シリルが小屋から離れ、白い石の階段を上る。上った先には、同じく白い石が敷かれた道があり、顔を前に向けると、きれいな建物が見えた。
「あれが教会だ。そして、ここがサクラが現れた場所だ」
「ここ?ちょっと下ろして」
「ダメだ。先に体調を整えろ」
「えー…」
早く調べたいのにと、桜は不満げな声を出す。
だけど、シリルが言うことも
桜は小さく頷き、教会を見上げた。
教会の建物は、元の世界の教会と似ていた。白く塗られた三角屋根の建物。でも、三角屋根のてっぺんに、十字架はない。元の世界で三割の人が信仰していると言われる宗教ではないのだ。当たり前だけど。
ただ、正面扉の上に、水の波紋のような形の絵が描かれている。水滴が水に落ちて波紋が広がり、次の水滴が波紋の上で静止しているような絵だ。
あれは何?と聞きたかったが、今はゆっくりと説明を聞ける状態ではない。
桜は、後で聞こうと目を閉じた。
シリルが扉を開けて中に入った。
日差しがある外とは気温がかなり違う。中はひんやりとした空気が満ちている。でも、その冷たい空気が気持ちよくて、桜は深く息を吸い込んだ。そして首を傾げる。
「…お香の匂い?」
「そうだ。ここでは定期的に香を炊く。俺はこの匂いが苦手だ」
桜は目を開けシリルを見た。
「え?いい匂いだよ?」
「おまえは鼻もおかしいようだな」
「はあ?ずっと前から言おうと思ってたけど、あなたの基準がすべて正しいとは限らないからね!」
「俺が正しいに決まっている」
「偉そう!」
「なんだ、元気そうだな。休憩室はそこの部屋だ。自分で歩いて行け」
「あ、ちょ…」
いきなり下ろされ、桜はよろけて近くの長椅子に掴まった。
もう!前言撤回!ぜんっぜん!紳士ぽくない!
シリルは桜を放置して、奥へと行ってしまう。
桜はシリルの背中を目で追い、教会の中を見回した。
中も教会ぽい。そもそも写真でしか見たことがないから、教会のことをよく知らないけど。ここは聖堂だっけ?真ん中に通路があり、両側に長椅子が等間隔で並べられている。
通路を進んで、奥の一段高くなった場所に向かったシリルが、突き当りの壁で止まり、こちらに振り向いた。
「何をしている。早く休憩室に行け」
「わかってるよ…早く動けないっつーの」
「は?」
怖っ。紳士的に接してきたから機嫌がいいのかと思ったら、いきなり素気なくなるし。態度悪いし。何を考えてるのか、さっぱりわからない。
桜はぶつぶつと文句を言いながら、椅子伝いに移動して、休憩室に入った。
「あら、かわいい」
中は、桜の部屋の半分もない広さだ。でも、窓が南側にあるのか、とても明るい。それに、かわいいのだ。天井と壁には、白地に小花が描かれている。木製のベッドも白く塗られていて、全体的に桜の好みだ。
桜はよろよろとベッドに近づくと、マントと靴を脱ぎ、倒れるように横になった。
目を閉じても目が回る。気持ちが悪い。でも、ここでの移動手段が馬なら、慣れないとなぁ。あと水が飲みたい。シリルは何をしてるんだろ。様子を見に来てくれないのかな、とあれこれ考えて、ちっとも休まらない。
「この部屋、暑い…」
日当たりがいいために、聖堂に比べて、かなり暑い。
桜は窓を開けようと体を起こした。その時、扉が開いたのでシリルが来たと思い、「ねぇ、水がの…」と言いかけて止めた。
そこにはシリルではなく、知らない男が立っていた。真っ黒な長衣を身にまとい、肩まで伸びた灰色の髪を、後ろで一つに縛っている。そこそこ長身のシリルよりも背が高い。それに、なんだか怖い。目つきが鋭いせいだろうか。
桜は咄嗟にマントを抱き寄せベッドを下りる。しかし、床に足がついた瞬間、よろけてしまう。
男が桜に近づき「大丈夫ですか?」と顔を覗き込んできた。そして驚いた顔をする。
この顔を知ってる。青い目に驚いてる顔だ。ところで、誰?
「…大丈夫です。あの…」
不信感満載の桜の表情に、男が柔らかく微笑み、腕を掴んで支えてくれた。微笑んだ顔は優しいのに、怖さが消えない。それとも桜の気のせいだろうか。
「失礼。私はここの神父のフォルスです」
「神父さん?留守だと聞いたのですが…」
「予定が無くなったので、早く帰ってきたのですよ。ところでシリル様はどちらに?一緒に来たのでは?下男から聞きました」
「そうです。シリルなら聖堂?の方に」
「何をしている」
桜が言いかけたその時、超絶不機嫌なシリルが来た。言葉にも怒気が含まれている。
フォルスが桜の腕から手を離し、シリルに向かって深く頭を下げた。
「シリル様、よく来てくださいました。以前来られた時には、留守にしていて申しわけございません」
「俺が来たい時に来てるだけだ。気にするな。おまえがいようがいまいが、どちらでも構わない」
「そのようなことを仰らないでください。私はお会いしたい」
「ふん。出かけていたのではなかったのか?」
話しながらシリルは移動し、桜とフォルスの間に割って入る。
なぜこの狭い空間に?と桜は怪訝な顔で、シリルを見上げた。
フォルスも少し驚いた様子を見せた。
「予定が無くなりましたので、早めに帰れました。ところでそちらの方は?」
「俺の…屋敷に置いてる客人だ。少し体調を崩している。休ませたい」
「そうでしたか。では薬を用意しましょう」
「その必要はない。休めば治る。サーラ、水だ」
シリルが
桜は礼を言って受け取りながら、不思議に思う。
今、シリルはサーラと呼んだ。いつもはサクラと正しく呼ぶのに。間違えた?…わけではなさそう。なんだろう。それに客人ってなに?まあ使用人ってほど、私は仕事をしてないけど。何か考えがあるのかな?
不思議に思ったけど、とにかく喉が渇いている。桜は木栓を引っ張って取り、迷って動きを止めた。
「どうした?」とシリルが聞く。
「これ、口をつけて飲んでいいの?」
「いい。一人用の容器だ」
桜は頷き、水を飲んだ。
冷たくておいしい。シリルが持ってきてたの?それとも、今どこかで
冷たい水を飲んですっきりとした。おかげで気持ち悪さが、かなり軽減した。もう大丈夫だ。
そうシリルに告げると、「本当だろうな?」としつこく確認された。
桜は靴を履いて、数歩歩いてみせた。
「ほら、もうフラフラしないよ。だから早く行こう。そのために来たんだから」
「わかった」
マントをはおり、今にも部屋を出ていこうとする桜を止めて、シリルはフォルスに向かって言う。
「俺達は調べものがある。お前は気にせず、仕事をしてくれ」
「調べもの…ですか?何かお手伝いをしましょうか?」
「必要ない」
「わかりました」
シリルがマントを
桜はフォルスにお辞儀をすると、シリルの後を追いかけた。
小部屋を出て、等間隔に並んだ長椅子の間を進んでいた時、桜は、振り向きもせずに歩くシリルの背中から、聖堂の正面へと視線を移した。
一段高くなった場所には、小さな台があるだけだ。台の後ろは壁だ。先ほどシリルは、台の横を通りすぎ、壁に向かって立っていた。まるで壁の向こう側に、何かがあるように。
「何をしている。まだ歩けないのか?」
「あ、ごめん。大丈夫だよ」
一瞬のつもりが、思わず足を止めて見入ってしまった。桜は少しだけ早歩きになり、シリルに追いつく。
シリルは、不機嫌な顔で桜を見た後に、正面扉を開けて外に出た。
正面扉から伸びる白い石畳が、陽光を反射して眩しい。
桜はフードを深くかぶると、建物の影から明るい日向へと出た。
シリルが白い石の通路を進み、階段の手前で足を止めて振り向いた。
「ここだ。この場所に、サクラが突然落ちてきた」
「ここ?そうなんだ」
シリルの隣に並んで、桜は頷いたが、階段を見下ろしてゾッとする。
いや待って!シリルはいきなりのことで受け止められなかったって話してたけど、受け止めてよ!地面がこんな硬そうな石なのも衝撃だけど、これ、少しずれてたら階段から落ちてるじゃん!…まあ、そもそもが元の世界で神社の階段を落ちるところだったんだけど。でも、ここの階段もかなり長いよ?怖…。異世界で死ななくて本当によかった。
階段を落ちなくても、地面に敷かれた、とても硬そうな石を見て、頭を打たなくてよかったと心底思う。
できれば、その場にいたというシリルに受け止めてほしかったけど、無理な話だろう。私だって、いきなり空中から見たこともない人が現れたら、驚いて身を引く。咄嗟に手を出さない。受け止めたりなんかすれば、腕の骨が折れそううだし。私の方が、ひっくり返って頭を打っちゃうよ。
しかし、空中に現れた私がもし、石に頭を打ってたら死んでたよね。それか頭がい骨骨折だよ。そんな目に合わなくて不幸中の幸いだった。ここは医療が発達してるとは思えないから。
だってさ、薬はよくわからない植物から作られてるし、レントゲンやエコーもない。ここに来た頃に、ララに屋敷の中を案内してもらっている時に聞いたら「なにそれ?」って言われたし。
そして乗り物が馬だ。馬車だ。いつの時代よ?車も飛行機も電車もない世界に、高度な医療があるとは思えない。でも、その代わりに魔術師がいるとか何とか、シリルが言ってたな。まさか魔術で怪我を治すとか?というか、魔術ってなに?怪しすぎる。
桜は、自分が現れたという場所の空中を凝視した。もちろん何も見えない。何かを探すように手を動かしてみたけど、何もない。次にしゃがんで石を触った。押したり撫でたりしたけど、ただの硬い石だ。
「硬い…」
「そりゃあ硬いさ。ノベ領の石が使われている。この石は、昼は日に、夜は月に照らされて白く輝き、とても美しいんだ。それにノベ領は、薬になる植物が、他の州領に比べてたくさん生えている。土壌がよく、雨も適度に降るから作物も育ちやすい」
「へぇ。いい所なんだね」
「そうだ。神に愛された場所だ。そのような土地におまえが…」
「なに?」
「…何でもない。ところで、帰る方法とやらは、わかったのか?」
桜は、膝に手をついて立ち上がると、ゆっくりと首を振った。
「全然わからない。空中に歪みがあるかなとか、石に穴が開いてないかなとか思ったけど、何もない」
「そうか。残念だったな」
「うん、残念…。ていうか、ねぇ、この石!この硬い石の上に、私は落ちたんだよね?せめて少しは受け止めてほしかった。がっつり受け止めろとは言わないけど、衝撃をやわらげるくらいはしてほしかった。だって、腰を打って、数日痛かったんだからっ」
「…今が元気なのだから、いいだろう」
「もしも、私が頭を打ったり、そこの階段から落ちてたらどうしてたの?」
「不運な女だと思うだけだ」
「あっそう」
聞くだけ無駄だったと、桜は肩を落とす。そして石畳から逸れて、周辺を注意深く観察する。
石畳の周りは芝生だ。ちゃんと緑色の芝生だ。赤や紫じゃない。青々としてきれいだ。その芝生の上を軽く踏みながら歩いてみる。地面は固く、穴が開いてるような箇所はない。まあ、何回もシリルが空中から現れたって言ってるんだから、穴なんてないのだが。
念のため、両手を上げて、石畳の周辺を歩き回った。手に何も感じない。
桜がしょんぼりとシリルの前に戻ってくると、シリルが不審者を見る目つきで見てきた。
「おまえ…大丈夫か?」
「はい?大丈夫だけど」
「奇妙な踊りをしていたではないか」
「踊ってません!空中に元の世界と繋がる穴がないか調べてただけです!」
「ふん。まだ記憶が錯乱しているのか。元の世界ではなく、どこの州領かを思い出せ」
桜は、盛大にため息をついてみせる。
「はあ…、だから、私はここの世界の住人じゃないって言ってるの!日本の花森町出身!神社の階段ですべって転んだら、この場所に落ちてきたの!」
「…声が大きい。うるさい」
シリルがわざとらしく耳を塞ぐ。黒いマントに黒い手袋をして、白亜の教会を背に立つ長身のイケメン。モデルみたいだと一瞬見とれてしまった自分に腹が立つ。
それに、たぶんだけど、シリルはわかっていると思う。桜が違う世界から来たことを。ちゃんと理解してると思う。どういう理由があって、とぼけているのか、わからないけど。それとも、違う世界があることを、認めたくないのかもしれない。
桜は教会の周囲も調べてみたいと、その場から離れようとして、シリルに腕を掴まれた。
「待て。どこへ行く?」
「え?もう少し範囲を広げて調べてみようと」
「今日は終わりだ」
「ええ!…あ、そうか。シリルは忙しいもんね。ごめんね、つき合わせて。先に帰っていいよ?私は教会に泊まらせてもらえるなら、そうす…」
「ダメだ。帰るぞ」
「そんなぁ」
桜の顔が、よほど情けなかったのだろうか。
険しい表情だったシリルが、笑った。でも、咳払いをして、すぐに元の険しい表情に戻る。
「コホッ、とにかく今日は終わりだ。また連れてきてやる」
「わかった…」
桜は頷きながら、こっそりと胸を押さえた。
なに?今の顔。ちょっとドキドキしたじゃん。普段、砂を噛んだような顔ばかりを見てるから、たまに笑った顔を見るとびっくりする。しかし、残念な人だなぁ。笑うとすごく素敵なのに。もっと笑えばいいのに。もったいない。
シリルは、桜の前だけではなく、他の人達の前でも無表情であったり不機嫌だ。どうすればシリルの笑顔を増やせるのかと考えながら、腕を引かれて階段を下りた。
小屋の前で馬にブラッシングをしていた初老の男が、シリルに気づいて手を止めた。
「もうお帰りですか?」
「ああ、きれいにしてくれたのだな。感謝する」
「とんでもございません。しかしこの馬は、本当に美しいですねぇ」
「そうだろう。自慢の馬だ」
あ、ちょっと嬉しそうだ、と桜がシリルを見ていると、初老の男がシリルと桜を交互に見てきた。
なんだろう?と不思議に思っていると、とんでもないことを言い出した。
「そうでしょうとも!そちらのご令嬢も、美しい目をしてらっしゃる。自慢の奥様ですか?」
「は?」
「はあっ?」
シリルと桜の声が重なった。
初老の男は、更に続けて爆弾発言をする。
「あ、これは失礼しました。まだ奥様にはなってないんですな。婚約者様でしたか」
「違う!」
シリルが強く否定する。
「そう!違うからっ」
桜も全力で否定する。とんでもない勘違いだ。また目まいが起きそう。
二人の勢いに、初老の男は、目をぱちくりとさせた。