集会には来たばかりなので帰るわけにもいかない。
皆から離れた机に本を置いたローゼは、改めてひとり、椅子に座る。
(アーヴィンって本当に、人気者だよね……)
この大陸で宗教は基本的に一つだけしかない。
それは主神の名を取って「ウォルス教」と呼ばれている。
町や村には必ずウォルス教の神殿があり、民に教義を与えるための神官が在籍していた。
王都の大神殿で修行してからなる“神官”というのは、豊富な知識を持つほかに、神々の力を借りた不思議な術『神聖術』を使うことができる。
このグラス村へ来てから六年ほどになるアーヴィン・レスターは、その“神官”だった。
彼の年齢は二十四歳。見た目もよく、物腰も穏やかなので、グラス村だけでなく、周囲の村や町の女性たちからも絶大な人気を誇っている。ただ、今に至るまで浮いた噂ひとつない。
別に神官の結婚は禁止されているわけではない。近くの集落の神官たちは住人と結婚しているのだから、アーヴィンが村の誰かと恋仲になることは十分に考えられる。よって年頃の娘たちばかり集まるこの会では、彼の話題でいつも盛り上がるのだった。
ローゼも参加している会の正式名称は『未来の幸せを目指す乙女の会』、通称を乙女の会という。
参加資格は「十五歳以上の未婚女性である」こと。
目的は「週に一度、年頃の女の子たちだけで集まって色んな話をする」こと。
話題は主に、誰かの噂や、お洒落、そして恋の話。小さなこのグラス村ではこういった横の繋がりによる情報網は馬鹿にならない。自分に言い寄る相手の違う面を教えてもらえるかもしれないし、運が良ければ誰かの伝手で遠方から来た相手との縁談が成立することだってあるかもしれない。
しかし。
(……読んでどうするのよ、かぁ……)
赤い髪を指にくるくると巻きつけながら赤の瞳を本に向け、ローゼはため息をつきながら背表紙をなぞる。
友人たちの言い分は正しい。ローゼは村から出たことないし、出る予定もない、この村以外で生きる方法も知らないただの村娘だ。本を読んだところで、知識の使い道などない。
ローゼも結局は、特に変わらぬ日々が過ぎていくこの村で誰かと結婚し、そして人生を終えるのだろう。少し退屈に思えるかもしれないが、しかし幸せで、良い生き方のはずだ。
ぎゅっと本を握り、唇を噛んで、自分に言い聞かせる。
深くを考えてはいけない。知らない世界を見たいのなら、本を読んでいればいい。
そうして小さく首を振り、続きを読むため本を開こうとしたとき、背後の扉が開く音がする。
振り向くと思案顔のディアナが顔を出したので、ローゼは顔をほころばせた。
この会のまとめ役をしている村長の娘ディアナはローゼのふたつ年上で、村の中でローゼと一番仲が良い。
彼女と話をすれば沈んだ気持ちも晴れるだろうと思ったのだが、なぜかディアナはローゼを見ると手招きをする。それはもはや手招きというより、手首をぶんぶんと上下に振っているだけのようにしか見えない速度だ。
「どうし――」
問いかけようとしたローゼを制するように、ディアナは唇の前に人差し指を立てた。どうやら静かにしろということらしい。その状態でさらに手招きをするので、ローゼは首を傾げながら本を片手に立ち上がった。
いつの間にか日は傾きはじめている。暦の上では春だが、早春のこの時期、朝夕はまだ冷える。
おまけに今までいたのは熱気のこもった集会所だ。吹き抜けていく風がより一層冷たく感じられて、ローゼは思わず身を震わせた。
「どうしたの、ディアナ。外は寒いじゃない。中で話そうよ」
しかしディアナは出て来たローゼを押しやり、扉の前に立ちふさがった。
「だーめ。あんたはこのまま神殿に行くのよ。神官様がお呼びなの」
言ってディアナは、背後にある石造りの建物を指さす。
「……神殿に……」
呟いたローゼはディアナと神殿とを交互に見比べた後、ぐっと拳を握りしめた。
白い石で造られたどっしりとした神殿は、何百年も前の建物だというのにくすんだり欠けたりすることもなく美しさを保っている。この建物を見るとローゼはいつも誇らしくなるのだが、今は恨めしい気持ちしか湧いてこない。
「……アーヴィンのやつ、昨日会った時に態度がおかしい気はしてたんだけど……やっぱりなんか企んでたんだ」
上目遣いに神殿を睨みつけていると、呆れたようなディアナの声が聞こえた。
「まったくもう、あんたって子は。神官様に対してそんな風に言っちゃ駄目でしょ」
「……だって」
「はいはい、文句は言わずに行った行った。じゃないと私がお父様に怒られちゃうわ」
「そうだ。ディアナは家の用事があって一度帰ったんでしょ? なのにどうしてアーヴィンの伝言係をしてるの?」
実を言えばローゼはもう答えが分かっている。
それでもあえて問いかけると、ディアナは小さく肩をすくめた。
「これが家の用事だったのよ」
やっぱりかと思いながら、ローゼは顔をしかめた。
神殿には立派な書庫があり、たくさんの書物がある。神殿の書庫の蔵書なのだから、これらの本はすべて神官のためのものだ。
学術的なものや知識系の本が多く、やたらに内容が難しいものもあるし、娯楽系の本は無い。
そしてこれらの本は手続きさえすれば誰でも借りることができる。本は高価なものだから悪意を持った人が持ち出すことだってできるだろうが、例え捌こうとしたところで神殿の本を買い取る愚かな真似をする者はこの世界のどこにもいないし、ましてや田舎のグラス村ではそんなことを考える人すらいない。それどころか本を手に取ろうと考える人だって少ない。
よってグラス村の神殿の書庫へ足繫く通う者など、この村の中ではローゼくらいだった。
神話系の話は面白い。簡単なものなら学術系の話だって興味はある。そしてなぜか書庫には徐々に精霊に関する本が増えてきていたので、最近のローゼは精霊の本を中心に借りることにしていた。
昨日もローゼは神殿へ行き、本を借りる手続きを済ませ、外へでたところで、神官服――神殿の基調色である白に、同じく基調色の青で縁取りをした長衣――を着た人物に会った。この村に神官はひとりしかいないのだから、神官服を着る人物もひとりしかいない。アーヴィンだ。
門の向こう側から現れたのだから、彼は神殿をあけていたのだろう。肩下までの褐色の髪を麗らかな日差しに輝かせるアーヴィンは、ローゼを見ると灰青の瞳を細めて穏やかな微笑を浮かべる。
「こんにちは、ローゼ。もしかして私に用があったのかな?」
グラス村の神殿に神官はアーヴィンひとりしかいない。他にも神官補佐という数名の人たちはいるのだが、彼らは雑用係として雇われている村人なので神聖術は使えないし、専門的なことも分からない。
そのため神官を訪ねて来た際、運悪く留守だった村人は神殿でアーヴィンの帰りを待つのが常だった。
だけどローゼは別にアーヴィンに用があったわけではない。その証拠とばかりに小脇に抱えていた本を見せる。
「あたしは本を借りに来ただけ。アーヴィンに用があったわけじゃないし、今は誰も待ってないから心配しなくても平気よ」
「そうか、ありがとう」
礼を言うアーヴィンに手を振ってローゼは門へ向かったのだが、今度は背後からアーヴィンが呼び止める。
「ローゼ」
振り向くと、ほんの少し前まで普段通りだったはずのアーヴィンは何故か硬い表情だ。何かを言おうとしたようだが、すぐ思い返したように口をつぐみ、わずかなあいだ灰青色の瞳を地に向ける。
見たことのない様子を不審に思ったローゼが問うよりも早く、アーヴィンは顔を上げる。その様子は、たった今見せていた姿が嘘だったかのようにいつも通りだった。
「ローゼは本が好きだね。この村で一番本を読んでいるのは、きっとローゼだろうな」
「あー、うん。そうかも? っていうか、ねえ、アーヴィン。あの――」
「呼び止めて悪かったね。気を付けて帰るんだよ」
ローゼが何か言おうとしていることは分かっているはずなのに、アーヴィンは一方的に言い切って神殿の中へ歩み去る。どうやら問いかけてほしくないようだ。
「……なに、あれ。変なの」
釈然としないものを抱えながら小さくぼやき、ローゼは神官服の背を見送った。
今日の呼び出しは、きっと昨日のあれに関係がある。
内容に心当たりはないが、おそらく面倒なことなのだろう。
前もって、しかも直接言ったのではローゼが逃げるだろうと考えたアーヴィンは、ディアナを通して呼び出すという回りくどいことをしたのだ。