目が覚めたローゼはあくびをしながら窓の外へ顔を向け、一筋のほんのりとした橙色を見ながら小さく頭を掻いた。
「……なんか、変な夢だったな……」
おそらくは「聖剣の主に選ばれた」という信じられない話を聞かされたせいで、頭の中で妙な話を作り上げてしまったに違いない。
そう結論付けたローゼが手早く身支度を整えて二階の自室から階下へ行くと、末っ子のイレーネが使用後の皿を厨房へ運んでいるところだった。
「みんなはもう、畑に行ったの?」
イレーネは首を横に振る。
「おばあちゃんと、お父さんは、草原」
「草原? ……あー、そっかそっか。大神官様のところね。なるほど」
おそらくは一番の大きな仕事を片付けてくるつもりなのだろう。ローゼも近いうちに会いに行かなくてはいけないが、答えの出ていない今はまだ会えない。
「厨房はイレーネに任せて大丈夫ね?」
「うん」
「じゃあ、あたしは川に行ってくるわ」
今日のローゼはイレーネと一緒に家事の担当だ。洗濯でもしながら考えをまとめようと考えたローゼが洗い物の置いてある籠へ向かおうとしたとき、雷かと思うような足音が家中に響き渡る。続いて音の源となった人物がものすごい音を立てて扉を開けた。上の弟のマルクだ。
「なあ、姉貴!」
「マルク。あんた、家を壊すつもり? もっと静かにしなさいよ」
睨みつけながら放った姉の言葉は彼の耳にまったく届いていないらしい。どたどたと足を踏み鳴らし、マルクは唾をとばして叫ぶ。
「姉貴、すげえ可愛い! すげえ可愛いぞ、姉貴!」
別にローゼを褒めているわけでないのは必死に背後を指差している様子で明らかだ。
「可愛いんだよ、姉貴!」
「姉ちゃん! 表! 美人!」
続いて駆け込んできたのは下の弟、テオだ。
「あっ、兄ちゃん! 見た? あの人見た?」
「見た! すげえ! 可愛い、すげえ!」
「だよね! 美人すぎ! びっくり!」
ふたりしてローゼの前で可愛いだの美人だのと叫び続けているが、何があったのかは彼らの語彙が少なすぎてまったく分からない。呆れまじりのローゼが「何があったのかは自分で確認しに行くしかないか」と思っていると、先んじて様子を見てきたらしい妹のイレーネがローゼを呼ぶ。
「お客さん」
「あたしに?」
客と言われて最初に浮かんだのはあの恰幅の良いアレン大神官の姿だ。だけど違うらしいというのは次のイレーネの言葉で分かった。
「女の人がひとり。知らない人。すごく綺麗な人」
イレーネは寡黙であまり表情の変わらない性質なのだが、そんな彼女ですら頬が赤らんでいる。どうやら客人は本当に美女のようだ。
「そうだった、忘れてた。姉貴にお客さんなんだった」
「僕も忘れてた。姉ちゃんに会いたいから呼んで、って言われてたんだった」
「……あんたたち、伝言役くらい果たしなさいよね」
ため息をひとつ吐き、ローゼは弟たちに「見に来るんじゃないのよ」念を押してから玄関へ向かった。
扉を開けると、涼しいというより冷たいと呼んだ方が近い温度の風が吹き込んでくる。暖かい季節に向かってはいるが、この時期の朝夕はまだまだ寒い。
それなのに、外にいたのはごく薄い生地の服を着た少女だった。この気温だというのに上着も羽織っていない。
寒くないのだろうかと思ったローゼだが、自分へと顔を向けた少女を見た途端、すべての考えが頭から消えた。
(……うっ……わあ……!)
ローゼより三歳ほど年下に見える彼女は、女神もかくやと思えるほど可憐で愛らしかった。
大きな紫の瞳は光を受けた水面のようにキラキラとしており、背中まで伸びた柔らかそうな白金の髪は光に照らされて輝いている。
纏う空気もとても優雅で、彼女はただ立っているだけだというのに、この辺境の村の玄関前がまるでどこかの貴族の屋敷前になったかのような錯覚に陥るほどだ。
(あの子たちが騒ぐのも良く分かるなあ! ……だけど……誰?)
こんな美少女は一度見たら絶対に忘れない自信があるのだけれど、ローゼの記憶のどこを探しても彼女の顔はない。
黙って首をかしげていると、美少女が艶やかな赤い唇を開いてローゼに問いかけてきた。
「ローゼ・ファラー様でいらっしゃいますか?」
顔に見合うだけの優美な声だが、やはり聞き覚えがない。
「そうですけど」
ローゼの返答を聞いて、少女は頭を下げる。
「お目にかかれて光栄です。わたくしはフェリシア・エクランドと申します。どうぞフェリシアとお呼びくださいませ」
「あ、えーと、ローゼ・ファラーです」
名前を知っている相手に名乗るのも間抜けな気がしたが、フェリシアは気にしなかったらしい。にっこりと微笑む顔はただただ輝かしいばかりだ。
「あの……あたしに何の用?」
「わたくしは伝言係です。アーヴィン様に頼まれて伺いましたの」
「アーヴィンに……」
ローゼは思わず後ずさりする。自分の目つきが険しくなったのも分かった。
「あなた、何者?」
「神殿騎士見習いですわ」
神殿騎士は神に仕える騎士たちだ。神官同様に王都の大神殿で修行を積むが、神官とは違って各集落へ赴任するようなことはせず、大都市にだけ駐屯して部隊を組んでいる。そうして周辺地域でただひたすらに魔物を退治するのだ。
この近辺で神殿騎士を見かけたことはないので、おそらくフェリシアも今回の大神官の一団のひとりとして来たのだろう。
(だとしたら、アレン大神官様の手下? ……信用していいのかな)
どう考えても好意的ではなかったアレン大神官の目つきを思い出しながら微笑むフェリシアを見つめていたローゼは、悩んだ後に玄関の扉を大きく開けた。
「……話は中で聞くわ。入って」
ローゼの申し出が意外だったのか、フェリシアは目を丸くする。
「入れてもよろしいんですの? わたくし、敵かもしれませんわよ?」
「敵なの?」
「違いますわ」
「そう」
ローゼが行動を決めたのはフェリシアの格好だった。別に震えているわけではないのだが、そんな薄手の服では絶対に寒いはずだ。
「敵じゃないなら、別にいいでしょ」
「……ありがとうございます。では、お言葉に甘えさせていただきますわね」
そうしてローゼは春の日差しのような笑みを浮かべるフェリシアを連れて家の中に入る。
陰に隠れて見ていた弟たちが声にならない叫びをあげ、ローゼが二階の自室へ行くまで一定の距離を保ちながら後ろを着いてきた。その気配は分かっていたが、ローゼは弟たちを放置することに決めた。おそらく妹が何とかしてくれるだろう。
ローゼの部屋に家具はひとりぶんしかない。それでフェリシアには椅子をすすめ、ローゼ自身は寝台に腰掛ける。
「で、あなたはどういう人?」
椅子にちょこんと腰掛けて物珍しそうに辺りを見ていたフェリシアだったが、その言葉を聞いてローゼの方へ顔を向けた。
「先ほども申しました通り、わたくしは王都から参りました神殿騎士見習いですわ。でも、大神官様の一団とは関係ございませんの。それにローゼ様とは年が近いですから、お家へ伺っても怪しまれないのではないかという話になりまして、伝言をお預かりして参りましたのよ」
「アーヴィンからの伝言でしょ。あなた、アーヴィンと知り合い?」
「伝言は確かにアーヴィン様からのものですが、わたくし自身はアーヴィン様と直接の面識はございません」
「……どういうこと」
奇妙に思ったローゼが出した声はかなりの不信感を含んでいたが、フェリシアの態度に変化はない。相変わらず柔らかな微笑みを絶やさずに彼女は答える。
「わたくしに伝言を頼んだのはジェラルド・リウスという人物です。ジェラルド様は、アーヴィン様と親しい間柄にあるそうですの」
聞いたことのない名前に首をかしげるローゼだが、そもそもアーヴィンの交友関係に詳しいわけではない。特に神殿関連の人物となれば知らなくて当り前だろう。それで黙って先を促す。
「ジェラルド様がアーヴィン様にお会いした際に、こっそりと伝言を託されたと聞いておりますわ」
「こっそり、か。……ねえ、アーヴィンは今どこにいるの?」
「見張り付きで大神官様の近くにおられるようです」
「村には戻ってきてないのね」
「はい。先ほど神殿を覗いてみましたけれど、他の神官が代理として派遣されているようでしたわ」
「ふうん……」
やっぱり、とローゼは心の中で呟く。
ローゼは王都から来た一団に知り合いなどいない。大神官が神殿関係者とローゼを会わせたくないと考えるなら、アーヴィンだけを見張っていれば用が済む。
そして同時にローゼは自分の勘が正しかったことを確信した。やはりアレン大神官はローゼを聖剣の主にしたくないのだ。
「……それで、アーヴィンからの伝言って何?」
「ええと……」
真剣な表情になったフェリシアは、こほん、と咳払いをひとつ。
「聞きたいことがあるのなら、このあと会おう」
妙に太い声で言ったのは、もしかしたらジェラルドという人の声真似かもしれない。
再びにこりと笑い、フェリシアは元の優美な声に戻す。
「だ、そうです」
「会えるの? だってアーヴィンにも見張りがいるんでしょ?」
「なんとか抜け出すと聞いておりますわ。……いかがなさいます?」
「会う」
そもそも情報が少なすぎて困っていたのだから、会って話をしてくれるというのは願っても無いことだ。
言い切ったローゼに、フェリシアがうなずく。
「分かりました。では行かれる際にローゼ様は変装してくださいませね。きっと見張りがいますから」
「あたしにまで?」
「大神官様はローゼ様の動向も把握したいはずですもの。でも、ご安心くださいませ。わたくしが途中まで一緒に参ります。見張りはきちんと誤魔化してみせますわ」
「……あなただって神殿の関係者でしょう?」
「ええ。でも先ほども申し上げました通り、わたくしは今回の一団と関係ありませんもの。大神官様もわたくしの存在を把握しておりませんわ」
どうしてそう言い切れるのか不思議だった。罠の可能性も考えたが、ひとつ首を振ってローゼは腹をくくる。
疑っていても仕方がない。ローゼはフェリシアを信じると決めた。あとは、とことん信じるだけだ。
「じゃあ、お願いするわ。で、アーヴィンとは、いつ、どこで、どうやって、会うの?」
「このあとすぐにお会いできます。落ち合う場所は森の小屋と聞いてますわ」
「森の小屋……」
ローゼは頬を引きつらせた。
グラス村の北と南には森があり、どちらにも何か所かの狩猟小屋が置かれている。
しかしローゼはこの六年、北の森に足を向けていない。嫌な思い出があるためだ。おまけに小屋となると、絶対に行きたくない場所が一か所あった。
「……どこの森のどの小屋か聞いてる?」
「北の森の、最も東側――」
「そこは駄目」
顔が赤らむのを感じながら即座に言い切ると、フェリシアが首を傾げる。
「どうして駄目なのです?」
「どうしても! そこは絶対に、絶対に! 駄目なの!」
「ですがアーヴィン様が指定なさったのは、北の森の、最も東側の小屋ですわよ」
「いやああああ!」
フェリシアの言葉を遮るようにして叫び、ローゼは座っていた寝台にうつ伏せになって枕を抱えた。