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8話 北の森

 アーヴィンと会うなら確かにあの場所は打ってつけだ。しかし逆に言うと、アーヴィンと会うからこそあの場所は絶対に嫌だった。

 そしてもちろんローゼが避けていると分かっているからこそ、アーヴィンは敢えてあの場所を選んだような気がする。


 ローゼは六年前から、というより、アーヴィンがこの地へ来てから北の森には行っていない。それに関してはアーヴィンも気にしていたのだろう、最近では精霊の本を片手に書庫から出てきたローゼへ「久しぶりに北の森へ行ってみてはどうか」と声をかけることもあった。

 もちろんローゼはそのたびに「絶対に行かない」と答えていたのだが。


「だからって! こういう大事な時に! わざわざあそこを選ぶ? アーヴィンの馬鹿! 意地悪! 大っ嫌い!」


 枕に顔を押し付けながらくぐもった声で叫び、寝台をばふばふと叩いていると、背後からはフェリシアの不思議そうな声が聞こえた。


「では行かなくてよろしいんですの? お会いできるのはきっとこの一回きりですわ。一度抜けだしてしまうと監視の目は厳しくなりますもの」

「ううううううう」


 枕に顔をうずめながらローゼは苦悩した。


 北の森、特に一番東の小屋には一生近寄りたくない。

 しかし行かなければ行かないで、『聖剣』に関する情報が手に入らず困ることとなる。それこそ、ローゼの一生を左右する大事な出来事だ。


 激しい葛藤の末、ローゼはのろのろと頭を起こした。


「……行く」


 フェリシアはにっこりと微笑んだ。


「変装の準備が出来るまでお待ちしていますわね」


 しかし変装と言われてもどうしたら良いか分からないし、さほど時間も無い。仕方なくローゼは背格好が似ている下の弟、テオの服を借りることにした。

 一応は階下に向かって「テオ!」と呼びかけてみるが、どうやら家の中にはいないようだ。


(イレーネが気を利かせて追い出したのね)


 ローゼの部屋を覗こうとする男ふたりを妹が理由をつけて家から追い出す、その姿を思い浮かべながら「はいるねー」と意味の無い声を出したローゼは、テオの部屋から素早く服を取り出す。

 部屋に戻って着替え、くるくると髪をまとめて帽子をかぶると、ローゼは一応は男性に見えるはずだ。

 自身の“薄めの体形”がここで役に立つとは思わなかった。少々複雑な気分で胸元を押さえてから今まで着ていた服をしまうと、ローゼは微笑んだまま座るフェリシアを振り返る。


「どうしてそんな薄い服だけしか着てないの?」

「王都ではこのくらいの服で十分なんですの」


 道中の寒さは神殿騎士の装束であるマントでなんとかなったらしいが、確かに『友達の家へ遊びに来た女の子』を装うのに神殿騎士の装束を着るわけにはいかない。


 本で読んでいたからローゼも国内の気温差は知っていた。しかし実際に他の地域から来た人をこうして目の当たりにしたり話を聞いたりすると、より一層の実感が湧く。


(地図で見たことはあったけど、アストラン王国って広いのね)


 グラス村でフェリシアのような格好ができるのは最低でも来月だ。


「そんな服装で寒くないの?」

「少し肌寒いですけれど、大丈夫ですわ。鍛えてますもの」


 フェリシアはそう言って胸の前でこぶしを握るが、鍛えていたら寒くないというわけでもないだろう。


「良かったらこれ着る?」


 ローゼが上着を差し出すと、フェリシアは大きな瞳を瞬かせた。


「……よろしいんですの?」

「別にいいよ」


 ローゼの言葉を聞いたフェリシアはとても嬉しそうな笑顔を見せて立ち上がり、まるでそこにあるのが宝物かのような手つきでローゼの上着を受け取った。くたびれた上着をそんな風に扱われて、ローゼの方が少々気恥ずかしい。

 小柄なフェリシアが羽織ると、ローゼの上着は予想通り少し大きかった。年齢差があるからだろうか。


「そういえばあなたって、歳、いくつ?」

「十六ですわ」

「えっ」


 二つ三つ下かと思っていたが、どうやら一つしか違わなかったらしい。

 上着を着たフェリシアは腕を曲げたり伸ばしたり、くるくる回ったりと楽しそうだったが、彼女を見つめるローゼの視線に気づいたのだろう。ハッとした表情を浮かべると、照れたように笑って「行きましょうか」と促した。

 朝靄の中を歩く男装ローゼとフェリシアは、恋人同士ということにしてある。せっかくだからそれらしく手を繋ごうかと言うと、顔を輝かせたフェリシアは何度も何度もうなずいた。


 グラス村の人々は農業を中心として生活しているので、この時間だと畑に行く人々で往来は多くなる。ローゼはなるべく人目につかない場所を選んで歩きながら村の出口を目指す。

 境界の石壁が徐々に近づいてきたところで、フェリシアがローゼの耳に手を当てて囁いた。


「ひとり、尾行が来てますわ」


 思わず顔の強張るローゼだが、フェリシアは変わらずにこにことしている。


(そ、そうね。あたしは今、彼女と楽しく散歩してる男の子よ)


 引き攣る頬をむりやり動かし、ローゼもなんとかもう一度笑みを作る。そのローゼの手に、フェリシアがそっと小さな包みを渡してきた。


「これは何?」

「とても大事なもの。神官の身分証ですわ」

「……もしかしてアーヴィンの?」

「ええ。その身分証は本当に大事なものですの。ちゃんと届けてくださいませね」


 村の門が見える辺りでそう言って立ち止まり、フェリシアはローゼと向かい合う。


「ここでお別れです。今いる尾行は、わたくしにお任せくださいませ」

「うん、ありがとう」

「上着は必ずお返しいたします」


 そう言ったあとのフェリシアの笑みが寂しそうに見えた。ローゼは何かを言おうと思ったが、その前にフェリシアは大きく息を吸って、


「酷いですわ!」


 と叫んだかと思うと身を翻し、来た方向へ小走りに戻って行く。唖然とするローゼが見守る中、小柄な体は途中で道を逸れて木の陰に入った。続いて「うわっ!」という男性の声が響いたので、おそらくそこに尾行がいたのだろう。

 言い合う声を聞きながらローゼも駆け出す。門の脇にある建物で老衛兵がのんびりと茶をすすっている姿を横目で確認しながら北出口を抜け、六年ぶりの北の森へ入った。


 途端に足取りが重くなる。


 森の中なのだから平地と同じようには走れないのは当然だが、もしここが平地であっても同じだったはず。これはローゼの気持ちの問題だ。

 他の場所なら何も考えずに行けるのだが、北の森という場所、しかも待ち合わせ場所が『最も東側にある小屋』なのが悪い。更に待ち合わせの相手はアーヴィンとなればローゼにとって最悪の組み合わせだった。


 小さく呻きながらローゼは止まりそうになる足を叱咤する。

 鬱蒼とした木の中にちらつくのは、六年前の自分とアーヴィンの幻だ。


 今から七年ほど前、グラス村で神官の任に当たっていたのは年配の女性だった。

 三十年近く村にいた彼女は「ここに骨をうずめる」といつも言っていたし、彼女を慕う村人たちも同様に考えていたのだが、物事はそう上手くいかなかった。

 強大な魔物が出た際に彼女は大怪我を負い、王都の大神殿へ戻ることになってしまったのだ。


 新しい神官が来る、と連絡があったのはくだんの女性神官が村を離れて幾月も過ぎてからだった。今度の神官は十八歳の男性になったという。

 どんな人物なのかと村の皆がそわそわしていたが、しかし彼は村へ到着する予定の時刻を過ぎても姿を見せなかった。


 初めは「少しくらい遅れることもあるだろう」とのんびり構えていた村人たちだが、神官は夜になっても現れず、翌日の朝を迎えてもまだ来ない。途中の町からの連絡時期から考えるとこんなに遅れるはずはなく、ようやく村人たちも焦りを見せ始める。

 数日前には村の付近で魔物が出たばかりだったこともあり、もしかしたら神官に何かあったのでは、という話まで持ち上がった。


 それを聞きつけた村の子どもたちの中で「神官様を自分たちで見つけよう」と最初に言い出したのは誰だったか。

 ほとんどの子が「大人たちよりも先に見つけられたら自慢になる」というわくわくした気持ちを持っていて、それはローゼも例外ではなかった。魔物が出たばかりだったので少し怖かったが、面白そうだという気持ちには勝てず、神官を探しに出かけたのだ。


 それが間違いだった。

 もしもローゼがあの頃に戻れたとしたら「絶対に探しに行っては駄目! どうしても行きたいなら北の森以外にしなさい!」と自分にきつく言い聞かせただろう。

 しかし何も知らない十一歳のローゼは神官を探すために北の森へ行ってしまったのだ。


(あのときも……)


 薄暗い森を歯を食いしばって歩きながら、ローゼは思う。


 六年前のあのときにローゼが北の森へ来たときも、今と同じくらいの時間で、今と同じように薄暗かった。

 そうしてそれが原因で、ローゼは『最も東側にある小屋』の横から現れた人影を魔物と勘違いし、恐怖で腰を抜かして――あろうことか、“小さいほう”を漏らしてしまったのだ。


 恐慌状態に陥った自分を辛抱強く宥め、落ち着かせてくれたのは、当の“人影”だった。

 それが若い男性で、なおかつ新しい神官だったと知った時のローゼの気持ちは、「恥ずかしい」「みっともない」「悔しい」などという言葉をいくら並べても足りない。


 真っ赤になって、うつむいて、座り込んだまま何も言わずに顔を覆うローゼ見た神官は、ありがたいことに深く追求してこなかった。

 そうして彼はローゼの気を楽にさせようと考えたのだろう、村へ来る道中のことを話しながら、立てないローゼを抱き上げて小屋の中へ入れてくれた。ローゼが汚れた服を脱ぎ終わると、外で待っていてくれた彼は「これにくるまって待っているといいよ」と言い、自分が羽織っていたマントを渡してくれた。


 それだけでもありがたいのに、彼はローゼの家まで行ってくれたらしく、汚れ一つない服まで持ってきてくれた。

 なのにあろうことかローゼは、服を着た後に黙って帰ってしまったのだ。


 汚れた自分を抱えたせいで神官服に染みが付いたのをローゼは見ている。

 つまりローゼはみっともない姿を晒し、神官服を汚し、なのに謝罪も礼も言わず黙って立ち去ってしまったことになる。


 なんて礼儀知らずな娘だろう。


 分かっていても漏らしたことの方が恥ずかしくて、家へ向かうローゼの足は止まらなかった。一方で、とても申し訳なかったのも事実だ。

 二つの気持ちが整理のつかないまま頭の中でぐるぐる回り続けたせいで、ローゼは家に帰ってすぐに熱を出して倒れてしまった。これによって『神官が神殿でおこなった初めての挨拶』にすら行かないという大失態まで犯し、ますます神官に謝罪と礼を述べる機会は遠のいてしまった。


 もしも神官が汚れた服のまま皆の前に姿を現していたら、ローゼは恥ずかしさのあまり死んでいたかもしれない。さすがに汚れた服は着替えたようで、父から「神官様の服はどこも汚れてなかった」と聞いたときはほっとしたが。


(だけど、あの時のあたしったら最低。……本っ当に、最っ低よ……)


 結局、ローゼが恥ずかしさを乗り越えて新しい神官に会えるまでには、半年ほどかかった。アーヴィンの側から歩み寄ってくれなければもっと時間が必要だったかもしれない。生きていれば神殿に関わらずに済むわけはないのだから、半年で済んだのはとてもありがたいことだ。

 ただし北の森や、『最も東側にある小屋』には行けなくても人生に支障はない。だからずっと避けていたというのに。


(まさかこんな理由で行くことになるなんて!)


 帰ってしまおうかと何度も思ったが、手の中にあるアーヴィンの身分証が回れ右を許さない。

 仕方がないのでなるべく小屋を見ないよう顔を下へ向け、何度も自分を鼓舞し、ゆっくりとではあるが着実に前進したローゼは、実に六年ぶりに小屋へ到着した。

 肩で息をしながら勢いをつけ、一気に扉を開く。


 中には誰もいなかった。


(……うそ……)


 脱力しそうになるのをこらえて扉を閉めようとしたとき、


「来てくれて良かった」

「っ!」


 後ろから声が聞こえたのでローゼは文字通り飛び上がる。

 長い褐色の髪を揺らして立っているのはアーヴィンだった。

 彼は昨日と同じ青い神官服を着ている。


「なっ、なんでっ?」

「私もちょうど来たところなんだよ。偶然だね」


 穏やかに言って中へ入るアーヴィンだが、なんとなく「ちょうど来たところ」というのは違う気がして仕方がない。


(本当は、近くであたしの様子を見てたんでしょ!)


 言ったところでアーヴィンは否定するだろう。しかしローゼには自分の考えが間違っていないという確信があった。


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