目が覚めたローゼの目には見知らぬ天井が映った。どうやら寝台で横になっているようだ。
辺りは暗いから時刻は夜のはずで、ならば自分が寝ていたのも道理だが、ローゼは寝台に入った記憶はない。いったい何が起きたのかを思い出そうとしたものの、考えはうまく
なにしろ、とても良い気分だったのだ。
左側は壁だったのでローゼは右側に視線をやる。真っ先に目に入ったのはすぐ近くの壁に立てかけられている聖剣だ。その少し奥には机があって、アーヴィンが本を読んでいた。目覚めてすぐにアーヴィンを見かけるなんて初めての経験だった。
「あれ、アーヴィンだー。どうしているのー?」
彼の横顔に向って思っただけのつもりだったのに、声に出していた。しかも声はなんだか間が抜けていて面白い。ローゼがくすくす笑っていると、本を閉じたアーヴィンが立ち上がる。
「目が覚めたんだね」
彼は寝台の横に来てローゼの額に手を当てる。その冷たい手がが心地良い。
「気分は?」
「なんかね、すごーくいい気分。ふわふわしてる」
「ああ……その程度で済んで良かった」
ほっとしたようなアーヴィンの声を聞いてローゼは不思議に思う。こんなに気分が良いのに、自分は何か心配されるような状態だったのだろうか。
「あたし、どうなったの?」
「また後で教えるよ。とにかく今はお休み」
アーヴィンが額から手を離そうとしたので、ローゼは思わず神官服の袖を握った。
「やだー、眠くないー。あたし、アーヴィンとお話しするー」
「いま話をしても、次に起きたときローゼは全てを忘れているよ」
「頑張って覚えてるもん! ねえ、いいでしょ?」
「仕方ないな」
苦笑したアーヴィンがうなずいたので、ローゼも笑って袖を放す。
アーヴィンは先ほどまで座っていた椅子を枕元に引き寄せ、腰かけた。
「眠くなったら、いつでも眠って良いからね」
「うん! あのね、聞いて。あたしさっきまで、レオンとエルゼが話すところみてたの。それでね、昔のこの村のことが分かっちゃった。昔だけど、神殿は同じなんだよ。それでね……」
先ほどまで見ていた夢を思い出して、ローゼのふわふわした気分は少し沈む。
「エルゼも神官様も、ずっと悲しそうだった。ふたりともレオンのことを思ってるのに、レオンには全然届かなくて、結局悪い方向に進んじゃったの」
話しながらどんどん気持ちが沈み、ローゼの目からは涙があふれてくる。
「でもね、一番ダメなのはね、レオンなの。だけどレオンもそのことは分かったみたいだから、あたしはもう言わないでおいてあげようって決めたの。ねえ、アーヴィン。あたし、偉い?」
「うん、偉いよ」
褒められてローゼは嬉しくなる。沈んだはずの気分が上がってきたので、目に涙をためたまま、えへへ、と笑った。
「それでね、あたし、思ったの。気持ちって、ちゃんと伝えた方がいいなって」
なんで気持ちを伝えた方がいいと思ったのかはよく思い出せない。でも、今はふわふわして気分がいいから気にならない。
「喧嘩しちゃうのは良くないから、悪い気持ちはあんまり言わない方がいいと思うのね。でも、ありがとうとか、好きとか、嬉しいとか、そういう良いことは、もうちょっと言おうかなって思うの。どう?」
「いいと思うよ」
「やっぱり!」
意見を肯定されて、ローゼの気分はさらに高揚する。
「んーと、そしたらみんなに、もっといろいろ言わなきゃ。うちの家族でしょ、ディアナでしょ、乙女の会のみんなでしょ、フェリシアでしょ。それからもちろん、アーヴィンにも!」
そこでローゼは、アーヴィンに言うべき言葉を思い出した。
「そうだ、アーヴィン。あのね、あたし、最初に会ったとき、神官服汚したでしょ、ごめんなさい。すぐに謝らなきゃいけなかったのに、なかなか謝れなかったのも、ずっとずっと、ごめんなさい……」
申し訳なさでいたたまれなくなるローゼだが、アーヴィンは微笑んでくれる。
「気にしていたのか。ありがとう、だけど大丈夫だよ。ローゼに悪気がないのは分かっているし、私は汚れるのにも慣れているから、何とも思わなかったよ」
「慣れてる……の……? 汚れるのに……?」
アーヴィンはうなずくが、ローゼの頭には違和感が湧き上がってきた。
確かに神官は汚れることがある。怪我をした人が血を流しながら神殿へ来ることもあるし、畑で倒れた人を抱えたりもするからだ。他にも、老人の落とし物を拾うために泥にまみれているアーヴィンを見かけたことだってあった。
この村で何年も経ってから、ということなら「慣れている」という言葉に違和感はない。しかしローゼが神官服を汚したのはアーヴィンがグラス村に来てすぐのことだ。そんなことがこの村の前にも頻繁にあったのだろうか。王都という大きな都市の、神官が修行をする大神殿で? それとも。
だけどふわふわとした頭ではやっぱり考えが纏まらない。
「……違うでしょ?」
もどかしさで泣きそうな気持ちになりながらもなんとかローゼが言うと、アーヴィンは首をかしげた。
「違う?」
「……うん。分かんないけど、慣れてるっていうのは違う気がする。……だって普通なら、汚れなんて、そんなに……慣れるほど、なんて……」
なんとか考えて、考えて、ようやくローゼは言葉を引っ張り出した。
「……麻痺……」
なんだかその言葉は少ししっくりくる気がした。
「ああ……そっか、麻痺しちゃったんだ……」
「麻痺?」
「うん、たぶん、アーヴィンは慣れてるんじゃないの。気持ちが麻痺しちゃってるの。だから汚れても、なんにも感じないの……」
息をのむアーヴィンの表情を目にして、ローゼは自分の勘が正しかったことを知る。だけどそれはとてもとても寂しいことだ。
「慣れるくらいいっぱい汚されてきたの? いっぱい嫌なことをされたの? 誰がアーヴィンにそんなヒドイことをするの? ねえ、アーヴィン、教えて。もしもアーヴィンが嫌なことを『嫌だ』って言えないなら、あたしが代わりに言ってあげる。あたし、アーヴィンのことが好きだから、アーヴィンに嫌がらせをする人のことは絶対に許さないもん!」
アーヴィンはしばらくローゼを見つめる。やがて小さく息を吐くと、ゆっくり首を振った。
「いいんだ」
「でも!」
「ありがとう、ローゼ。気持ちはとても嬉しいよ。でも本当に、いいんだ」
そのままアーヴィンは考え込むように目線を下げ、黙り込んだ。
ローゼは不安になってくる。もしかして自分は悪いことを言ってしまったのだろうか。困って一緒に黙ったままでいると、アーヴィンが顔を上げてローゼを見た。彼の表情に暗いところはなかったので、ローゼは安堵して力を抜いた。
「ところで今、ローゼが私のことを好きだと言ってくれたように思うけど、もしかして聞き違いかな?」
尋ねる彼の声は笑みを含んでいた。改めて問われると少し恥ずかしい気がしたので、ローゼはごまかしの言葉を言おうとする。しかしその時、頭の奥で誰かの声が響いた。
『もっと早く伝えたかった。こんなことになる前に。まだ、あなたと私が生きているうちに』
そうだ。ローゼが「皆に気持ちを伝えよう」という気持ちになったのはこの言葉を聞いたからだ。思い出したから、ローゼはにっこりと笑って言う。
「聞き違いじゃないよ。あたし本当は、アーヴィンのことが好き。頑固で意地悪だけど、でも本当は優しくて、あたしのことちゃんと見ててくれるアーヴィンのことが、大好きなの!」
言われたアーヴィンはローゼに笑みを向ける。それは今まで見たことのない極上の笑みだった。
「ありがとう。私もローゼのことが大好きだよ」
彼の嬉しそうな声は、笑みと合わせてローゼの心の奥底まで打った。ローゼは「キャー!」と叫びながら足をバタバタさせる。
「アーヴィンがそんな風に言ってくれるなんて思わなかった!」
「そうかな」
「うん! アーヴィンは誰の気持ちにも応えるつもりがないでしょ? だっていつか村を出て行くからね!」
彼の表情が強張った。
「……どうして、出て行くと……」
「えー、分かるよー。アーヴィンって、ちっとも『約束』してくれないもん。約束しないのは、守れないかもしれないから。なんでしょ?」
「それは……」
「ごまかさなくていいよ」
足の動きを止めたローゼはまっすぐにアーヴィンを見つめる。彼は耐え切れなくなったかのように横を向いた。
「だけど、ひとつだけ約束して。いなくなるときは必ず別れの挨拶をする、黙っていなくならない、って。……じゃないと、あたし……きっと、アーヴィンのことを、諦め、きれな……」
ローゼの意識はそこで途切れてしまったので、アーヴィンがどんな答えを返してくれたのかを聞けなかった。