ローゼは自室として過ごしている客間を通りすぎる。廊下に神官の姿を多く見るようになってきたのは、そちら方面が『大神殿の中で最も人が多く行きかう場所』だからだ。
やがて窓の外に大きな姿が見えて来た。あれこそが今の目的地、神木だ。
傾いた強い色の日差しを浴びて、元より金色がかった大樹はさらに美しく光り輝いている。
旅の途中でジェラルドからは「十人の大人が手を繋いでも囲めないくらい太い幹」と聞いていたが、確かにとても太い。そして「高さはそこまでじゃない」との言葉もまったくその通りで、一番下の枝ならローゼもつかめそうなほどの場所にあった。
「でも、上の方の枝はずいぶんと上にあるね」
聖剣からの答えはない。やはり「行く」と言い切ったものの、彼には複雑な気持ちがあるのだろう。
レオンは四百年前にこの枝を故郷に植えようとした。第二の神木を故郷の村に作ろうとしたのだ。そして枝を取るためにひとりの貴族の人生を変え、自身の破滅も導いた。
先ほど、薬を作りながらミシェラは教えてくれた。
「神木には魔物を寄せ付けなくする力もあるわ。だけどそれは神木の力、というわけではないの」
「でしたら何の力なんですか?」
「神の力よ」
よく分からなくて首をかしげるローゼに、ミシェラは柔らかく微笑んでみせる。
「神木が神木と言われる一番の理由はね。木が大神殿にあるからよ。もしも他の場所にあったら違うものになるかもしれないわ」
そうしてミシェラは語る。
神木とはもともとただの木であったのだと。
そこに神が力を授け入れたことにより、不思議な力を持つことになったのだと。
「木は、どんな力を持ったのですか?」
「それはね。与えられた力を、うんと強くする力よ」
「はい……?」
「あの木が神木と言われているのは、神の力を与えられているからなの」
神木が植えられているのは大神殿の大聖堂、その裏手に当たる場所だ。
大聖堂の中に入ると中央に道があり、左右には長い机と椅子がある。そうして奥に祭壇があり、その向こうの壁には神々の像と、大きな窓がある。神木はその窓から見えるそうだ。ローゼはまだ大聖堂に入っていないのでよく分からないが、ミシェラは「神木を中心として左右に神の像がある姿はとても荘厳な雰囲気」なのだと教えてくれた。
「村の神殿で祈りを捧げる対象は神々の像でしょう? だけど大神殿では、神木にも祈りを捧げているの」
「神木が神の奇跡の象徴だからですか?」
「そうね。それと、もうひとつあるわ。神木を『神木』として維持するためには、多くの神官や神殿騎士の祈りが必要だからなの」
「多くの祈りが? じゃあもし、神木に与えられる祈りが少なくなったり、あるいは、その……神木の枝をどこか違う町や村に植えたら、どうなりますか……?」
後半部分の声が小さくなってしまったのは、もしかしたら怒られてしまうかもしれないと思ったからだ。なにせ折り取った神木の枝は「禁忌の枝」と呼ばれている。神官たちにとってもこの話は禁忌である可能性もあった。
だけどミシェラは不快な顔をしなかった。むしろ「あなたは昔から好奇心が旺盛だったものね」と懐かしそうに笑い、その後でふと真面目な顔つきになる。
「祈りの力が少なくなると、広く張った木の根には充分な神の力が行きわたらなくなるでしょう。そこに違う性質の力が与えられた場合、神木は違う性質の木に変化するかもしれないわ」
「違う性質の力? でも、神官様。神々以外の別の力なんて……」
そこでローゼは気がついた。
(力を強くする木……弱い神の力……そして、禁忌の……)
じわりと嫌な考えが頭の隅に忍び寄る。そのローゼの様子を見たのだろう、ミシェラはうなずいた。
「あなたの考えは当たっているはずよ。――与えられる神々の力が弱くなってしまった木の近くで大きな
言われてローゼはごくりと唾をのんだ。
もしも神木が闇の力に
「神の力が与えられた今の状態だけを見るのならば、とても良い存在に思えるでしょう? でも神木という存在が維持できているのは、多くの神官や神殿騎士の祈りの力があるからなのよ。神木はそれ単体で『神木』と呼ばれているわけではないことを覚えておいてね」
「はい……」
ローゼは遣る瀬無い気持ちでうなずく。
実際に四百年前のレオンはどこかで半分だけ話を聞いてしまって大いに誤解をしたのだし、旅の途中のローゼも同じように考えた。だけど実際にはずいぶん想像と違っていたようだ。
ミシェラからの話を聞いている間、レオンは何も言わなかった。あのときの彼は何を思っていたのだろうか。そして今、神木へ向かっている彼は。
【俺もちゃんと知っておけば良かった】
ローゼの横から弱い声がした。
【……いや、例えあのときは知らなかったとしても。村にもどったとき、エルゼの話を聞いておけば……】
レオンの声は段々と小さくなり、最後の言葉は聞こえなくなった。ローゼは黙ったまま神木を見上げ、頃合を見計らって「帰ろうか」と声をかけてみる。レオンからは「ああ」と小さく戻ってきたがそれだけだ。
以降は歩きながら話しかけてもほぼ答えが戻ってこなかったので、ローゼは彼の心の中を思いつつ廊下を進む。
部屋に戻ると机の上には小さな紙が置いてあった。ローゼの世話をしてくれる神官が置いて行ってくれたものらしい。
伝言は、フェリシアからのものだった。そこ手紙には、
『追加訓練も終わって時間に余裕ができましたの。よければ明日の昼過ぎ、寮まで遊びに来ていただけますかしら?』
と書かれていた。
それで翌日のローゼは大神殿の中をレオンと共に巡り、時間を見計らって神殿騎士見習いの区域へ足を踏み入れた。廊下には数字の書かれた扉がずらりと並んでいて、これがすべて神殿騎士見習いたちが住む部屋だ。
神官も神殿騎士も見習い期間中は寮に入ってのふたり部屋となる。修行を終えて見習いの文字が取れたのなら、別の区域にある個室が割り当てられるらしい。
「ですがわたくしと同室だった方は二年前に家庭の事情で退寮なさいましたの。今はわたくしひとりで部屋を使っておりますから、ローゼも気兼ねなくいらしてくださいませね」
とフェリシアは言っていた。
ローゼはいつもどおり廊下のつき当たりまで進み、一番奥の扉を叩く。中から可憐な彼女が顔を覗かせると、薄暗い廊下もパッと輝くような気がした。
「お待ちしておりましたわ、どうぞ!」
フェリシアは大きく扉を開き、ローゼを招き入れる。
入ってすぐの左手は水回り部分だ。ここでフェリシアはお茶の準備をしてくれる。
そして入口の正面にあるのは机と椅子。ローゼはフェリシアとここで談笑することが多い。
机と椅子の奥にある空間は見習いたちの私的な場所だ。左右の壁に沿って箪笥、勉強机、寝台がそれぞれ並ぶ。向かって左側の列はフェリシアが使っているために様々なもので賑わっているが、右側の列はがらんとしていて寂しい。ここを使っていた神殿騎士見習いは二年前に退寮しているのだから当然だ。
しかし今日はそこにふたりの女性がいた。
見知らぬ人物を見て思わず立ち止まるローゼの背中を、フェリシアは優しく押す。
「心配いりませんわ。あの人たちはわたくしのお母様の侍女ですの」
「えっ?」
「ローゼのお召し替えを手伝っていただきますのよ」
「はっ? なに? お召し替え?」
「先日申し上げましたでしょう? 練習しましょうねって」
先日、とローゼは呟いた。
(そういえばローブの裾を踏みそうで怖いと言ったら、フェリシアが練習しようって……)
「……本当にローブを用意したの? だってあたしの背とか、太さとか」
「大体のところは分かりますわ。それにこの方たちはお針も得意ですの、多少の大きさが違いはすぐに調節できましてよ」
「そっか、ありがとう。じゃあ今日はその話を聞いて終わりってことで、練習はまた次回にしようか。じゃあね、フェリシア」
扉の方へ行こうとするローゼの先回りをしてフェリシアが扉に鍵をかける。その姿をじろりと睨み、ローゼは呟いた。
「遊びに来てって言ってたのに練習だったなんて。騙された」
「あら、遊びみたいなものですわ。気楽にやりましょう」
微笑んだフェリシアがローゼの腕をしっかりと掴む。さすがに神殿騎士見習い、ローゼの力では振りほどけそうにない。
「女性が着替えるのですもの。聖剣は一時お預かりして、あちらで布をかぶせておきますわね」
それを合図にしたかのように、侍女がてきぱきと動いて机や椅子を移動させる。
さすがに三対一では逃げられなさそうだとため息をつき、ローゼはフェリシアと練習することにした。
用意されたローブは足首まであり、前よりも後ろが長くなっている。胸元はゆったりと空いているが、これは首元までの中着を合わせて着用するためらしい。加えてローブよりも長く後ろへ引くマントも用意されていた。
フェリシアはローゼの姿を見ながら侍女に指示を出す。彼女たちは器用に身幅、主に胸元を詰めていった。
「まずはこれで仮といたしましょう。あとは脱いでから直すことにしますわね」
胸元のよれを直しながらフェリシアがくすりと笑う。
「ローゼったら、そんなに情けない顔をしなくても大丈夫ですわ。このローブはものよりずっと動きやすくなっていますのよ」
「……え?」
「当日のローブは刺繍がかなり多いはずですわ。加えて飾りですわね。首飾りやマント留め、頭飾りに腕輪、全部合わせた重さはかなりのものになるはずですもの。ですが安心なさって。練習では、ローゼの上達ぶりに合わせて少しずつ重みを増やしていきますから」
「なんか今、気になる言葉が聞こえたような気がするんだけど」
「あら、何か気になりましたかしら」
「少しずつ、って言ったよね」
「言いましたわ」
首をかしげて覗き込んでくるフェリシアからは、悪意も意地悪さもまったく感じない。
「まずはローブに慣れるところから始めていただく予定ですもの、最初は飾りを使いません。ですがそのうち飾りもご用意いたしますわよ」
「……やっぱり儀式は普段着にしてもらおうかな」
「何か言いまして?」
「ううん、なんでもない……」
深くため息をつくローゼに、フェリシアが力強く宣言する。
「そんなに落ち込まなくても平気ですわ。今から何度も練習すれば当日は綺麗に歩けるようになります。さあ、わたくしもお付き合いいたしますから頑張りましょう、ローゼ!」
そこまで言われては仕方がないとローゼは腹をくくることにした。
正直に言うならば、着た直後にはローゼだって滑らかな服の肌触りを楽しむ余裕があった。しかしいざ練習が始まってみたら動くのに精いっぱいで、感触を楽しむどころではない。
さらに教師フェリシアによる指導は思ったよりも厳しいものだった。歩き方だけでなく、姿勢、止まり方、裾のさばき方などあらゆる面で叱責をもらい、彼女の「はい、駄目ですわ」ばかりが部屋に響く。ようやくフェリシアが「少しはマシになりましたから、今日はここまでにしましょう」と言ってローゼがよろよろと部屋を出る頃、空は茜色に染まっていた。
「……疲れた……練習初日からすでに疲れた……」
【そうか? 案外楽しそうだったぞ】
「レオンは耳がわるくなったんですか?」
聖剣にはずっと布をかぶせてあったので、声や音が聞こえていただけのはずだ。
そこでふとローゼ疑問に思う。
「そういえば目も耳もないのにどうやって見たり聞いたりしてるの?」
【……まあ、なんとなく】
「へえ。じゃあ暑さ寒さも分かったりするのかな? そのうち暖炉にでも突っ込んであげるね」
【やめろ】
「冬になったら雪に埋めてみるのもいいかな」
【練習の
「だってさあ……あれ?」
客間へ続く廊下にいるのはローゼの世話をしてくれている神官だ。彼女は何やらきょろきょろとしていたが、廊下の端から現れたローゼの姿を見つけるとホッとしたように近寄ってくる。
「良かった、ファラー様……あら、今日はお稽古の日でしたか。随分お疲れのようですね」
「ええと、確かに稽古といえば稽古……いえ、何かありましたか」
「ブロウズ大神官様がお呼びでいらっしゃいます。ご一緒にお越し願えますか」
ローゼは首をかしげた。セルマ・ブロウズは五人の大神官の中で唯一の女性だ。しかしローゼは大神殿に来てから彼女と一度会っただけ、以降の接点はない。
「何があったんですか?」
「用件に関しましては、大神官様が直接お話なさるそうです」
「……ええ~……」
大神官からの呼び出しというとローゼには悪い印象しかない。
グラス村の出来事を思い出して「