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8話 儀式の朝

 こうしてローゼはいよいよ『その日』を迎えた。

 本番である儀式は朝のうちに行われ、昼からは大神殿内で各国の大神殿から訪れた客との挨拶、そして夕方からは王宮でお披露目会が開かれる。


 朝早くに起こされたローゼは湯浴みをさせられたあと、体中に香油をすりこまれた。

 あらかじめ聞いていたこととはいえ、数人がかりで体をあれこれされるのはやはり恥ずかしい。最初は抵抗したのだが、結局は無駄な体力と時間を使っただけで終わった。

 入念な前準備が終わると次は着替えだ。

 美しいローブだと聞いてはいたが、確かにそれは言葉を失うほどに美しいものだった。


 形状はフェリシアとの練習で使ったものとほぼ同じ。中着を使用するので、胸の辺りは広く開いている。ゆったりとした袖は手首まであり、裾は後ろの方が前より長め。羽織るマントはそれより長い。

 ただ、練習の時と違うのは美しい刺繍だ。銀糸をたっぷりと使った繊細で豪華な刺繍が全体に施されている。わずかに動かすたびきらきらと輝く様子を見ていると、まるで光自体をまとっているかのような錯覚に陥るほどだ。


 このローブだけでも充分に美しいのに、さらに装飾品が加わる。

 首飾り、腕飾り、指輪。


「宝冠は儀式へ向かう直前に飾りますね」


 煌びやかな黄金の宝冠を箱から取り出して台に載せ、場を仕切る女性神官が微笑む。


「さ、まずは髪を結いましょう。ですが素晴らしいお色ですもの、全部結い上げてしまうのはもったいないから……」


 女性たちが協議した上で、ローゼの髪は一部を結い上げて残りは背に流すことになった。

 髪油を使って櫛でかし、横と後ろの髪の一部を綺麗にまとめてくれる。


「こんな美しい色の髪は初めてです」

「やわらかくて手触りがいいですね」


 口々に褒められるのはくすぐったいし恥ずかしいが、それでも嫌な気分はしない。


「いかがです?」


 見せられた鏡の中では確かに赤の髪は白のローブと相まってとても美しく見えた。その技術はさすがの一言に尽きる。

 彼女たちは最後に薄く化粧を施し、「時間になったらお迎えにあがります」と言い置いて退出する。


 そして控室にはローゼひとりきりとなった。――いや。ローゼと、あともう一振り。


【すごく綺麗だぞ】


 白い鞘に収まった聖剣から声がする。


【いよいよ本番だ、しっかりやれよ。なにせ今日はお前が主役なんだ】


 彼の声色はいつもと違って緊張している。

 それを聞いて、ローゼもごくりと唾を飲んだ。


「主役。……そうよ、今日は本番で……人がたくさんいて……。うわ、どうしよう。緊張してきた。レオンのせいよ」

【なに? そんなこと言うならもう二度と励ましてやらん!】


 機嫌が悪くなったレオンの声は無視をして、ローゼは冷えた手を握り合わせる。

 部屋の中で少し歩いてみた限りでは、練習の成果もあって悪くない動きにはなっていると思う。しかし実際に長距離を移動するとなるとどうだろうか。奇妙な動きになったり、あるいは裾を踏んで転んだりするかもしれない。

 歩き方だけではない。ほかにも宣誓の言葉を述べるときに噛んでしまうかもしれないし、手が震えて聖剣を落としたりするかもしれないのだ。

 余計なことばかりが頭の中を占めて叫びたくなったちょうどそのとき。遠慮がちに扉が叩かれて、ローゼは肩を震わせた。


 もう出番が来たのかと思ったが、時計は予定よりもずっと早い時間を示している。

 案内の神官以外は誰も控室に来ることはないはずだと首をひねりながら返事をしたが、外からは答えが無いし、扉が開く気配も無い。仕方なく立ち上がったローゼは自分でそっと扉を開き、次に目を疑った。


 廊下にはひとりの男性が立っていた。

 青い神官服を着ていて、さらさらとした褐色の髪を陽に透かし、理知的な灰青の瞳を持っている。

 そして彼は耳に心地よい、低く穏やかな声で言った。


「久しぶりだね、ローゼ」


 それは紛れもなく、グラス村にいるはずのアーヴィンだった。


 唖然とするローゼは無駄にぱくぱくと口を開いては閉じ、幾度目かにようやくかすれた声を出す。


「……どうしてアーヴィンが大神殿にいるの?」

「セルザム神官がグラス村にいらしたんだ。しばらく滞在してくださると仰るので、代わりに私が来たんだよ」

「神官様が……」


 ミシェラの言う別件とはこれだったのか、とローゼは思う。このところ彼女の姿を見かけなかったのは、グラス村へ向かっていたからなのだ。

 なぜ彼女がそのような行動を取ったのか理由は気になる。しかし今は理由の追求など今はどうでもいい。


 遠く離れた地にいるはずのアーヴィンが、目の前に立っているのだから。


 実感が湧くにつれてローゼの胸の奥が熱くなる。それは鼓動に乗って全身に伝わり、喉を震わせ、目頭をツンとさせた。

 潤んでくるローゼの視界にただひとり映る彼に、この弾む気持ちを伝えたい。どう伝えたら良いのか分からないし、何を言っていいのかも分からないけれど、とにかくローゼの気持ちを分かってほしい。

 それで「あのっ」と言いかけたけれど、当のアーヴィンはローゼの瞳を見て「ごめん」と呟き、なんとも形容しがたい複雑な表情を浮かべて横を向いてしまった。


「悪かった、ローゼ。セルザム神官のお考えを知っていたのなら絶対にお止めしたのにと、私も悔やまれて仕方がないよ」


 ローゼにはアーヴィンの言いたいことが分からなかった。

 小さく首をかしげていると、横を向いたままでアーヴィンは話を続ける。


「私がセルザム神官のお考えを伺ったのは、グラス村までお越しになってからのことだった。もちろん私はすぐお帰りになるように申し上げたんだよ。だけどセルザム神官は馬車でお越しで、移動は馬よりも日数がかかるからと仰せになってね。今からではもう儀式に間に合わないとのことだったので、私が来るしかなかったんだ。仕方がなかったんだよ」


 ローゼはしばらくのあいだ黙って瞬いていた。

 やがてアーヴィンの言った内容が心の底に落ちていくにつれ、ローゼ自身も地の底へ落ちていくような気分になる。


「……来るしか、なかった? ……仕方がなかった……?」

「そう。私はローゼの儀式に来るつもりなんてなかった。本当だよ」

「……来るつもりなんて……なかった……」


 ローゼが弱く返した言葉ふたつともにアーヴィンがうなずいている。その事実がローゼを冷たく刺した。

 よろめきそうになるローゼのからは今しがたの浮き立つ気持ちなんてとっくに霧散してしまっている。目からこぼれ落ちそうな雫の理由だって、胸の奥が引き裂かれたように痛いせいだ。


「そっか。アーヴィンは、儀式に出席したくなかったのね」


 唇から漏れ出たのは消え入りそうなほどに小さな細い声だった。アーヴィンは目元に力を入れ、それでもローゼを見ずに言う。


「そんなことはないよ。でも、ローゼはきっと私ではなく――」

「アーヴィンは大神殿に来たくなかったのね。ここにいるのは神官様に言われたから仕方なく、なのね。……ほ、本当は、本当は……あたしになんて、会いたく、なかったのね……」

「いいや、違う」

「嘘なんて言わなくていいわ」

「嘘じゃないよ」


 わずかな躊躇いの後にアーヴィンはようやくローゼの方を向く。


「ローゼにも会いたいと思っていたし、儀式にも出席したいと思っていた」

「本当に?」

「もちろん。自分が大神殿務めでなかったことを悔やんだのは、初めてだ」


 灰青の瞳に宿る真摯な光が嘘ではないと告げている。それがローゼに刺さった冷たいものを溶かしていった。


「……そっか。来たくなかったんじゃないなら、良かった」


 深く息を吐いたローゼが頬を緩ませると、アーヴィンが眩しいものを見るかのように目を細めた。グラス村では彼のこんな表情を見た覚えがない。ローゼの胸は再び高鳴りはじめる。――先ほどからローゼの気持ちは忙しくて仕方がない。それもこれも儀式前の緊張のせいだろうか。


「あ、ええと、そうだ。ねえ、アーヴィンはいつ大神殿に着いたの?」

「三日前だよ」

「……は?」


 嬉しさからまた一転、ローゼの口調は強くなった。


「え? 三日前? 三日前にはもう、アーヴィンは大神殿にいたってこと?」

「そう」


 あっさりうなずかれてローゼはアーヴィンに一歩詰め寄る。履いているのは華奢な靴だというのに、石の廊下を踏む足音は意外なほど大きくなった。


「あたしはずっと大神殿にいたのよ。三日前から大神殿にいたなら、会いに来てくれてもよかったんじゃない?」

「色々あったんだよ。儀式の手順の確認とか、挨拶回りとか」

「へえええ? いろんな人たちに挨拶する時間はあっても、知り合いあたしに挨拶する時間はなかったんだ!」

「……ローゼをがっかりさせたら悪いと思ったんだ」

「何それ! がっかりするわけないでしょ! アーヴィンのばか! ばかばかばか、大馬鹿! 大っ嫌い!!」


 会いに来てくれなかったのは確かに残念だが、どうしてこんなに腹が立つのかは分からない。頭の冷静な部分はそう言っているが、ローゼの心の大半は怒りが占めている。その感情のまま彼に背を向け、部屋の中に入り、「馬鹿!」「嫌い!」と叫んでいると、背中越しに扉の閉まる音がした。

 振り返るとアーヴィンも部屋の中に入ってきている。なんだか思い切ったかのような彼の表情にたじろいだローゼが小さく「馬鹿」と呟いたのを最後に室内は静かになった。


 そのとき、大きく開かれた窓から入り込んだ風がアーヴィンの褐色の髪をふわりと揺らす。ふんだんに差し込む光が青い服の金の刺繍を輝かせ、あたりはまばゆく照らされた。

 だから微笑むアーヴィンを真っすぐに見られないのはきっとそのせい。彼の笑顔が村で見ていたものよりずっと優しくて、ローゼのすべてをとろかせるほどにあたたかいからではないはずだ。


(……今日のあたしったら、本当に、どうしちゃったの?)


 不思議な気持ちを抱えたままうつむき、両手をにぎり合わせていると、アーヴィンに名を呼ばれた。


「ローゼ」


 彼の方を直視すると眩しくて目が潰れてしまうかもしれない。

 それでおそるおそると顔をあげると、片手を胸に当てたアーヴィンが、もう片方の手をローゼに向かって差し出していた。

 その姿は神官というよりも、物語で見た貴公子のようだ。


「良かったら、これをもらってほしい」


 低く優しく囁く声も、ローゼが初めて聞く艶があった。

 本当に、今日のアーヴィンはどうしてこんなにも『初めて』が多いのだろう。

 うっとりとしていたローゼは、しばらくしてからハッと肩を震わせ、差し出された革袋に視線を落とした。


「……あ、な、なに?」

「今回のお祝いだよ。本当は古の聖窟から戻って来たときに渡せたら良かったんだけど、思ったより時間がかかって今になってしまった」

「そ、そんな、気を使ってくれなくて良かったのに。でも、ありがとう」


 ローゼが差しだした手の上に、アーヴィンはそっと袋を載せてくれた。

 開けてみると中には細い銀の鎖でできた三連の腕飾りが入っている。光に当ててみると複雑な色合いに輝き、動きに合わせて「しゃらら」と涼やかな音が鳴る、とてもとても美しい腕飾りだ。


「うわあ……素敵。すっごく、素敵……こんな綺麗な色、あたし見たことがない!」

「特殊な銀で作ったんだよ。守りの力も籠めてあるし、何かあった時には換金することもできると思う」

「え? これ、アーヴィンが作ったの?」


 問い返すと、彼は少し下を向き、恥ずかしそうにうなずく。そんな表情を見るのだって初めてだ。


「ありがとうアーヴィン。とっても嬉しい。この腕飾り、ずっと大事にするわ。絶対に手放したりなんてしないから!」


 ローゼが腕飾りを胸に抱くと、アーヴィンは微笑み、「大聖堂でローゼの姿を見守っているよ」と言ってくれた。



   *   *   *



 こうして、ローゼの左手首には銀色の輝きが加わった。

 日に透かして鼻歌を歌っていると、レオンの苦笑交じりの声がする。


【……まあ、緊張してるよりはいいか】


 ちょうどそのとき扉が叩かれた。儀式の開始を告げる神官たちが来たのだ。

 彼女らに宝冠をかぶせてもらい、ローゼは控室を出る。

 広い回廊には生真面目な表情をした神殿騎士たちがずらりと立っていて、横を通るときに中の大柄なひとりが小さく親指を立てた。


 ローゼが大聖堂の前へ着いたところで鐘の音が鳴り響く。それを合図に大聖堂の大きな扉が左右に開いた。中には儀式の参列者たちの姿がある。向かって左側が青い衣を着た神官たちで、右側が白い鎧の神殿騎士たち。

 最奥で新たな聖剣の主を待っているのは黄金の刺繍をほどこした白い神官服の大神殿長と、十柱の神々の像、そして大きな木だ。


 鐘の音が終わると、神官と神殿騎士たちが膝をつく。

 彼らの間にある白い道を、天から降り注ぐたくさんの光を受けながら、ローゼはゆっくりと歩き始めた。


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