グラス村の神殿の前では、集まった人たちがそわそわしている。中でも一番前に来ているのはファラー家の女性陣だ。別にミシェラがこの位置まで呼んだわけではないのだが、彼女たちはもともと『面白いこと』に目が無い。
普段ならこっそり苦笑するところだけれど、今日に限ってはミシェラにとって非常に都合が良かった。
「大事なお知らせってなんですか、神官様?」
「もう少し待ってね」
ミシェラ・セルザムはそう答えて空を見上げた。すっきりと青い空には雲ひとつない。きっと王都だって同じような空になっているとミシェラは信じている。
――だって、あの子の晴れ舞台だもの。
あの子。
聖剣の主になった村娘、ローゼ・ファラー。
ミシェラがグラス村で過ごした三十年余りの間でも、ローゼという娘は印象深い村民のひとりだった。
赤い髪と赤い瞳という珍しい容姿はもちろんだが、何より内面が風変りだったのだ。
ときおり突拍子もないことをやりだしたり、意外なことに興味を持ったり。聡いこともあるが逆に妙なところで鈍かったりとなかなかつかみどころがないあの娘は、安穏とした暮らしを望む村人の中では珍しく外に対しての好奇心をあふれんばかりに持っていた。瞳を輝かせながら話を聞くローゼに対し、ミシェラは密かに「この子にはもっと広い世界を見せた方がためになるのではないか」とさえ思ったこともある。
まさか聖剣の主に選ばれるとは夢にも思わなかったが、それでも最初に大神殿でその名を聞いたとき、心のどこかで納得したのも事実だった。
ようやく大神殿で彼女と会えたとき、以前と変わらず自分を慕ってくれていたのは嬉しかった。
美しく成長したローゼ。
あの娘はきっと、儀式でも素晴らしい輝きを放つだろう。
その姿が見られる日をミシェラはとても楽しみにしていたのだけれど――。
そこまで考えてミシェラはこっそりため息をついた。
いや、あのときの様子からすれば向かったのは確かだ。ただし到着してもローゼには会わないかもしれない。こっそり儀式に参加して、終わり次第帰ってくるのではないか。そんな予感すらしていた。
――だけどそれでは意味がないのよ。
せっかく儀式に参列する権利を譲ったのだから、きちんとローゼに会ってほしい。会わずに戻ってくるなど論外だ。
* * *
七年ぶりのグラス村が遠くに見えたとき、馬車を操るミシェラの目には涙が浮かんでいた。
何しろミシェラは三十年以上もこの村で暮らしていたのだ。怪我さえなければ骨を埋めようとさえ思っていた場所を目にして感慨深くないはずがない。
不安があるとすれば「突然去ってしまった自分を村の皆がどう迎えてくれるか」ではあったが、村に入った途端にそれはいらぬ心配だったとすぐに分かった。何しろ村人たちのあげる歓声ときたら、あの王都の賑わいにも負けないのではないかと思えるほどだったのだ。
さらに声を聞きつけてどんどん周りに人が増えるものだから、村に入っていくらも経たないうち馬車はまったく進めなくなってしまっていた。
「ありがとう、ありがとう! 私もみんなに会えて本当に嬉しいわ。でも少し待っててちょうだいね、私には先にしなくてはいけないことがあるの。それが終わったらゆっくりお話しましょう」
そう言って一度村人たちと別れて神殿に入ったミシェラは、驚く神官補佐に短く問いかけ、もらった答えの通りに書庫へ入る。
中にいた若い神官は人の気配に振り返り、目を見開いて、本を持ったまま小走りに近寄って来た。
「もしやセルザム神官でいらっしゃいますか?」
「ええ。久しぶりね、レスター神官」
「お久しぶりです。急にどうなさったのです? いつグラス村へ?」
「たった今ついたところ。足のせいで馬に乗れないから馬車だったの。思ったより時間がかかって遅くなってしまったわ、ごめんなさい。さあ、早く準備をして」
「準備?」
一転して怪訝な表情になった彼の手からミシェラは本を取り上げる。
「これは後で私がやっておくわ。時間がないのだから急いで」
「お待ちください。どういうことですか?」
「決まっているでしょう」
近くの机に本を置き、ミシェラは両手でアーヴィンの背を押す。
「あなたは大神殿へ行くのよ」
「大神殿へ? なぜです」
「聖剣の主の儀式に出席するためよ」
「……どうして私が?」
「どうしてって……いいからとにかくあなたが出席するの。もう大神殿側の手はずは整えてあるからあとは行くだけなのよ。引継ぎもいらないわ、神官補佐たちに聞くから。――ほら。早く」
「お待ちください。なぜ私が大神殿へ行くのか、理由をお聞かせください」
「だから……ああもう」
予定よりも到着が遅くなってしまったことに対し、ミシェラはアーヴィンに対し本当に申し訳なく思っていた。もしも自分が馬で移動できていたのならグラス村への到着はあと何日かは早かったはずだと。
だからこそほんの少しでも急いで出発してほしいのに、この青年神官は説明を求めるばかりでなかなか動かないのだ。
結局ミシェラは話をするために、応接室で彼と向かい合うことになってしまった。
「あらまあ!」
応接室にある物の配置はミシェラがいたころと変わっていない。懐かしくてあれこれ見てしまいたくなるが、しかしそれもすべて後回しだ。まずはアーヴィンに動いてもらわなくてはならない。
頑強に椅子をすすめるアーヴィンは、ミシェラの足を気遣っているのだろう。仕方なく黙って従うけれど、ミシェラとしてはそんなことよりさっさと準備をしてほしかった。
「大神殿でローゼに会ったの」
「ローゼに」
赤い髪の娘を思い浮かべたのか、アーヴィンの顔にうっすらと笑みが浮かぶ。
「彼女は元気にしていましたか」
「ええ、元気よ」
問題はいくつかあるが、いらぬ心配をさせるものではないだろうと思い、ミシェラはその一言に留めておく。
「もうじきあの子は大神殿から正式に聖剣の主として任命されるわ。その儀式に関してのことは、あなたも知っているわよね?」
例え出席はできなくとも、町や村の神殿には大神殿の行事や出来事が鳥を介しての文書で伝えられる。ローゼが主役となる儀式のことも例外ではない。
しかも今回、各集落の神殿は『儀式が終わった時刻に“新たな聖剣の主”が誕生した旨を民に告知する』という重要な役目を負っている。当の聖剣の主が誕生したグラス村の神殿がその準備を進めていないわけがない。
「グラス村のことは私がやるわ。あなたは大神殿で行われる儀式に出るの。今から村を発てばなんとか儀式の時間には間に合うはずだから、早く準備をして大神殿に向かってちょうだい」
「……先ほどからそのように仰っておられますが……でも、なぜ、私が……」
「あの子はあなたが行った方が嬉しいんじゃないかと思うからよ。分かったらほら、急いで」
ミシェラがそう言うと、アーヴィンはとても複雑な表情を浮かべる。
「ローゼはあなたのことをとても慕っていました。儀式にいらっしゃらないと分かれば気落ちするでしょう」
「そうだと嬉しいわね。でもそれ以上に、あなたの姿を見て喜ぶわ。間違いなくね」
大神殿で再会を喜んでくれたローゼと話をしているうち、ミシェラには分かったことがある。
どうやら彼女には、自分の晴れ姿を一番見て欲しい人物がいるようなのだ。それも、故郷の村の神殿に。
ならば新たな聖剣の主が『最も喜ぶ贈り物』をしようと思ってミシェラは大神殿を後にした。もちろんそんなことを言えるはずもなくて適当に誤魔化したのが悪いのか、当の人物である彼はミシェラの提案に対しやっぱり首を縦に振ってくれない。
「私は行けません。お気持ちには言葉も無いほど感謝いたしますが……」
変わらぬ答えに焦れたミシェラは作戦を変える。わざとため息を吐き、なるべく悲しそうに呟いた。
「そう……分かったわ。あなたは儀式になんて出たくないし、ローゼにも会いたくなかったのね」
「まさか!」
思わず、と言った具合に叫んだ彼に対してうなずき、ミシェラは扉を指してみせる。
「だったら早く支度をしていらっしゃい」
ミシェラの瞳を少しのあいだ見つめていた彼はようやく決心したのだろう。立ち上がり、礼の言葉もそこそこに身をひるがえす。応接室から出て行った彼の足音に続いて離れた場所の扉が開閉し、またすぐに扉が開く音がした。実は荷物をまとめてあったのではないかと思うほどの速度だ。
そのまま裏庭へ向かった足音をミシェラが追いかけると、彼は立派な葦毛の馬に馬具を装着し終えて荷物を括り付けているところだった。
「今回の話はハイドルフ大神官に伝えてあるわ。あの方が良いように計らってくれるはずだから、大神殿に到着したら指示を仰ぎなさい」
「分かりました。ありがとうございます」
一礼すると、アーヴィンは馬に乗って駆け去る。
その後ろ姿を見送りながらミシェラは笑みを浮かべた。
(本当に。……あの子“たち”がねえ)
最後にアーヴィン・レスターと会ったのは今から六年ほど前、王都の大神殿でのこと。
グラス村へ赴任が決まったのだといって前任のミシェラへ挨拶に来てくれたのだ。
神官というのは各集落にとって欠かせない存在となっている。
それは神聖術が使えるから、知識を持っているから、という単純な理由だけではない。神が人々の心の拠り所になっているのと同様に、神官もまた人々の心の拠り所になっているためだ。
それなのに、経験豊富なミシェラの次にグラス村へ赴任する神官は、見習いが開けたばかりの十八歳の青年だった。
本来ならば、見習いから昇格したばかりの神官がすぐに任地へ赴くことはない。数年は他の神官の下で経験を積み、その後に改めて任地が決定されるものだ。
しかしグラス村へ行く神官がどうしても見つからなかったため、大神殿は特例としてこのアーヴィン・レスターを行かせることにしたのだと聞いた。
アーヴィンは見習いの期間を通してずっと成績もよかったらしい。
しかしミシェラが気になったのは、穏やかな笑みを浮かべる彼の瞳の中に濃く落ちた影だ。
大事な村を任せるのが彼で大丈夫なのかとずっと気をもんでいたが、どうやら要らぬ心配だったらしい。毎月くれていた手紙が少しずつ厚くなっていったのと同様に、彼の瞳の影は少しずつ取り払われていったのだろう。
それはきっとこの村のおかげ。そうして。
(……あんな表情ができるのだものね)
「まさか!」と叫んだとき、そして馬に騎乗したときのアーヴィンの顔を思い出し、ミシェラはくすりと笑う。
彼の瞳の影が薄れた一番の理由、それは、もしかしたら――。
カラン、カラン、と澄んだ鐘の音が鳴る。
考え込んでいたミシェラは顔をあげ、次いで南の方へ向けた。
ついにこの時が来たのだ。
今ごろ王都では、赤い髪の娘が晴れ舞台に立っているだろう。
そして彼はミシェラの代わりに彼女を見守ってくれているはずだ。
二人の姿を
「みんな聞いてちょうだい! 今日はとても