「びっくりした。いつからいたの?」
ローゼが聞いても、アーヴィンはチェスターの後ろ姿を不愉快そうに見たままだ。
「あの男は女性を連れていたね。もしかしてローゼは遊ばれているんじゃないのか? ……ああ、それとも、複数の妻を持つつもりなのか……貴族だから」
後半はどこか独り言のように言い、アーヴィンは深く息を吐く。
「ローゼの気持ち次第だから、私がとやかく言うことではないけどね。でもできれば、相手の男性には――」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
慌てて言葉を
「結婚式を挙げるのはあのふたり。あたしは単なる招待客よ」
それを聞いてアーヴィンは、なんだ、と言って安堵の表情を浮かべる。逆に彼の近くへ寄ったローゼは顔をしかめた。
「やだ。変なこと言うと思ったらお酒飲んでるのね。大丈夫? ちょっと座ろ?」
長椅子に置いた聖剣を避けて場所を示すとアーヴィンは大人しく座る。ローゼもその横に腰かけると、花より強く酒が匂った。やっぱり変だ、とローゼは内心で呟き、アーヴィンを窺う。暗がりでうつむく彼の顔色はよく分からないが、赤くはないように見える。
「ねえ、どうしたの?」
「どうとは?」
「だって……」
ローゼは口ごもる。何がどう、とは説明しづらいが、アーヴィンの表情も、空気も、なんだか妙な気がした。
そもそもアーヴィンは酒に弱い。一口で真っ赤になり、真っすぐ立っていることさえできなくなる。それが分かっているからアーヴィン自身も祭りや祝い事の場でだって基本的に酒は飲まないし、村人たちも無理に勧めたりはしない。
だというのに今の彼からは酒の匂いがする。普段なら考えられないほどの量を飲んだらしい。こんなことは初めてだ。もしかしたら王都の甘い酒は、村の苦い酒と性質が違うのだろうか。でも、それにしたって。
「……何かあったの?」
不安になったローゼが尋ねると、アーヴィンは少し微笑む。
「別に? 私だって、たまには飲んでみようと思う時くらい――」
アーヴィンが続けて何か言おうとしたとき、彼の褐色の髪がさらりと前へ落ちかかった。途端に彼は口を閉じ、ぎゅっと眉を寄せ、忌々しそうにそちらを睨みつける。
ローゼの胸が嫌な風にどくりと鳴った。こんな彼の表情だって今までに見たことがなくて、思わずアーヴィンの顔を覗き込む。
「やっぱり変よ。どうしたの?」
ローゼの顔を目にしたアーヴィンは少し表情を和らげ「なんでもない」と言いながら首を振る。
しかしその動きに合わせて胸まである髪がさらさらと前に流れてくると、彼の顔は再度険しくなった。
ローゼはきゅっと手をにぎり、立ち上がる。そして仕度をしてくれた神官に心の中で謝りながら、自分の髪に結んであったリボンを一本だけほどいた。
神殿に所属する者たちは髪を伸ばす決まりになっているので、神官や神殿騎士たちもみんな髪は長い。邪魔になるときは紐などで結んでいる姿を見かけることもあるが、正式な場では流すことになっている。実際に今日の儀式やお披露目会でも神殿関係者たちは誰も髪に手を加えていない。例外は今回のローゼのように、式の主役となって飾りたてる時くらいだ。
しかし、今のアーヴィンは妙に髪を気にしている。それならこっそり結んでしまっても良いのではないかとローゼは思った。
手探りでほどいたリボンは薄黄色の幅の広いものだったので、アーヴィンが使うには可愛いすぎる気がした。そこで折って幅を細くしたものを渡そうとし、ふと思いなおす。
「アーヴィンの髪に触ってもいい?」
尋ねるとアーヴィンは驚いたように目を見開いたが、すぐにうなずく。それを見てローゼは立ち上がり、彼の髪に初めて触れた。手から伝わるさらさらとした感触が気持ち良くてずっと触っていたくなったが、別にローゼはアーヴィンと“特別な関係”ではないのだからそうもいかない。
できるだけゆっくり、しかし落ちてこないよう慎重にしっかりと結び、念のために少し引っ張って確認もする。大丈夫だと確認を終えたところで名残惜しくも長椅子へ戻ると、彼の表情は既に落ち着いていた。
「アーヴィンの髪って初めて触ったけど、見た目通りさらさらね。やっぱりあたしの髪と交換したいわ」
気分を変えるために明るく言って笑うと、引き込まれたかのようにアーヴィンも笑う。
「雨の日にはよくそんなことを言ってたね」
「うん。だって髪が全然言うこと聞いてくれないし……」
そう言って雨の日の苦労を思い出し、ローゼは思わず顔をしかめた。
ローゼの髪は癖があり、柔らかい。そのせいで湿気の多い日はまとまらなくて非常に苦労する。ちっともいつも通りにならない髪に鬱々としながら神殿に行くと、湿気など気にも留めない様子で髪を流してるアーヴィンがいるのだ。それでローゼは何度か「あたしの髪と交換してよ」と八つ当たりをしたこともあった。
「色だけなら気に入ってるのよ。だからこの色のまま、アーヴィンみたいにさらさらだったら最高なのに、っていつも思うわ」
言ってローゼはため息をつく。
髪や目の『赤』はアストラン国の西側で主に見られる色だが、大半は『赤みがかった』くらいなので、ローゼほど鮮やかな色を持つ人はほとんどいない。よって村に居たときはもちろんのこと、大神殿でも賛美をもらうことが多く、ローゼにとってこの赤色は密かな自慢でもあった。
「あ、でもね。アーヴィンの髪の色もいいと思うのよ。日に透けた時なんてすっごく素敵なんだから。自分じゃ分からないでしょ?」
ローゼが笑顔で言うと、アーヴィンはとても意外そうな面持ちをする。そして目を伏せると小さな声で言った。
「……そんな風に言われたのは初めてだ」
「ふーん? じゃあアーヴィンも、今から自信を持つといいわ」
「それは難しいな。私は自分の髪が嫌いなんだよ」
「嫌いだったの? 全然気が付かなかった」
「そうだね。しばらくはその必要がなかったんだよ。でも、嫌いだということを思い出したから……」
アーヴィンの声は悲痛なほどに沈鬱だった。何か言った方が良いのかと思うが、どう声をかけて良いのか分からない。
それで結局、目の前の花々に目を向けたままで共に黙っていた。
しばらくすると、アーヴィンが小さく「ごめん」と呟く。
良く分からないなりにローゼが、ううん、と答えると、彼はかすかに微笑んだ。
「そういえばどうしてこんなところに? 大広間ではローゼを探している男性が多かったよ」
「ああ……」
それを聞いてローゼは遠い目をする。
「その男性陣から逃げてきたのよ。なんかね、賭けが
「賭け?」
「うん。あたしと最初にダンスする人は誰か、っていうの」
先ほどまでの状況と熱気を思い出し、ローゼは少し眉を寄せる。
「ものすごくたくさんの人に誘われたのよ。ひっきりなしに男の人が来るせいで行列が途切れなくて……そうね、最後まで二十人以上が並んでたと思う。すごいでしょ」
「すごいね。なのにローゼは誰とも踊らなかった?」
「うん。ローブは重いし、邪魔だし、踊り方だって知らないし。だから『踊らない』に賭けたジェラルドさんは儲かると思、う、わ……っ、何!?」
半ば悲鳴をあげつつローゼが奇妙な形で立ち上がったのは、右腕が強引に引っ張られたせいだ。見ると立ち上がったアーヴィンがローゼの右腕を掴んでいる。
「では、私と踊ってもらえるかな?」
口調は軽かったが、懇願するような響きがあった。少し迷うが、ローゼは首を横に振る。
「言ったでしょ。あたし、踊れないの」
「村祭りではローゼも踊っているだろう?」
「あれとは全然違うじゃない」
大広間では向かい合った多くの男女が優雅に踊っていた。そこに村祭りの陽気な踊りで参加するわけにはいかない。場違いだし、ほかの人の邪魔にもなる。そう言ったのに、アーヴィンは引いてくれない。
「そんなものを気にする必要はないよ。好きなように動けばいいんだ」
「無茶言わないでよ」
「では、あそこで踊ろうか」
アーヴィンが顔を向けたのは、庭園の中央にある、少し開けた場所だ。
「村の広場みたいで、大広間より気楽だろう?」
「えっ、えっ、えええっ?」
そうしてアーヴィンはローゼの腕をつかんだまま、半ば強引に歩き出す。
【おい、こいつ変じゃないか?】
レオンの声は戸惑っているが、ローゼだって戸惑っている。何しろアーヴィンがグラス村に来て六年というもの、こんな姿を見たことがない。
少し前、聖剣の二家との話し合いから連れ出してもらった時はいつも通りだったはずだ。この短時間で彼に何があったのだろう。
「ねえ、やっぱり酔ってるの?」
「そういうことにしておこうか」
目的の場所に到着すると、アーヴィンはローゼから離れて
それは大広間で見たいくつかのダンスとは違う気がする。先ほど自分で言った通り、アーヴィンは好きなように動いているのかもしれない。
しかし彼がダンスを知らないわけではないだろうとローゼは思った。何しろ動きに無駄がない。それはきっと基礎がしっかりしているからだ。だからこんなに自由に動けるし、踊り方を知らないローゼまで巧みに動かしてくれる。
(だけどなんで、王宮で踊るようなダンスを知ってるの?)
アーヴィンは神官になってすぐグラス村に来たのだと聞いている。見習いの間は王宮へ行くことはないはずだ。
(……じゃあ……どこで、いつ、覚えたの……?)
それはローゼの知らない、過去のアーヴィンに関係しているのだろうか。
今まで見たことがないアーヴィン。酒を飲み、髪を疎み、優雅なステップを踏む。
踊る彼はとても楽しそうだが、それは晴れやかな笑顔というわけではない。なにもかもを失った者が刹那の快楽に溺れるような、そんな退廃的な明るさを感じさせる。
アーヴィンになにがあったのかを聞きたい。だけど聞けるはずもない、聞いてしまうのが怖い。その気持ちのせいでローゼは、こんなにも近く、こんなにも長い時間、彼と触れ合ったままだという事実にさえ、なんの感情も抱かないままだった。
そうして黙って踊り続け、どれくらい経っただろうか。
「お探しいたしました、ファラー様!」
「――――様」
互いの背後からそれぞれ声が聞こえる。
ローゼに呼びかけているのは男性だ。声を聞いたことがある。確かハイドルフ大神官の側近くによくいる神官だったはず。
一方でアーヴィンを呼ぶのは、白いドレスを着たあの女性だ。途端にアーヴィンは体を強張らせて動きを止め、ローゼの手を離した。夜風が通り抜けていく、この距離が哀しい。
「お披露目会が終了となります。そろそろお戻りください」
「約束のお時間になりましたわ」
彼女はゆっくりと近寄って来て、アーヴィンの背後に立つ。
「さあ、参りましょう」
そして勝ち誇ったような笑みを浮かべ、視線をゆっくりローゼへ向けた。だけどローゼが彼女の態度に何の気持ちも抱かなかったのは、アーヴィンが微笑んでいたからだ。
彼の笑みを目にするこの気持ちを、どう表現して良いのかローゼには分からない。ただ、胸が苦しくて苦しくてたまらない。アーヴィンはどうしてそんなに切なそうに微笑うのだろう。
「残念だけどここまでだね。皆を待たせるわけにはいかないから、行った方がいい」
「……アーヴィンは?」
ローゼは思わず左手で彼の手を取る。なぜだか離してはいけない気がした。
それを目にしたアーヴィンがぐっと唇に力を入れたのでローゼは彼が何かを言ってくれるのを期待したが、アーヴィンは結局小さな息だけを吐き、ダンスの要領でローゼをくるりと回転させた。ローゼからは彼の表情が見えなくなった。
そうしてアーヴィンはやんわりと手を離す。ローゼの左手首にある銀の鎖が、しゃら、と音をたてた。とても小さいのに、妙に耳に残る音だった。
「楽しかったよ。ありがとう、ローゼ」
アーヴィンがそう言って優しく背中を押すから、ローゼは焦りの表情を見せる男性神官の方へ一歩を踏み出す。
そのときだった。
背後から強い力でぐっと腕を掴まれる。何が、と思う間もなくアーヴィンが耳元へ顔を寄せ、
「――さようなら」
途端にローゼの足から力が抜けた。
いや、足だけではなく、まるで体が溶けてしまったかのように力が入らない。
ぐるぐる回る視界はどこが地で、どこが空なのかすら分からなくなっている。
だけどすぐ背後にいるはずの、つい今しがたまで手を取り合っていたはずの彼は、ローゼに手を差し伸べたりしなかった。
男性神官が駆け寄って来て「大丈夫ですか」と言っているように思う。だけど呆然とするローゼには何も聞こえない。それは耳の奥でたったひとつの言葉がこだまし続けているせいだ。『さようなら』と。
アーヴィンに何が起きたのかは分からない。
だけどたったひとつだけ、なぜか確信できることがある。
このあとローゼが何度グラス村に戻っても、褐色の髪をした神官が出迎えてくれることは、もう二度と、ないのだ。