ローゼがまず向かったのは浴場だ。まだ化粧を落とす前に泣いてしまったので酷い顔になっているに違いない。こんな状態でフェリシアに会っては驚かれてしまう。
そうして部屋へ戻り、寝台に座ったが、潜り込む気にはなれなかった。
静かなレオンと共に朝を迎え、ローゼは黒い鞘に入った聖剣を携えてフェリシアの部屋へ向かう。
顔を出したフェリシアは浮かべていた満面の笑みを、
「おはようございます、ローゼ! 昨夜は――」
と言いかけて、消した。
「……どうなさいましたの?」
「うん……あの……アーヴィンが……庭園で、いなくなって……」
言いかけて鼻の奥がツンとしてくる。震える唇をおさえるためにローゼは一度つよく噛まなくてはいけなかった。
「ジェラルドさんが、話してくれるっていうから、事情。だけど夜はまずいし。それでフェリシアに、部屋を教えてもらいたくて」
切れぎれに出した言葉はめちゃくちゃなものになったけれど、フェリシアは眉をひそめたり問い返したりしなかった。
「分かりましたわ、お兄様の部屋ですわね。一緒に参りましょう」
「でも、フェリシアは、見習いの訓練が」
「まあ大変。わたくし今日は頭痛と腹痛と腰痛がとてもひどいんですの。これでは訓練は無理ですわね。ということで用意をしてきますわ。少し待っていてくださいませ」
一度部屋に戻ったフェリシアは紙を持っていた。それを途中の見習いの部屋にさしこんでいたので、誰かに伝言を頼んだのだろう。
神殿騎士達が住む建物は、見習いたちの寮から見て北東の方向にある。いくつかの建物を見ながら道をすぎ、最後に曲がると、そこには見習いの寮よりももう少し大きい建築物があった。これが神殿騎士たちの住む場所だ。
その中に入ったフェリシアは階段をあがり、ひとつの扉の前で立ち止まる。大きく息を吸い、フェリシアは通る声で呼ばわった。
「お兄様、フェリシアです。ローゼと一緒ですの。入りますわよ」
言うや否やフェリシアは返事も待たず勢いよく扉を開けた。鍵はかかっていなかった。
中から悲鳴のような叫び声が聞こえ、ばたばたと音がする。
「フェリシアちゃん、いつも言ってるだろ? 返事くらい待ってくれって!」
奥の部屋からジェラルドが上半身だけを出した。裸だ。ローゼは咄嗟に視線を下へ向けたのだが、フェリシアは慣れているのだろう。腰に手を当てて呆れたように言う。
「わたくしもいつも言っておりますわよね。『来客があると分かっているときは、きちんとした格好でお待ちください』って」
「普通の客は返事を待つから服を着る暇くらいあるんだよ! ったく」
ぶつぶつと文句を言いながら仕度を終えたジェラルドはふたりを中へ招く。ローゼだけではなくフェリシアもということは、一緒に話を聞いて構わないのだろう。
大雑把に片付けられた部屋の中央には四角い机と椅子があって、そこへローゼとフェリシアが並んで座る。ジェラルドは座らず、隅の手押し台の上で何かを始めた。
「悪いなあ、ローゼちゃん。結局は振り回すだけの結果になっちまってさ」
「いえ。……連れて行ってくださってありがとうございました」
やがて湯の沸く音が聞こえ、ふんわりと芳しい香りが立ちのぼった。フェリシアが喉の奥で小さく唸ったので隣を窺うと、彼女は少し悔しそうな顔をしていた。
「ただ、奴のことに関しては俺もそんなに詳しく知ってるわけじゃねえ。情報源としての期待はあんまりしないでくれな」
「……はい」
ローゼはなにひとつ分からないのだから、どんな些細な話だってありがたい。知ったからといって何かできるかどうかは別問題なのだけれど、知らないでいるよりもずっと心は落ち着くはずだ。
おっとっと、と言いながらジェラルドは三つのカップを持ち、それぞれの椅子の前にひとつずつ置く。それは今までフェリシアが淹れてくれたどのお茶よりずっと香りが高い。
『彼は大雑把だけれど、お茶を淹れる技術だけは大したものなんだよ』
あの日に聞いた穏やかな声がよみがえり、ローゼはまた唇を噛みしめなくてはいけなかった。
「さあて。どっから話すかなー」
言いながらジェラルドはちらりとローゼを見た。それが「そちらから質問してほしい」という合図に思えて、ローゼは唇から力を抜く。
知りたいことはたくさんある。だけど起きた出来事が未だに現実のように思えなくて、何から聞くべきか分からない。
「……ジェラルドさんが連れて行ってくださったあの屋敷って、誰のものなんですか?」
それで直近の出来事に関して尋ねてみると、ジェラルドは茶を一口含み、飲み下し、少し上を見て、答えた。
「あそこはシャルトスっていう家のもんだ」
姓を聞いてもローゼはまったく分からない。だけど横に座るフェリシアが「まさか!」と声を上げた。
「シャルトスって、あのシャルトスですの? どうして――」
「フェリシアちゃんや。俺はローゼちゃんと話してんだがなぁ」
声に含まれているのがいつものように困った調子だけだったらフェリシアも話を続けたのだと思う。だけど今回は珍しく“咎め”に加えて“威圧”まで含まれていた。それでフェリシアは圧倒されたかのように黙ってしまった。
こんなジェラルドはとても珍しい。ローゼは少し違和を感じたものの、深く考える余裕がなくてそのまま流した。
「シャルトスってどんな家なんですか。アーヴィンとどんな関係があるんですか?」
ローゼが問い返すとジェラルドはまた茶をすすり、ゆっくりと時間を使ってようやく答えた。
「シャルトスってのはアストラン王国で最も力のある家だよ。当主の身分は公爵。でもって奴は、そこン
「え……? で、でも、アーヴィンの姓は」
「アーヴィン・レスターってのはあいつの本名じゃない。それは神官見習いになったときに……あー、いや、つまり、神官のための通り名みたいなもん、ってことらしいぜ」
「じゃあ、アーヴィンの本当の名前はなんていうんですか」
「エリオット。エリオット・シャルトスだ」
その名前を聞いた瞬間、ローゼの頭の中でカチッと嵌ったものがある。
「それ、だ」
「ん?」
「昨日の夜、女の人がアーヴィンを何か違う名前で呼んでたんです。そのときは聞き取れなかったんですけど、いま思うとあれは『エリオット様』だったな、って……」
「来てたんじゃねえか……くそ」
「え?」
「いや、その、なんだ。ローゼちゃんが見た女の人ってどんな感じだった?」
「あの人は……」
庭園に咲いていた花の香りと勝ち誇ったような女性の顔が鮮明によみがえって、ローゼはきゅっと手をにぎりこんだ。まだ落としていない爪紅は、あのときの花の色によく似ている。
「二十代前半くらいで、金の髪で、青い目をして……白いドレスを着ていて……」
「ああ、あれか。道理で」
言葉の後に「チッ」と舌打ちらしきものが聞こえた。ジェラルドは慌ててカップを取って口に運ぶ。大神殿に戻ってすぐのときもそうだったが、ジェラルドはアーヴィンに「先を越された」ことをずいぶん不快に思っているようだ。
フェリシアは何かを言いたそうだったが、ジェラルドに釘を刺されたのが効いているようで、ローゼをちらりと見たきり口を開くことはなかった。それでローゼはじっとジェラルドの返事を待つ。
当のジェラルドは黙ったままゆっくりとカップの中身をすすり、机の上に置きかけ、思い返したようにもう一度口に運ぶ、という動作を繰り返す。数度の後にようやくカップを机に置くと、うーん、と唸って腕を組んだ。
「あいつには婚約者がいた……いや、いるんだよ。クラレス伯爵っていう家のお嬢さんで、マリエラちゃんっていってな。ローゼちゃんが見たっていう女の人は、そのマリエラちゃんだろうなあ」
婚約者、とローゼは口の中だけで呟いた。誰が告白してもアーヴィンは気持ちを受け取らなかった、その裏にあった事情が分かった気がする。
(なるほどね……婚約者がいたからなんだ。だったら当然だよね。……うん、良かった。あたしはアーヴィンに「好き」なんて言ってない。だから大丈夫、アーヴィンを困らせることになってない。……良かった。本当に、良かった……)
だけど胸の奥が焼けるように痛んだのは不思議だった。
「まあ、なんだ」
言ってジェラルドは顔に満面の笑みを張りつける。
「つまりあいつは実家からの迎えが来たってわけさ。神官から貴族に戻って、昔の暮らしに戻るんだ……」
ジェラルドの眉間に皺が寄ったのはローゼも見たけれど、そこは特に気に留めなかった。公爵家、神官をやめる、婚約者。頭の中はたくさんのことでいっぱいだったからだ。
とにかく、屋敷の前で冷淡な表情を見せていた彼がローゼの知る彼と同じではないという話はよく分かった。確かにあそこにいた彼はエリオットであって、アーヴィンではない。
だけど不思議なことはある。
「……アーヴィンは、どうしてあんなに急に、帰ったんですか……?」
お披露目会の途中で抜け出すようにして去ってしまったのはなぜだろう。グラス村にいるというミシェラはこのことを知っているのだろうか。
ローゼがジェラルドを見つめると、彼はふいと視線をはずした。
「さてなぁ。俺はその辺のことは何も分からん」
【嘘だ。俺はお前たちが大広間でしていた話を聞いた。あれは事情を分かってる者同士の会話だった】
もちろんレオンの声はジェラルドに届かない。おかげでただひとり聞けるローゼの心を
(ジェラルドさんは知ってて答えたくないってこと? でも、どうして?)
「まあどっちにしろ、誰にも何もできねぇよ。シャルトス家には神殿の威光なんてもんは通じねえ。王家だってあの家には手出し不可だ」
「……え?」
「シャルトス家ってのはな、ウォルス教を嫌ってるんだよ。領地の中から可能な限り神殿を排除してるくらいにな。それにシャルトスは、アストランの王家が『掌握できてる』とは言い切れねえ唯一の家だ」
ほんの一瞬だけ、ローゼはアーヴィンのことすら忘れて唖然とした。
ウォルス教はこの大陸にある五つの国すべてで信仰されている唯一の宗教だと言っていい。そのウォルス教――神殿を排除して、シャルトスの領地では魔物にどう対処しているのだろう。小鬼のような弱い魔物たちならともかく、食人鬼や幽鬼のような強い魔物を倒すためには必ず神の力が要るというのに。
(……でも、待って)
ローゼは「神殿が少ない」という場所を知っている。つい昨日のお披露目会で聞いたばかりだし、少し前には夢でも見た。
「ジェラルドさん。シャルトス家の領地っていうのはもしかして、アストランの北方地域にありますか?」
「ん? ああ、そうだ。ローゼちゃんも知ってたんだな。そう、“あの”北方を支配してるのがシャルトス家だ」
ジェラルドは「あの」をことさら強調する。ローゼの手から力が抜けた。
(北方地域……)
少なくとも数百年前から何も変わっていない場所。排他的で、神殿が少なくて、聖剣の二家ですら避ける。そうしてその地域を治める家は、王家ですら手綱を握っておけないほどの力を持っているのか。
(……なあんだ……あの人は、そんな場所に生まれたんだ……そんな家の、息子だったんだ……)
ふふ、と口から漏れる。それはため息ではなく笑いだ。
彼がそんなに偉い人物だとは思わなかったから、素の状態で普通に接してしまっていた。何も言ってくれなかった彼のことは不義理だと思うし、不満だってある。だけど何より、今まで気づかなかった自分の間抜けぶりが愉快だ。
言われてみれば彼の言動は平民より貴族のものに近いような気がした。人当たりが良く、俊栄で機知に富み、世の渡り方も知っていて立ち居振る舞いも洗練されている。権力などに対する反抗心を見せていたのだって身分を持つが故の自尊心だったのだろう。もちろん、ダンスだって知っていて当たり前だ。昨日のお披露目会のような場所にだって慣れていたはず。ならば彼の目にはおたおたするローゼの姿がさぞや滑稽に映っただろう。
(……もともとあたしとは、住む世界が違う人だったわけね……)
つまり彼はあるべき姿に戻り、あるべき場所へ帰った、それだけの話だ。
「ま、こんなとこか」
ジェラルドのほうへのろのろと顔を向けると、彼は頭の後で手を組んで天井を見上げている。
「ローゼちゃんもあいつのことは忘れるんだな。死んじまったとでも思っておけ」
「お兄様! いくらなんでも、そのような仰りようは!」
「じゃあフェリシアちゃんには何とかできるのか?」
口を挟んできたフェリシアにジェラルドは咎めることなく言ったが、
「それは……」
フェリシアは口を閉ざしてしまった。
頭の後ろの腕を下ろして机の上で組み、ジェラルドは青の瞳をフェリシアに向ける。
「相手はシャルトス家なんだ。変に期待を持たせるのはやめろ」
いつもの陽気な姿が嘘のようにジェラルドは静かだった。その分だけ妙な迫力がある。
フェリシアがうなだれた。それを確認したジェラルドがローゼを見る。
「ということで話はここで終わりだ、ローゼちゃん。もう一度言うが、あいつのことは忘れるんだぞ。間違っても『追おう』なんて考えるなよ」
これ以上は協力するつもりがない、とジェラルドの表情は語っている。
分かっている。ローゼだって彼が幸せになるのを邪魔するつもりなどない。
「はい」
落とした視線の先には一度も口をつけていないカップがある。そこに立ち上る湯気はとうになく、琥珀色の中で部屋の天井がゆらゆらと揺れているだけだった。